カテゴリ:近代別荘・別邸史
日清戦争時に「恤兵事業」として「団餅」を「千樽」献納し、当時は新聞記事となった。「滋強丸」を発売。「目薬」の「一点水」を発売。
http://blog.goo.ne.jp/987sigure/e/b0d7c800178d77bc6470afed3baa4304には「いかなる目病でも一夜に治る。無効時返金」とある。 京浜に5~6の支店。広告費用は毎年6~7千円、川上の舞台への出場希望も広告効果があるか?全5巻の本書(「傑伝」)に採録される「実業人」であった。 ![]() 全5巻の本書(「傑伝」)に採録される「実業人」であった。茅ヶ崎市立図書館 明治大正昭和横浜人名録 1910年明治43・1925年大正14年・1936年昭和11年 日本図書センター 1989年平成1年 「吉永禮二」「吉永恒」(大正編)、「吉永仁蔵」は「吉永良延」の縁者 関東学院大学図書館人的事業大系 化學工業篇(下)項目名:磐城セメント株式會社1942昭和17年2月30日発行 著作兼発行者:松下傅吉 2003平成15)年10月 日本図書センター「吉永仁蔵」は「吉永良延」の縁者、当社「相談役」が博文館の大橋新太郎である(p171,p174)。当社「二代社長」「岩崎清七」(p168)は「福沢桃介」と「日清紡績を創立」(p171)している。 吉永良延と川上夫妻が強力な縁者であることが以上のことで理解出来る。 現時点では、茅ヶ崎美術館館長小川稔氏調査「文藝倶楽部第9巻9号」明治36年7月の出展発見には次のように記されている。 「川上が茅ヶ崎に別荘を卜したるは、堀越の向こうを張るという強ち野心の有しにもあらず。かの洋行帰りの当時より計画の俳優学校設立については同校維持の手段として川上は牧畜を貞奴は養蚕を励みその得る処にて学生を仕立てんという心からなるべく地面の広き処をと心掛けの最中、 川上とは意気相投じて結ぶ友垣の名物男、滋強丸の主人吉永良延の別荘が茅ヶ崎に在る処より、然らば僕も茅ヶ崎に極めべしと、三千坪からの松林を買求めて伊藤候から「萬松園」との命名を受け新築之家屋は、和洋折衷、豚も飼えば鶏も養い、蚕も少なからず手にかけるという飽くまで変った世の渡り方」 「文藝倶楽部第9巻9号」1903年明治36年7月より、 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年10月05日 08時01分41秒
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