アーカイブ:神戸の布引遊園地、公園制度の原点に
明治初期の布引周辺を描いた「神戸古版画集」。多くの店が並び、にぎわっているのが分かる(神戸市立中央図書館蔵)© Copyright(C) 2022 神戸新聞社 All Rights Reserved. 明治初頭、神戸港の有力者たちで組織する民間企業「花園社」が整備した布引遊園地。神戸大学特命講師の小代薫さんによると、彼らの動きは神戸特有で、結果として日本の公園制度の整備につながったという。 19世紀後半に発足した明治新政府は、体制転換の直後で財政難に苦しんだ。当時の大蔵省は全国にある官有林を民間に払い下げる(売却する)ことで当面の財源を確保しようとしたが、そこで布引遊園地の中にある官有林が問題になったという。 その理由を小代さんは説明する。 「大蔵省から払い下げの命令がきた際、遊園地は整備をほぼ終えていました。せっかく整備してにぎわい始めたところなのに、樹木を伐採してしまうと台無しになりますよね」 両者の間に入ったのが、当時の兵庫県知事だった神田孝平(たかひら)という人物だ。大蔵省の言いなりにならず、逆に布引遊園地の重要性を国に説いたという。 一体、どう説得したのだろうか。「簡単に言うと、官有林を伐採して売るよりも、行楽地として繁盛させて課税した方がいいですよって伝えたのです」 明治5年のことだ。そして、なんとこの案が通った。そればかりか、妙案を得たとばかりに太政官(だじょうかん)(国の最高行政機関)は翌年、公園設置の布告を全国に発令。これにより、日本の景勝地や寺社境内地、城跡周辺の緑地が伐採されずに保護されることになったのだという。 小代さんは強調する。「布引遊園地に関わる神田の発想と行動は、日本の美しい自然景観や行楽の場を残すことにつながったと言えます」。背景には、経済学者でもあった神田が、居留地の外国人が公園整備を行う様子を知事として見届けていた経験が大きかったと指摘した。 「明治初頭という同時期に、神戸の近い場所に二つの遊園地(布引遊園地と東遊園地)ができたことは偶然ではありません」 今も形として残っているのは東遊園地だけだ。ただ布引遊園地の残した恩恵、緑豊かな自然風土は、現代に生きる私たちも確かに享受している。(安福直剛)引用サイト:神戸新聞NEXT/神戸新聞社 こちら公園緑地制度の歴史 こちら神戸市布引周辺 mdai.jpより追記公園の発祥 の原点 となった明治6年 の太政官布達に よると,公 園設置 の要件 として2つ 挙げ ている。1つ は地盤が官有地 であること,も う1つ は 「群集遊観 ノ場所」である こと,こ の2つ である。太政官布達の反響は,当 時の混沌 とした社 会情勢にもか かわ らず,意 外に早 く全 国的 にあ らわれ た。西南の役が終 結 した明治10年 までの僅 か5年 間の間に,開 設公園数67ヵ 所 に達 し,そ のあ との10年 間における開設数を遙かに上 回る結果を示 した。しか しながら,布 達は 「群集遊観 ノ場所 」 としている以外 に選定 の規準を示 していなか ったため,さ まざまの公園 が輩 出 した。それ らは立地条件に よって,日 常生活圏 内にある真正の都市公 園的 タイプと,そ の圏外に出る郊外公 園的 タイプに分け ることがで きる。 前者は金沢兼六公 園な どに典型的にみ られ る如 く,庶 民 の利用度 も高く,公 園の整備にもそれ相応の努力がみ られた。 それに反 して,交 通の便 も悪い郊外公園的 タイ プとな ると,人の足 も遠 く,た だ名称のみに とどまる公園 も少な くなかった よ うである。 これ らの公園が脚 光を浴 び るよ うになるのは,都 市化の進展が活発にな る明治後期 頃か らである。引用:こちら参考サイト:『鳥取城調査研究年報』第4号 こちら