ヨブの気持ち
オットォの失業状態が長期戦になってから色んなお方にご心配をおかけしてオットォに言いにくいことは私に言う人がいます。皆さんご親切に「大変ねえ」と同情して下さるうちはよいのですが遠くから「ああしたら、こうしたら」とか「私だったらこうする」などと言われることがあります。心配してくれているのはありがたいけど正直、かえって辛くなったり、不愉快になることがあります。(それを言う人にもよりますが)ずいぶん勝手なことを言うなあ、本当に心配してくれているのなら具体的に手を差し伸べるか私にではなくオットォに言って欲しい、…なんてね。そんな時、旧約聖書の『ヨブ記』をふと思います。ヨブは信仰者ですが、サタンがヨブの信仰を試すためにありとあらゆる試練を与えます。友人たちは以前、ヨブのことを褒め称えていたのにヨブが試練に会うと「ヨブが神の前に罪を犯したからだ」などとヨブを諌めます。それでも自分の潔白を訴えるヨブを「その態度が奢り高ぶっているのだ」ともっともらしい信仰的な言葉で苦しめます。私はヨブのように正しい人ではありませんが人が不幸に会うのは「因果応報」のためだけではない、この世には、人間には計り知れないことがあるのに人が他人の不幸をまるで何もかも分かっっているかのように語るのは愚かしい、ということを教えてくれます。話がそれました…ヨブとは次元がちゃうやろっ!って突っ込まれますね。我が家の場合は因果応報かもね^_^;それでも分かった風に言われるのは不愉快です。まあ…みなさん悪気はないのだし私も『人の振り見て我が振り直せ』でひと様にご意見するときにはせいぜい気をつけよう、と思うのでした。