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カテゴリ:ものづくり
ず基本的な新車(しんぐるま/水車本体)が設置されたのは、江戸時代においても庶民文化が盛んだった文化文政年間の文化5年(1808年)頃のこと。 当初の水車は現在のものよりも小さく、接続されていた作業機も少なかったと言われているが、原型の新車自体の設計が良かったこともあり、接続駆動される付属装置は次第に増えていったという。 その結果、江戸、明治、大正の各時代にわたって、新車本体、付属の作業機の全てに対して時代ごとの改良を重ね、実に1968(昭和43)年まで実用機として稼働するという息の長い機械として地域の人々の役に立つこととなる。 最終的に現在の形となったのは、大正時代の大改造以降とも言われている。すでに蒸気機関やガス機関が普及し始めていた大正時代においても、動力源としての水車の重要性が決して失われていなかったという事実が興味深い。 ここで旧峰岸水車場の仕組みを詳細に観察してみよう。 それは当時の職人の英知の集大成というべき精密なものであり、まずメインの新車/水車から導き出された動力は、万力と称されていた複数の木製歯車で各部に振り分けられていたのだが、その数は実に19個というもの。 これらによって同時に駆動される作業機は、脱穀・籾すり用の搗臼14個(四斗張り12個/二斗張り2個)、製粉用挽臼2個、完成し挽き終わった粉とふすまを分けるやっこ篩(ふる)い1台、穀物を挽臼にまで持ち上げる「せり上げ(昇降機)」2台というもの。 これらが連携し整然と稼働する様は、当時のこの地にとって、ある種の産業革命に等しかったことは想像に難くない。 旧峯岸水車場の一連の機械群は、欧米の産業革命と一線を画していた近世日本における、奇跡の複合作業機に他ならなかった。 基本設計がいわゆる産業革命以前のものにもかかわらず、日本機械学会によって機械遺産に認定されたのも、当然というべき見事な装置である。 引用サイト:浅野良(フリーランスノンフィクションライター)記事 こちら 機械遺産 こちら お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2023.06.30 19:20:45
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