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愛猫ぽん君との共生記&日々自然観察日誌

監督と甲子園

【監督と甲子園3】
斉藤監督の野球部に対するご尽力の凄さがひしひしと伝わりました。
まだ購読されていない銚商ファンの方等にご覧いただきたくて本文を記しましたのでご覧ください。

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親子二代で挑む母校の勝利

はるかかなたに見える父の背中を心の中で追いながら

斉藤俊之監督 銚子商業(千葉)

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いつもより深く、いつもより重く父を思った一年だった。
平成七年の出場以来、十年ぶりに夏の甲子園に戻ってきた銚子商。
率いるは、黒潮打線なる異名を取り、
全国制覇も果たした名将・斉藤一之監督の血を受け継ぐ斉藤俊之監督である。
突然の指名によって、安定したサラリーマン生活を捨て名門復活にすべてを注ぐ。
それはいわば、命がけの挑戦。
親子二代、その絆によってチームに新たな歴史が刻まれる。
(平成17年11月取材)


 時にこぶしを握り締め、時に高い空を仰ぎ見て、祈るように父を思った。(親父力を貸してくれ)と、、。

 
 銚子商の名を全国にとどろかせ、名将として知られる故・斉藤一之監督の長男・斉藤俊之監督が同校の指揮官として采配をふるうようになったのが、平成13年の6月。7年夏以来、甲子園から遠ざかっている名門チームの復活を託され、五度目の挑戦となった17年の夏、ついに念願の千葉県制覇、そして甲子園出場を果たした。
「95年の前が85年。10年サイクルの出場なら今年こそといわれ続け、プレッシャーは相当なものでした。ありがたいことに銚子商にはファンの方がたくさんいて、強豪私学が台頭し生徒は普通科という、親父のときとは時代背景が全く違うのに、常にチームは強く甲子園に出場するのが当たり前と思っています。もし甲子園にいけなかったらこの先永遠に行けないといった悲観的な声もあり、この1年、本当に死に物狂いでした」
 何としても甲子園へ行く。始まりは忘れもしない。前年の夏の7月15日だった。県大会でよもやの2回戦負けを喫し、学校にもどるバスの中で一度は辞任を決意した。が、正門前でバスの到着を一人待っていてくれた教頭先生の言葉に励まされ、「こうした人々のためにもがんばろう」と心を新たにしたという。
「気にするな、生徒が待っているじゃないかと声をかけてくれました。もしその言葉がなかったら今の私は間違いなくありません。翌日1、2年生を集め、言いました。高校野球を通じて社会に適応する、何事にも一生懸命な人間になってほしいというのが私の願いだけれど、でもそれだけじゃだめなんだよ。うちは勝たなくちゃならない。何が何でも勝つんだ。そのために精一杯努力しよう、と」



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心はひとつ

 選手達が自ら作った合言葉がある。以来、全盛時をしのぐ猛練習が連日にわたって行われ、夏の終わりには多くの選手達が極度の疲労を抱え、練習試合は連戦連敗になるほどだった。
 そんな苦闘を乗り越え、絶対にセンバツに行くんだと誓って臨んだ秋の県大会だったが、チームは無念にも県大会準々決勝で敗戦してしまう。
「試合後のベンチ裏は、さながら最後の夏を終えたような光景でした。思いを遂げられずに大泣きする選手を見て、さしもの私も泣けましたね。でもこのチームでもう一回チャンスがある。そのあとはこれまで以上に、絶対という言葉を使いました。絶対に勝つ。数え切れないくらい。どんな相手にも絶対勝つんだと、そう言いつづけていったんです。」
 
 秋の敗戦は、一方ではこれまでの過ごし方を見直す機会を与えた。何かが足りないと感じた斉藤監督は、冬場のトレーニング期を迎えるにあたってある試みを実行。それは、選手一人ひとりとの面談だった。
「まず指導者サイドで選手おのおのの課題を考え、選手自身からもこの冬どのようにすごすべきかを提案させる。これにチーム全体の目標も加え、徹底させました。また、技術面だけではなく、私生活のことや進路希望などをざっくばらんに話し合い、選手を知る意味で非常によかったですね。中でもレギュラー外のある選手の言葉は、今も心に残っています。会話の最後に何か他に言いたいことはあるかと尋ねたら、涙を浮かべながら言ったんです。 (監督さん、僕のような力のない選手の事もみてください)と。ハッとしました。気づかないうちにやはり力のある選手ばかりに目がいっていたのでしょうね。それはあるべき姿ではないなと思い、言ってくれてありがとうと答えました。私の現役時代、監督というのはただ怖く、父といえども話ができるような存在ではありませんでしたが、そういう雰囲気を私も自然に作ってしまっていたようです。時々自分でも意識して冗談を言うようにはしていましたが、以降はより一層選手の中に入っていくように心掛けました」
 
