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2010年11月11日
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カテゴリ:ガーデンデザイン
「山縣有朋」
陸軍と官僚を支配下において山縣閥をつくり、デモクラシーに反対し、みんなに憎まれ世を去った元老山縣有朋は、日本の近代史にとって本当に害悪だったのか?
「山縣有朋」前文、伊藤之雄著より、2009年2月20日出版

有朋の庭が癒される理由(わけ)
有朋の愛した「椿山荘」「無鄰庵」「古希庵」を訪れたとき、共通に思う穏やかに流れる遣水に心が癒され、「椿山荘」「無鄰庵」に異空間を感じてしまうのは何故なのか?
2004年1月に発行された白川書院刊・洛翠「植治の庭を歩いてみませんか」に掲載された明治42年当時の「無隣庵」をあなたは観ましたか?あなたは、明治42年当時、竣工から15年後の「無隣庵」を観てどの様に感じただろうか?現在の「無隣庵」は、当時の姿から大きく変貌している。
明治42年無燐庵1
明治42年当時の無隣庵
「無鄰菴」
2010年2月の無隣庵
有朋の庭園観研究論文他文書
有朋の庭園観についての建築・庭園研究論文は、小野健吉(2000):京都を中心とした近代日本庭園の研究:奈良国立文化研究所、P140。
鈴木博之(1982)山縣有朋の庭園観:古希庵記録保存調査団・鈴木博之編、山縣有朋邸小田原古希庵調査報告書、千代田火災海上保険9-11
野村勘治(1997):旅に出たら寄ってみたい庭30小学館、88
鈴木誠(2005)ランドスープ研究論文:山縣有朋の庭園観と椿山荘
椿山荘1
芝生園地について小野健吉(2000):京都を中心とした近代日本庭園の研究:奈良国立文化研究所、P140。は、「山縣の庭園観とその背景」を説明した文中において、明治期の新興勢力の邸宅所有形態の理想は、江戸時代からの富商や上級武士家層のそれと、地主貴族やカントリージェントルマンといった西欧上層階級のそれと混同したものを想定していた。
という鈴木博之(1982)山縣有朋の庭園観に付け加えて、「庭園のデザインにおいても、ひとつの理想として、イギリスを起源とするヨーロッパの風景式庭園を想定していたのではなかろうか。という小野健吉説単に芝生の広場を導入するといった表層的な模擬にとどまらず、農山村などの景観を庭園内に写実的に実物大で持ち込み園外景観を積極的に庭園の構成要素に取り入れるといった彼らの庭園観やそれに基づくデザイン感覚には、渡欧の際に実見したヨーロッパの風景式庭園の影響を読み取ることができるのである。」これについて、鈴木誠(2005)ランドスープ研究論文では、郷里山口県萩の地理地形の影響を受けているという説。また、野村勘治(1997):旅に出たら寄ってみたい庭30小学館、88は、郷土常栄寺の写しであると指摘している。

要約、
1、ヨーロッパ自然風景式庭園の影響=小野健吉・鈴木博之説 
2、郷里常栄寺(雪舟)に影響された芝生庭=野村勘治説
3、郷里山口県萩の地理地形の影響を受けている=鈴木誠説

先ず、2の芝生の説は、当時庭に扱う芝は野芝であり、その存在は随所に見られた。したがって、野村勘治のいう芝生庭の影響は、植物史からいっても以前から取り入れられ「作庭記」には、「芝をふせる」の記述がある。当時の「芝」と現代の「芝」の相違性が気になるが、とにかく芝生を扱う面積が明治期の規模でないにしても以前から芝は、使用されていた。
3、の郷里山口県萩の地理地形の影響については、幼少期の原風景なので少なからず影響はあったであろう。また、彼の母は、5歳の時に亡くなり異母とは、疎遠で祖母に育てられた。有朋11歳の時、士分の若侍を川へ投げたことで士分の父が怒り、有朋を川へ投げ込み祖母が救い揚げ有朋はいつまでも号泣していたという。このときの有朋の感情は、士分・身分の差を痛いほど経験している。

