カテゴリ:近代別荘・別邸史
国立公文書館アジア歴史資料センター吉永良延外2名より 横浜恤兵団(じゅうへいだん)より在外軍隊へ切餅献納の件1895年明治28年1月「吉永良延」は1895年明治28年に横浜市野毛町245番地にいた。横浜恤兵団は1895年明治28年解散(横浜開港資料館『横浜関係人物図書目録』1994年p58『横浜恤兵会報告書』の解説)
東海大学中央図書館「滋強丸」の主人が川上一座に出勤(『都新聞』)1903年明治36年2月3日『都新聞』は『東京新聞』の前身のひとつ「新世界新聞社」の「社主」で「滋強丸」の「主人」の「吉永良延」が川上一座の明治座の興行に出る予定、江見水蔭翻案の「オセロ」の台本が発表された『文芸倶楽部』1903年明治36年2月の末尾の「予定」にも「吉永良延」の名がある。 ![]() 東海大学11号館図書館広田三郎『実業人傑伝』実業人傑伝編輯所1895年明治28年~1898年明治31年 所収:『明治実業家伝記集成(第一巻)』立体社、1984年昭和59年。「タイガー商会」の経営(この文献は1897年明治30年11月の発行、父親は幕府の武士「吉永良正」。1866年慶応2年8月、横浜野毛の父の官邸の生まれ「野毛」は現在の横浜市中区野毛町「絵画」は「独修」して「東洋絵画共進会」で三等1877年明治10年、父が没する。父は横浜野毛町で商売「兄弟姉妹」なし。後に、神奈川県庁に就職し、庶務課、会計課、勧業課に勤める。 神奈川県庁勤務中に「文学雑誌」を編集し、「地方施政」を論じ、「上官の忌諱に触れ」、1889年明治22年辞表を「沖守固」(おき・もりかた)に出す。沖守固(1841-1912)は官僚。辞表の提出先としては形式上のものにすぎず、誇張表現の可能性あり。「一年有余」の後、「千種園」という雑誌を発行し、「教育、経済、農業の奨励」をし、「横浜の風土・人情・時事問題」を論じ、「禁止、抑留」されること数回。 「千種園」は横浜開港資料館に架蔵あり。同ホームペイジは「発行禁止」としている。「官報」を元データとした斎藤昌三『現代筆禍文献大年表』は禁止理由を出版条例違反としているが、発行禁止かは不明。発売頒布禁止処分だけか?「横浜仏教会」の幹事となる。「好んで演説壇上に気炎を吐く」「弁舌流麗、議論明晰、能(よ)く聴衆の喝采を博せり」「青年を愛すること子の如く常に養ふ所のもの二三にして止まらず」、「時に資金を供して遊学」させる。 ![]() お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年10月02日 08時29分23秒
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