67年前の夏を思い出せ! その1 台北大空襲
9歳の夏だった。天皇のことばは難しくて理解できなかったが、周辺の状況から敗戦であることを知った。そのあと自転車で河川敷へ行きぐるぐるぐると周回した。犬ころみたいに。理由はわからない。8月15日の記憶はそれだけだが、河川敷は台北市古亭町に近い川だったとずっと思いこんでいた。が、そこは桃園県大渓鎮。疎開先の家があったところである。米軍による台北空襲で最も被害が大きかった1945年5月31日、台北城内の軍事施設や台湾総督府を含む主要官庁などが3,800発の爆弾に見舞われた。一般市民の被害も顕著で、約3000人が死亡、重軽傷者や家屋を失った者は数万人以上といわれている。その日、直撃弾をくらった。母と姉と兄とぼくは潜り込んだ防空壕のおかげで助かったが、屋敷は吹っ飛んだ。裏手の方で泣き叫ぶ声を聞いたような声がする。犬がいたがどうなったか、イマの今まで気づかなかった。総督府にいた父も幸い難を逃れた。ウィキに「台湾大空襲」時の写真があった。朱色のマークは着弾略図である。3枚目は当時の台北市街地の俯瞰図を再現した加藤寿子さんの労作の一部。右上に台北駅があり鉄路の方向から位置を重ね合わせることができそうだ。《その日(台北大空襲)から2ヵ月後、終戦を迎えました。疎開先の大渓は山河に囲まれ、あなたは廟の一部を使った学校で勉強をしました。11月に台北に戻りました。翌年の春、あなたは昭和(錦)小学校の4年生になりました。国民政府の統治下です。「三民主義、吾党所宗…」と続く北京語の国歌を忘れないように歌っていました。覚えていますか。》《 》のなかは『孫たちへの証言第15集』(新風書房)に記載した姉の一文である。被災後、知人宅にころげこみ、何日か経って大渓鎮というところに移り、丘陵地の長屋に住んだ。近くの川で兄とさかなを追いかけ、入り組んだ寺院で隠れん坊をして過ごしていたのだろうが、記憶のかけらも現れない。そもそも先生はいたのかな?11月に台北に戻り、瓦礫と化した我が家の前の中山さん宅(日本に引き揚げて空き家)に住んだ。こちらも爆風で損傷していたと思うが、住めば都であった。ぼくと兄は、瓦礫の山から使えそうなレンガや銅線などを掘り出し、リヤカーで運び、路傍で売ったかすかな記憶がある。おやつを買いたい一心だったのか、家計の足しにしようとしたのかわからないが、こんな少年時代を過ごしたとを、わたしの息子たちは知らない。この間に、兄の持病のぜんそくが悪化、医者を探しているうちに20歳で死んだ。3月24日だった。父は国民政府から徴用を受け多忙であった。台湾の植林につくしてきた父はこの国のために骨をうずめるつもりであったが、息子の急逝に落胆し、最後の引揚船に乗ることにしたと母に聞いたことがある。《4月1日、くるぶしまであるお兄さんの防寒コートを着こみ、大きなリュックを背負い、米軍のリバティ船に乗りました》。『孫たちへの証言』の続きを書くことにした。どこまで記憶をよみがえらせられるか、つとめてみたい。8/15