 鍛えることが中心で、野球以外の会話があまりに少なかったと反省した。必要なのは、監督と選手が一体になること。「そうでないとトップの座は見えてきません。全員が地元選手で、強豪私学へ行けばレギュラーになれる選手はおそらく少ないでしょう。でも一日1000本、一冬で10万本バットを振り、伝統のランニングやサーキットトレーニング。それらにとことん取り組んで、冬を越したとき、選手たちの体は一回り大きくなった。精神的にもたくましくなり、私が監督になったころの選手は、怒ってグランドから出ろと言ったら本当にでてしまうタイプでしたが、今は絶対出ません。チーム全体としても非常にまとまりを感じています。全国優勝した30年前に彼らをワープさせても通用する、決して負けないチームです」
 
 ちなみに選手との面談を通じて行ったのは、PDCA と呼ばれる人材育成方法である。PはPlan、Dはdo、Cはcheck、Aはactで改善。こうした計画から改善に至るプロセスを、さらに次の計画に結び付けていくことに大きな意味がある。 斉藤監督は就任前の約20年間、企業で人事総務に携わり、人対人の仕事に長くかかわってきた。そのノウハウが、自然に生かされたかたちだった。 


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【お前ら、最高だ!!】


 翌春、斉藤監督は確かな手応えを感じていた。ハイと返事をしながら自分で貫き通す強さを持つ、主砲の福田力斗遊撃手(住友金属鹿島)。エースの遠藤晃投手(JFE東日本)は肝心なところで弱気になる性格をとがめられ続けてきたが、あるとき「 俺は 小心ものじゃない!」と監督に言い返し、その後大きく成長した。
「他の選手も含め、彼らと交わし続けた会話はすべてが貴重な思い出です。」
 
 思いがけない出来事もあった。それは、30年前の自筆の日誌が見つかったことである。高校時代書き続けたミーティングノートで、監督である父の言葉や、そのときの自分の気持ちが詳細につづられていた。
「たまたま部屋を掃除していたら出てきたんです。これがとても参考になりました。頭の中では記憶しているつもりでしたが親父が何を言っていたかをはっきり知ることができたし、自分の言葉も選手の立場を知るうえでとても役に立ちました。おふくろをはじめ、試合の先々で親父を知る指導者の方にかつての話を聞くのですが、このノートの出現でより深く親父を思うようになりましたね」
 
だからこそ、父に祈った。

 総決算になる夏の県大会では、勝ち抜くための7試合を5と2に分け、最初の5試合はミスがあれば事細かに指示し、学校に戻って徹底的に反復練習をさせた。そして残りの2試合については、何もいわない、すべてを選手に任せて伸び伸びプレーするようにさせた。
「私も選手も、それまで大変なプレッシャーを抱え戦ってきました。準決勝の前夜に言ったんです。後悔のないようお前たちに任せる、思い切りやろうと。ひと大会で両極面を使ったことになりますね」

 千葉マリンスタジアムでの決勝は、拓大紅陵を相手に延長戦となる壮絶な戦いとなった。そのとき、斉藤監督から思わず口にでた言葉がある。

(お前ら、最高だ!!)

「監督って時には演技もしますが、このときばかりは計算もない、打算もない。投手が打たれ、守りのミスもでたけれど、中盤しのいで終盤が勝負だと言ったらそのとおりにやってくれて、彼らの姿を見ていたら心の底からそんな言葉が出たのです。もっとも、言われた選手はかなりびっくりしたと思うけど」

 心はひとつ、絶対勝とう。最後に上がったレフトへの大飛球を目で追う自分は記憶しているが、あとはもう何がなんだかよく覚えていない。しばしの時を経てようやくロッカールームに引きあげると、監督を待ってましたとばかりに出迎えてくれたのが、失点に絡むエラーをしながらも決勝のヒットを放った福田だった。選手の中で誰よりも早く涙を見せたヤツが、最高の笑顔で監督に抱きついた。
「待っていてくれたんです。一生忘れないでしょうね。こいつらとやれてよかたと、本心から思いました。今振り返ると甲子園に行けたのは何か見えない力があって、行きなさいよとレールが敷かれていたような、そんな感覚があります。亡くなってもう16年になりますが、大会前の1ヶ月に三度も親父の夢を見たという父兄までいて、やっぱり親父が陰でチームを引っ張っていたのかな、と(笑)」

