カテゴリ:ガーデンデザイン
渡欧
まず、彼は、幕府体制時1863年密航という形で渡欧している。後、1869年明治2年に西郷従道と2度目の渡欧をしている。彼らの渡欧は、6年前の密航とは違い、かなりの待遇で渡欧している。フランスのマルセイユから首都パリに向い、翌年初夏に欧州を離れるまで欧州に学んでいる。後にイギリスのロンドン滞在、フランスに戻りベルギー・ドイツ・オーストリア・ロシア・オランダを巡視した。 渡欧先の影響 伊藤之雄氏は、「山縣有朋」の文中では、次のように記している。「西郷従道と違い7カ国の観光旅行」であった。当然、名所古刹を含め様々に見聞しているはず。彼の完璧な面と几帳面さをいえば常に王政国家を描いていた。それが、後の政党政治の弾圧となって現れている。彼の見たヨーロッパとは、どの様なところだったのだろうか1872年から1874年までの岩倉視察団の記録、特命全権大使米欧回覧実記久米邦武編が出ているので是非みてほしい。当時、あまりのカルチャーショックで出自を避けていたと言われる程異なり過ぎた世界があったはず。 イギリス風景式庭園の推移 イギリスの庭園文化は、1730年代に英国式庭園がヨーロッパ中を席巻し、自然美を庭園の中に取り込もうとする庭園様式は、ジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau, 1712年6月28日~1778年7月2日は、スイス生まれの哲学者政治思想家・教育思想家・作家・作曲家)の影響下で自然崇拝が流行となっていた西欧で17世紀に普及した平面幾何学式庭園に反発し、イタリアのピクチャレスク(絵のような、絵の主題としてふさわしいといった意味)、風景画家などの影響も受けたこの庭園様式が、フランスやドイツなど全ヨーロッパやアメリカへと広まっていた。つまり、有朋が1869年明治2年の時には、139年も経ており風景式庭園は、十分充実していた時代と推測される。 風景式庭園の推移と人物 チャールズ・ブリッジマンCharles Bridgeman 1690年~1738年 ウイリアム・ケントWilliam Kent、1685年~1748年 ランスロット・ブラウンLancelot Brown、1716年~1783年 ハンフリー・レプトンHumphry Repton、1752年~1818年 「椿山荘」の造営 1877年明治11年12月14日、有朋は、旧大名下屋敷であった土地18000坪、2000円を購入する。西南戦争後の年金740円元手に(現在価3000万円)が与えられ購入する。ここを「椿山荘」と命名した。2度目の渡欧、10年後1888年明治21年明治政権後、有朋は、2度目の渡欧を視察した。89年1月11日にパリに着いた山縣は、フランスの首脳と会談している。彼の見聞ではポピュスティクな反政府運動が盛り上がりに混乱した政府に遭遇している。その年、日本では、大日本帝国憲法が発布されたのをフランスで祝杯を挙げた。 2010年2月の椿山荘 大磯「小揺庵」の造営 前年有朋は、神奈川県大磯に「小揺庵」を造っている。別荘の母屋は、浜に面して立てられ一部が二階建て、瓦葺きの和風建築であり、縁続きに浴室が設けられ海を眺めながら風呂に入って長旅を癒したと思われる。大磯は、葉山に似た地形で北側が山になっているため、冬季の季節風が弱く、温暖な地形になるといわれている。また、1886年明治18年には初代軍医総監松本順によって塩水浴場が開設され「塩水浴」発祥の地でもある。 第二「無隣庵」の造営 1891年角倉邸(現在のホテルフジタ→がんこ寿司)を購入した。ここが、第二「無隣庵」。1894年明治27年7月25日日清戦争が勃発1895年から第3「無隣庵」の造営が始まり、1896年12月頃に完成している。続いて東京では、小石川水道町には、1902年第3「無鄰庵」に次いで「新々亭」を造営している。彼は、西南戦争後に「椿山荘」の造営し、日清戦争後に「無隣庵」の造営。日露戦争後に年金の1500円(2000万円)を下賜され大磯に「小揺庵」売却を合せて「古希庵」の造営の一部に充てている。 7代目小川治兵衛の出現 それは、7代目小川治兵衛の存在があまりにも突出して登場しているということ。時代背景から察すると明治27年代の京都は、不景気であり日清戦争が勃発している。そんな意味でも当時、技能を修得する現場があったとは思えない。だが、技能的な修行が無かったわけではない。