2007/03/07(水)22:34
崩壊する旅の一座
1993年の教育雑誌にある中学校の教諭が入学式の不調を引き合いに論説を建てていた。
「ガムを噛みながら入学式に臨む親子、同窓会の如く私語をやめない若い母親たち」
15年も前に既にこうである。給食費未納問題も推して知るべし。
論説は続く。
地域の一部として機能していた頃の学校は、地域の中で役割を演じていればよかった。様々な先生がいて、それぞれが子どもらにちょっかい出し、怖かったり、面白かったり、学校に迷惑をかければ親が謝りに行ったり、叱られたり、ほめられたり、その全てが「約束事」の範囲で進み、地域が、いやひょっとすると日本が、その安心なルーチンに乗り、学校文化と地域文化の相容れ無いながらも、さしずめぴったりとはまる二対のジグソーのピースのように互いを必要とし、小中高とスパイラルに社会に組み込まれていたのだ。
安心が永続するという幻想の中で、学校はぬくぬくと呼吸していた。
そして、地域が変容を始める。
核家族や価値観の多様な家族が、地域のコミュニティを遠ざけ、自らのライフスタイルのみを謳歌する別の「安心」にシフトしていく。
他と関わることのない「安心」だ。
地域の形成単位である、その一家族一家族が、オセロのコマを返すように、別の安心にシフトしていく。表向きは、学校とうまく折り合いを付けながら。
学校は変わらない。相変わらず20年前の行事を20年前のマニュアルで実施している。
変わらない学校と変わる地域の形成。
地域の中で一定の役割を演じていれば、免罪符を得ていた学校文化は、対となる地域を失い、とまどい始める。
「俺たちは今まで通りにやっているのに、何故、うまくいかないんだ。」
そんな、論説読んでこう思ったよ。
人情芝居で長年ドサ廻りを続けている花形座長が言う。
「切ったふりすりゃ、悪人役のヤツは倒れてくれる。歌舞伎みたいな見栄を切れば、周りの役者がこっちを注目してくれる。決まりの台詞で客はもらい泣きだ。」
しかし、こう続ける。
「最近、切っても倒れてくれねーし、見栄を切っても、役者の半分は客の方を見て自分の台詞を言ってやがる。決まりの台詞を言おうと思ったら、大道具のヤツが幕を早めにひいちまう…。」
実は、花形だと思っていたのは、座長自身の勘違いで、周りがもり立ててくれていたのを知ってか知らずか図にのっちまってたってわけだ。
今の学校現場は、そんな崩壊寸前の人情芝居の楽屋裏だ。
面白くない芝居は、ヒトが入らなくなる。ここは一つ。学校と行政が地域にハッパをかけ、地域を再構築し、地域が真っ当な意見を「やんわりと」学校へぶつける体制を作り、学校の「勘違い座長」体質をなんとかし、その対の関係をなんとか時間がかかっても立て直し、ヒトが入る人情芝居ができるよう、あたらしい「演じる」関係を築きあげよう。
もし、その座長が末期ガンなら、せめて「勘違い」を続けさせてあげよう。2代目に最初から教えたほうが、まだ見込みがある。
いや、学校と地域が本気で意見をぶつけ合う関係が大事だ!できレースなんてとんでもないっていうヒトもいるかもしんない。でも、いいかもしんないけど、その芝居じゃヒトははいんないよ。きっと。
だって、観客は「こども」だもん。
家庭は、四の五の言わずに地域に帰ろう。学校も、めんどくさがらず地域へ帰ろう。先生も、遠回りでも地域に帰ろう。行政も、金を渋らず地域を育てよう。
役者がホントにいい芝居をしたいと願い、そうなるよう努力すれば、子どもは芝居を見に来る。
みんな、エライ先生の言うことに従って、教育再生の方向を間違えませんように。