カテゴリ:近代別荘・別邸史
水蔭が借りた家は江の島の鳥居わきの片瀬川に臨む高台にあった。コッキング(サムエル・コッキング)が妾の名義で所有している貸し別荘で、広い敷地の中に、八畳、六畳、四畳半、二畳、それに台所と湯殿という間取り、一年間55円の契約であった。
家から眺められる風景は絶景で、小さな砂漠とでもいった砥上ヶ原ごしに、鵠沼、辻堂、茅ヶ崎の海岸が見渡せ、さらに大磯の高麗寺山の上あたりに富士山を遠望することができた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 「江見水蔭文陣を片瀬に移す」文士が都を離れて田舎すまいをするというのは、当時でもまだ珍しかったので、「読売新聞」の雑報欄に記事が載った。片瀬の家は、「沙地浪宅」と名付けられた。砂地の上の浪宅にかけて、江戸時代の龍亭鯉丈の滑稽本「花暦発祥人」の主人公である「左次郎」の家を気取ったものであると記されている。「個性きらめく 藤沢近代の文士たち」 藤沢市教育委員会 1990年10月 小山 文雄(こやま ふみお) この度の調査では、まずサムエルコッキングの妻、宮田りき名義の土地は、江の島登頂部だけでなく片瀬の土地も購入しており、旧土地台帳から片瀬の土地を割り出し2619番地から河口方向の2638番地付近がサムエルコッキングの土地であることがわかった。 さらに、1887年明治20年東海道線に藤沢駅がその年の7月11日に開業され、列車にて頻繁に江の島に来るようになった二人。その妻りきが藤沢駅で不慮の事故にあう。その後妻りきは、妹ふさをコッキングのそば女として差出した。本妻りきは、専ら横浜の居留地に妹ふさは、江の島の別邸にあったという。これらのことが真意であれば片瀬の貸し別荘には、妹ふさが居た可能性が高い。その貸し別荘を一年間55円の契約で「沙地浪」として借り入れた水蔭は、川上音二郎と「オセロ」の打ち合わせをした頃には、すでに「沙地浪宅」を引き払っていた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年10月19日 13時26分26秒
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