カテゴリ:近代別荘・別邸史
昨日、図書館の掲示物を打ち合わせのため水沢さん、楠さんにお会いいたしました。彼らは、この一年におよぶ調査をご一緒した二人です。
なんと、二つの仮設のうち一つが裏づけされてしまった。 昨日頂いた資料『藝術殿』「私の見た川上音二郎」1932年(昭和7年)江見水蔭によると 52ページ文中 川上と団十郎。対象させるのは不服の人も有りませうが、当人としては確かに向うを張っていたので、茅ヶ崎の堀越(団十郎)の別荘を、孤松庵と呼ぶに対して、自分の同所の別荘を(本邸は其の頃無いのですが、萬松園と名付けて、いや、伊藤公に名付けて頂き、其の額面を同公に揮毫して貰って喜んで居りました。) この揮毫を表具師に頼んでくれと、私の品川陣屋横丁の宅に持ってきたのは、夜更けてでありまして、門を開ける時にグチャリと攫んだのは、守宮。・・・ とつづられいる。 団十郎別荘が明治29年に着工した孤松庵は、明治30年6月に竣工した。其の年の8月には、花房義質が万松園に滞留の手続を願上、その人数通知差出人花房義質(志村)受取人伊藤里之助 明治30年この頃茅ヶ崎村長伊藤里之助が名士達に別荘誘致している。 明治30年6月に団十郎「孤松庵」竣工 明治30年8月に花房義質が「万松園」に滞留の手続 明治31年6月に茅ヶ崎駅舎竣工 明治32年6月26日 官有地茅ヶ崎11483番地高砂下恵泉幼稚園周辺松植林伊藤里之助申請 明治32年8月に鉄道官設案内に「萬松園」(停車場より六丁)が紹介される。 明治35年8月19日欧州公演帰国 明治35年10月に江見が茅ヶ崎川上邸で打ち合わせ。 やはり既に「萬松園」は、彼の地にあった。しかも団十郎孤松庵とのバランスを図るために伊藤博文に揮毫を請うとある。あなたは、どの様に読みますか? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年10月10日 22時25分40秒
コメント(0) | コメントを書く
[近代別荘・別邸史] カテゴリの最新記事
|
|