 念願の甲子園大会は、初戦は鳥取西を破り久々に校歌を歌えたものの、次の樟南戦では完敗。何度も天を仰ぎ見たが、父は2勝目を与えることをしなかった。
「もっともっと頑張りなさいということでしょう。全国で勝ち抜くためにはまだ多くが足りないことを実感しました。でももっとも大きかったのは、私は一度でも甲子園に出場できたら自分がこの世から消えてなくなってもいいとさえ思っていたのですが、それがガラリと変わったことです。大いに欲深になりました。」
 2週間ほど宿泊していたホテルの監督室は、窓が大きくその向こうに緑豊かな公園と、夜のネオンが美しいオフィス街が見えた。深夜カーテンをそっと開けて、何度も何度もつぶやいた。

(夢なら覚めないで、、、、)

「どんなにしんどくてもやり続ける諸監督の気持ちが初めてよくわかりました。親父が命をかけてやってきたことは、本当にすごいことだったんですね。甲子園は聖地。魔物もいたけど、また行きたいと思わせてくれる場所でした」


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【今言える、甲子園は私の夢】


 グランドでは厳しい言葉を投げかけ、容赦なく雷を落とすとは思えないほど、丁寧な口調で話す斉藤監督。がっはっはと豪快に笑っていた 故・斉藤一之監督とはまた違い、その表情に、根底にあるやさしさとナイーブさが感じられる。
 「親父は確かに厳しくて、グランドでは気配りのかけらも見せなかったけれど、でもおふくろをはじめ親父をよく知る人はみな言います。いつも人のことを思っている、温かい人だったよと。私の場合、野球ではボコボコにやられた記憶しかなく、今もヒザにスパイクで蹴られた傷跡が残っているんですが(笑)
、高校卒業時に二人で外食して祝ってくれたことや、私の結婚式前夜、明け方まで酒を飲んだことなど、父親としての素朴な姿もとても印象に残っています」

 そんな父の監督としての苦悩を、小さい頃から垣間見てきた。昭和40年夏の甲子園で準優勝し、49年夏の第56回大会では神業的な強さを発揮して、並みいる西の強豪を相手に失点わずか1で全国制覇。千葉市から銚子市まで80キロにもおよんだ優勝パレードでは約30万人もの人々が沿道を埋め尽くし、全国にも数多くのファンを作ったが、反対に負けるとこれがまた大変だった。自宅には抗議の電話が鳴り続け、石まで投げ入れられたこともあるほどだ。
 試合のときだけではない。銚子商には通称「土手クラブ」なるファンクラブがあって、週末ともなるとグランドの土手にどっかと腰を下ろして選手たちを見守っている一般市民がいる。漁業の街で知られ、銚子半島一帯の海岸線は犬吠崎を中心に岬や断崖絶壁と荒々しい風景が続くが、人々の気質もどうやらそれに似たところがあるようで、選手の動きに対して「何にやっとるか!」と容赦ない叱咤を飛ばすのだった。

「私も就任直後の試合で負けたとき、(斉藤、お前が悪い!)とビールの缶まで投げつけられました。それを私は子供の頃から見てきましたから、監督になるなどとんでもない、むしろ長い間、銚子商の野球部に必要以上近づかない、避けていたくらいです。」

 にも関わらず、父のいる野球部に籍を置くことを決断したのは自分自身だった。高校進学の際、成績が優秀だったこともあって前々から市内の進学校へと決めていたのだが、父親の全国制覇がちょうど中学三年のときである。気持ちが揺れないはずはない。

「願書を出すその日の朝まで迷いました。一度は前日に市立校に行くと両親に告げたものの、このとき親父がとても悲しそうな目をしましてね。その目を見て、迷ってしまいました。結局、明け方まで考えに考えて、ついに親父のところでやると言いに行った。一度男が決めた事を簡単に撤回するものじゃないと叱られましたが、後々におふくろから聞いた話によると、親父は自分のところで野球を続けてほしいと願っていたそうです。」

 入学後は、もちろん親子として会話などないに等しかった。むしろ見せしめ的に頻繁に怒られ、耐えに耐えた高校生活だった。
 でも、ある日を境に父と相対することができるようになったという。きっかけは、二年の夏、甲子園2連覇を狙う習志野との県大会準決勝で、延長10回にレフトスタンドへ放ったサヨナラホームランである。
「これで本当の銚子商野球部員になれたと思いました。以来周囲の人々も、監督の息子からやっとチームの一員としてみてくれるようになりましたね」
 2年夏に続いて3年春の選抜にも出場。主将となってチームを引っ張ったが、一方で弱いポジションがあると次々にコンバートを言い渡され、守ったポジションは二塁、遊撃、さらには捕手も経験した。「たらい回しだった」と苦笑する。

