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PPK手帳2018

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2018.07.09
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カテゴリ:回想

「まるで Eテレ!?」。60年前の読売テレビの基本番組表を見た人がおどろくのは無理もない。幼稚園から高校までの学校めぐり。堅いタイトル。書いている当人もそう思っている。
それらの番組を担当した昔を思い出せと社報担当。きのうのことも忘れる歳ごろだが門前払いはしゃくのたね。認知症予防の薬になりそうだ。これから先は手当たり次第に書くことにしよう。

まずは、テレビの歴史を振り返る。
といっても、ぼくがテレビに入った昭和33年当時のことである。

NHKが放送を開始したのは昭和28年2月、同年8月に日本テレビが放送を開始した。「白米10kgが680円、銭湯の入浴料が15円程度であった当時、受像機の価格が高価(20万〜30万円程度)で一般人には買えないため、多くの大衆は繁華街や主要駅などに設置されたテレビや喫茶店、そば屋などが設置したテレビを見ていた。当時の大卒サラリーマンの初任給は1万円未満、庶民には高根の花だった。(ウイキ)

そんな時代、昭和29年から4年間、ぼくが過ごした学生尞にはテレビはなかった。ジャーナリストの道を目指し、もっぱら新聞を読み、ラジオを聴いた。街頭テレビの前でプロレスやボクシングなどに熱狂する群衆は無縁の世界だった。昭和33年の春、奇跡的にテレビに入社した。配置先は教育教養係。いきなり、多数の番組を担当した。

日テレでの特訓中、責任者の加登川校長に「ディレクター イズ キング。このスピリットで仕事に励め」と激励してくれた。なにごとも自分で差配しなけれはならない。すべての責任を持てという言葉だった。ひと様に甘えるな。働く時間を意識したことがなかった。



テレビ受像機のチャンネルは6どまり。近畿一円の小学校をたずねる「私たちの学校」は、後発のテレビ局を知ってもらう「販促装置」のひとつであったと後世の人は評したが、僕たちは必死だった。

担当した番組は昭和33年11月19日の大阪市大正区の北恩加島小。天真爛漫の書家、榊莫山先生が指導された大阪市立真田山小、京の清水小や渡船場近くの野里小などを思い出した。

先週、北恩加島小卒の佳人から「同窓会をひらくきっかけです。その節はぜひ・・・・!」と電話あり。当時の出演者とのご対面である。思いがけない展開にどきどきわくわくしている。







Last updated  2018.07.09 20:17:00
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ひろまん2018@ Re:playback 60年前の今頃 まるで Eテレだね!? 3(07/09) 昭和36年の憲法記念日。僕たちの結婚式に…
ひろまん2018@ Re:playback 60年前の今頃 まるで Eテレだね!?(07/02) 大阪市大正区の北恩加島小児童の感想文で…
林です。@ Re[2]:69年目の終戦記念日 国東半島への機銃掃射(08/15) ひろまん2018さんへ 何度もすみません。 …
林です。@ Re[2]:69年目の終戦記念日 国東半島への機銃掃射(08/15) ひろまん2018さんへ お返事いただきありが…
ひろまん2018@ Re[1]:69年目の終戦記念日 国東半島への機銃掃射(08/15) 林さんへ 懐かしい記事です。お目に留ま…

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