吉田松陰のもとに青年期を迎え、京都で久坂玄瑞、梁川星巌、梅田雲浜らの尊王攘夷思想を徹底的に叩き込まれ天皇親政の国家基盤が出来上がったといわれている。また、有朋の祖母は、元治2年1865年彼が27歳の時に橋本川へ京都土産で新調したちりめんの着物をまとって入水自殺している。当時の彼は、高杉晋作と共に騎兵隊として倒幕路線におり、足手まといになってはならぬという考えがあっての入水と後年回想している。したがって水つながりとしての影響は、多分にあると覗える。が、阿武隈川が橋本川と松本川の合流は河川スケールがあまりにも大きく椿山荘造営時の曲水遣水造営に岩本勝五郎指示の影響があったとは考えにくい。

建造物保存について
常々発信しているが建造物保存は、どうしても残そうと思っている側の想いが大きく偏ってしまう。「あるじを亡くしたムクロ」は、当時住まう施主の魂が遠退き、その在るべき姿は変貌してしまった。役所のみならず、保存方法在り方を見直すきっかけなるといいと願う。今年2月、京都に行くと必ず向かう場所、無鄰庵。その訪問回数は数えきれない。しかし、今回の無隣庵は、あきらかに違って見えた。それは、ヨーロッパの風景だ。今まで薄らと感じていたが、さらにその感情が高ぶってきた。

疑問、誰が造った?
現代では、小川治兵衛からの庭園観研究が盛んに進み、オーナーである有朋側からの庭園観は、あまり描かれていない。それは、一体何故なのだろうか。疎水の恵から市内京都の庭園環境が変化したのは事実ではあるが庭園の転換期であったターニングポイントは、何処だったのだろう。それは、やはり無隣庵からの出発といっていい。有朋の庭園観は、果たして7代目にどれだけ伝わっていたのだろう。おそらくは、初期の植治にあった作庭素地を掴みつつ有朋に接していたとすると、7代目には、相当なプライドを刺激したことだろうと想像できる。京都は現場の職方組織に必ず作業をまとめる番頭がいた筈なので監理する植治から得た情報は、親方(監理機関)番頭(管理機関)職方(技能集団)へとダイレクトに反映したと思われる。

有朋の庭園観、私心
明治42年竣工から15年後の無隣庵が、ヨーロッパ平原に突如として現れる小川のせせらぎに見いだしてしまうのは私だけだろうか。穏やかで安らぎさえ覚える無隣庵を造営した有朋自身と人間性有朋に対しての司馬遼太郎の俗に言う司馬観では、彼の評価は最低だ。
こんなに穏やかでおおらかな庭を好み、幾つもの流れの表現を具現化した有朋が、この近代史において害悪と思われた一員は、いったい何だったのだろう。岡 義武著「山縣有朋」半藤一利著「山縣有朋」伊藤之雄著「山縣有朋」の3冊を通して有朋の人物像がどの様であったか。共通している点は、幕末、明治、大正を生き延びた運の強さと徹底した政治理念だけでは庭園観は覗えない。

時代背景
幕末から明治、大正期を生きた有朋は、あまりにも長生きし過ぎたのかもしれない。私は、歴史学者でもなく、政治学者でもない。また、単純に当時の国の機能を云えば、この国が小さな国だったころ。つまり、決済手続き経路の短い数人で構成された元老院組織がこの国の運命を左右していたともいえる。彼の仕事は、岡 義武著 半藤一利著 伊藤之雄著それぞれの3冊が伝記として伝えているのであえてここには記さない。が、戦記ものになってしまうのは、彼が生きぬいてきた時代のせいかもしれない。

闘いの日々
高杉晋作率いる騎兵隊での戦い。上野、彰義隊の戦い。さらに長岡、北越戦争。会津鳥羽の戦い。榎本武揚、土方歳三が率いる函館戊辰戦争、五稜郭入場時、年号が明治となった。明けて1869年明治2年、五稜郭陥落。西南戦争の後、騎兵隊の解体等彼は、常に戦い。多くの血を流し、殺戮をくりかえしている。歴史書は、常に勝った側が作成するもの。明治新政府から見た歴史観は、大儀の明治史であり、幕臣派から見ればテロ攻撃であったろう。





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最終更新日  2010年11月11日 20時38分28秒
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