「天地人」や「五行」といった基本デザインは、小川家入家後10年の間の習得得ること、豊富な庭園モデルに欠く事のない環境にあったといえる。が、有朋との出会いで彼の今までに無い趣向に7代目は多いに驚いている。「無隣庵」では、モミ30本の植栽依頼されている。 7代目小川治兵衛活躍期 7代目小川治兵衛、以後7代目とする。7代目が活躍するのは、明治27年1894年以降に活躍している。7代目は、1860年万延元年に京都に生まれている。その後、18歳になった7代目は、偶然にも同じ小学校同級であった小川家の美津と結婚することになり、婿養子として小川家に入った。 その、わずか2年後6代目が亡くなり20歳で跡を継ぐことになる。7代目が20歳の時は、1880年明治13年である。明治10年は、西南戦争。11年には、大久保利通が暗殺されている。それから2年後のこと。このころの京都は、不況のどん底であった。元来苦しかった財政に加え西南戦争の費用が重なり、負債の利子だけで国庫収入3分の1を超える劣悪な経済状態だった。 時代背景 その頃の京都も「都(みやこ)」が東京に移り、人口さえ減っている時代背景がある。当然、造園の仕事も減っていた。そんな彼を支えたのは義母であったと記されている。植える、据える等の技能的な修行あったにしても作庭の構成能力があったかどうかは明らかではではない。この後、疎水引き入れと有朋との出会いが7代目に転機を変えた。つまり、有朋の希望を聴き入れながら共に学び、共に育っていったのだと思う。7代目の作庭歴は、明治10年から12年と伝えられており、隣家並河靖之邸から始まったといわれている。が、並河邸の養女徳子の回想(S38)では、明治22年ごろの造営といっているので10年の矛盾が生じている。 「無隣庵」造営 斯く思う、恐らく7代目の作庭歴は、1890年明治23年30歳からが本格的な作庭期に入ってからであろうと察することができる。それに、隣家「並河靖之邸庭園」と「無隣庵」の庭園構成はまったく違う。並河靖之邸庭園作庭後、有朋の「無隣庵」から多くを学んだものがあったに違いない。 「無隣庵」造営は、途中日清戦争があり、久原庄三郎(藤田財閥からの養子、久原姓名に)に託されていた。久原庄三郎 くはら-しょうざぶろう 1840-1908旧姓は、藤田。 2010年10月の無隣庵 後年、7代目は、「無隣庵」を作る際、私は有朋から常に呼ばれて「意見を戦はしながらあれ迄に仕上げた」、「無隣庵」は山縣の数ある別荘のなかで「最愛」のもので、石と水には最も心を用いていた、と回想している。つまり、有朋と7代目の対話によって「無隣庵」が具現化したことだ。また、造り手が違う椿山荘や無隣菴、古希庵のそれぞれの流れの作風を見ても共通したものがあり、有朋の趣向がかなり大きく、強いものがあったと想像できる。したがって有朋の庭園観は、独自の庭園観であったと想像される。 有朋の庭園観 彼は、天保9年閏4月22日太陽暦1838年6月14日山口県萩で、下級武士である足軽・中間組等の有捻(ありとし)と母松子のもとに生まれた。2009年2月、文春新書に書かれた有朋像を伊藤之雄がこのように描いている。「山縣有朋を一言で表現すれば、「愚直」という言葉がもっともふさわしいであろう」と表現している。 彼は王政復興を願い、ひたすら戦いぬいてきた。さらに藩閥政治にこだわりひたすら政党政治を拒んだ。渡欧したフランスでポピュスティクな反政府運動をみている。政党や議会政治に対する強い嫌悪感は、伊藤博文でさえ閉口している。徹底した彼の姿勢は、伊藤之雄の云う「愚直」が表現としてふさわしい。彼にとっての愚直さは、幕末・維新に倒れていった多くの志士たちに対する責任感であったろうと伊藤之雄が結んでいる。 古希庵流れ2 まとめ 「運も実力のうち」といってしまえばそれまで。しかし、あまりにも長寿であったと思う。大磯古希庵に訪れた原富太郎は、横浜三渓園自邸の滝を自慢している。しかし、それぞれの生き様や人生観をみるといずれの比較にはならない。なぜなら有朋が描く流れは、有朋が流した血や涙であり、その心洗われる清流は、幕末・維新・西南・戊辰・日清・日露の英霊を唯一浄化できる流れなのかもしれない。 古希庵 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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