2021/08/06(金)21:42
8月6日の夜に。
この日を期して,たまには思うことを綴ったりもしたのだが,それを何回も続けると勢い書くべきこともなくなってしまう。いうまでもなく私は被爆体験者ではないから,被爆者だった母方の祖父(母は1943年生まれだったので私はいわゆる被爆2世ではない)の体験を聞いたことを綴るほかない。正直,もっと聞いておけばよかったなと思うのだが,その母ももういない。
1945年の今日,母方の祖父は偶然入院していた広島市内の病院で被爆し,その日のうちに三次まで逃げて,府中市の自宅まで帰宅したことは聞いているのだが,その時の様子がどんなものだったかと言うことまではもちろん聞くよしもなかった。祖父が亡くなったのは1972年,確かに私も生まれているが当然直接聞けるわけもない。きっと筆舌に尽くしがたい地獄絵図だっただろうと想像するほかないのだ。
これもかつて書いたところだが,祖父が広島から逃げ帰ったあと,とにかく体の中から消毒するのがよいということでずいぶん酒を呑まされたらしい。しかし時代が時代,まともな酒があろうわけもなく,さらに呑まされた「酒」の中にメチルアルコールが混ざっていて,失明してしまった。これだけでの大きなハンディキャップなのに,祖父がそれまでしていた仕事ははんこ職人。もちろん目がやられたらできよう訳もない。祖父の支えを失った家庭は,ずいぶん窮乏したらしい。
亡くなった私の母は,とりあえず高校ではずいぶん成績もよかったようなのであるが,結局大学には行けなかった。そして某銀行に就職が内定したところ,家が貧乏と言うことでそれが取り消されたということもあった。まあ,地元で就職してそこで結婚していたら,今の私は存在しなかっただろうからそれはそれでよいのであるが,これもまた被爆ということがもたらした副作用なのかもしれない。
それでも,祖父は非常に弁が立つ人だったので,被爆者団体で弁舌を振るったりもしたらしい。そして亡母も勝ち気で弁が立つ人だった。それが今の私にどれだけ受け継がれているかはなんとも心許ないが,我が娘を含めて後世に対し,おかしいことはおかしい,悪いものは悪いということを言い続けていかねばならないだろうと思っている。そうでなければ,亡母や祖父,そして祖父が働けなくなったあとひとりで家計を支えた,かつ私を内孫のようにかわいがってくれた祖母に申し訳が立たないというものだ。
で,まったく話は変わるが,だからこそよそ者たりとも広島に50パーセントのルーツを持つ者として,今のカープを座視するわけにはいかないのだ。一軍のダメダメさだけではなく,昨日今日など見るとファームも壊滅していてみるべきものもない。誰がいったいこうしたんやと思うと,現状への怒りが沸々と湧き出でてくるのである。負けるのはある程度仕方がないが,負け方が酷すぎる。長打力も,得点力も,そして機動力もこれっぽっちもないし,ピッチャーは本当に憐れのひとことだ。こんな根底から腐ったチームを,よく座視できるもんだよ。多くのカープファンの眼もまた腐ってるようだね。
そんな原爆忌の夜。私にとっては,単に静かに祈りを捧げる日のみならず,自分のraison d'êtreを再確認する日なのである。
静かなる祈りと現状への怒りは対立しない。
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