「でも銚子商とのかかわりはここまでの予定でした。大学のとき体調を崩した親父を何度か手伝いには行きましたが、社会人野球に進み現役を引退してからは完全なるサラリーマン生活。野球のやの字もなかったのですが、、、。」
 それが、平成13年、前監督が突然の辞任で指導者不在状態に。過去何度か候補として名前があがったことはあったが、本人への打診とまでは至らなかった。ただ今回ばかりは人選が難航し、最終的に後援会からぜひにと指名されたのだった。
「三度断りました。教員ではなかったし、どれほど厳しい仕事か誰よりもわかっています。それなのに、何で引き受けたんでしょうね。選手たちが可愛そうだと思ったことと、やはり母校愛かな」

 同居する母親は、首を大きく横に振って反対しました。夫に加え息子まで。苦労することは目に見えている。事実、斉藤監督は就任して2年後、極度のストレスから大病を患っている。
 故・斉藤監督も全国制覇のあとは体調を崩し、入退院を繰り返していたという。ストレスからだろう、お酒を好んでいたことはよく知られており、平成元年11月、定年退職の年に肝不全で亡くなった。

「でも私は大丈夫、甲子園に出場でき、また新たなエネルギーがわいてきましたから。今、グランドに出るのが楽しくてしかたありません。こんな気持ちは監督になった当初は全く抱けず、ただただ必死で夢を持つなどとんでもなかったのですが、今はいえます。甲子園が私の夢です。親父のことを本当に理解でき、自分から周りの色々なことに目を向けられるようになって、ここ1、2年でちょっとは成長できたかなと自負しています」

 つい先日、父の頃からチームを支え現在も監督の右腕的存在である坂中進コーチから、こんなことを言われた。

(監督らしい、いい顔になってきたよ)

「うれしかったですね。勿論指導者としてはまだまだなのですが、一年一年、一生懸命やりたい。親父の記憶は偉大すぎて到底かないません。あくまで、私らしく。そんな私を公式戦の朝、母が昔と変わらずとんかつを作って送り出してくれるんですよ」

 この冬は昨年以上のトレーニングを課す予定だ。そして、目指すは夏の甲子園。関東再東端の犬吠崎は、季節により地軸の傾きが変化することから、山頂・離島を除き日本で一番早く初日の出をみられる場所である。
 誰よりも、どのチームよりも早く、甲子園への誓いを新たにすることだろう。
「必ず行きます、きっと。あとは、なんと、息子が中3で高校受験なんです。全国制覇と甲子園出場では大きな違いがありますが、くしくも私と同じ状況になってしまって。でもこればかりはやっぱり本人次第。親父がしたのと同じように、息子の選択を尊重したいなと思っています」

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※ 著者あとがき 

迎えた冬を、例年以上の練習を積んで鍛え上げたという斉藤監督。夏に続け、ではなく、気持ちをゼロにして「今年こそは」と、チーム一丸新たな夏に向かっている。
「銚子商の黄金期と同じくらいの厳しさに、今戻しているところです。それは本当につらく、厳しいものですが、時間の経過とともに選手も当たり前のように受け入れてくれ、当時の再現は決して不可能ではないと思っています」
 チームの勢いを一過性で終わりたくないとの思いは指導者も選手も一緒。H18春の県大会では準優勝し、「大いに手応えを感じています」新入部員も例年以上の23人が入部。その中に長男・之将もいる。県内の私学にも合格したが、最終的には彼自身が銚子商を選んだ。進学先についてはすべて本人に任せた斉藤監督だが、「もし私学に行くといったら、やっぱり複雑だったかな。」グランドではめったに会話することはないが、家に帰るとごく普通に親子の会話があるそうだ。
「そのあたりは、親父と私の関係のときとは違う。時代なんでしょうね。自然なかたちで、話をしています」

 ところで、かつての野球部では監督が指示しない限り自分の意思でのコンバートなどありえなかったが、斉藤監督はH18年春の大会後、それぞれの希望を聞くシステムを導入している。練習の厳しさは変わらないが、こうした一人ひとりに視線を送る、そんな配慮も欠かさない。長男・之将の場合は内野手として入部したが、本人は外野もやってみたいと希望している。足の速さも魅力とか。

 甲子園で、親子鷹として活躍する日が待ち遠しい。


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【監督と甲子園3】 藤井利香 日刊スポーツ出版社より(一部省略)
          平成18年8月10日 初版第1刷発行 

  


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