カテゴリ:近代別荘・別邸史
新築間もないころ庭で撮った写真が、のこされている。音二郎・貞夫妻とも、紋付羽織の正装だが、大きな犬がその前にねそべっている。
山口玲子著小説「女優貞奴」第5章 女優開眼 1902年明治35年8月19日、貞奴は一行とともに、往復の日数を入れて一年四ヶ月の旅を終え、神戸に着いた。翌21日付の朝日、毎日両新聞は、一行の帰国を簡単に報じた。帰国後、貞は、9月28日から10月22日・11月28日にこの地の登記をしている。8月21日に帰国、翌月9月28日から10月22日の登記。 この間2ヶ月。しかも10月3日には江見水蔭との打ち合わせを果たしている。その夜、ドイツより帰朝の巌谷小波を茅ヶ崎駅で迎える。「川上は、砂白く松青き地を卜して「萬松園」と名じた。太平洋記事明治35年10月27日に発行。 11月12日川上音二郎と俳優学校、東京朝日新聞朝刊4頁4段「茅ヶ崎村1500坪購入記事」、環翠楼にて伊藤博文に書を乞う。」とある。 さらに、1899年明治32年発行、「官設鉄道案内。この旅館案内では、萬松園停車場ヨリ六丁(約600メートル)宿料凡そ六十銭」と記された出版物が発見された。ここで注目すべきは、1899年明治32年に「萬松園」という宿が存在していた。6丁というと約600メートル、現在の高砂緑地周辺がその圏内になる。 画像、当時の官設鉄道案内に於ける茅ヶ崎の旅館案内2011年水沢富士夫調査同記 茅ヶ崎市史4近代史P516 官設鉄道案内とは、旅客の増員に伴い時刻表や施設案内を目的とした明治30年代の旅行案内書。東海道,北陸道の利用案内、タイトルの読み カンセツ テツドウ アンナイ 作成者(著者) 春日利兵衛著 作成者(著者)(NDL典拠形式) 春日,利兵衛 作成者(著者)の読み(NDL典拠形式) カスガ,リヘエ 公開者 国立国会図書館。目次紹介は、次のとおり。 (目次) 旅店名所古蹟其他 (目次) 新橋神間 (目次) 大船横須賀間 (目次) 大府武豊間 (目次) 米原富山間 (目次) 馬場大津間 (目次) 鉄道略則其他 (目次) 乗客ノ注意スヘキ事項 (目次) 荷物托送手続及賃金 (目次) 官設鉄道概況 (目次) 旅客賃金表 (目次) 附新橋横浜ヨリ藤沢鎌倉平塚大磯国府津行割引賃金 (目次) 汽車時刻表 茅ヶ崎館の創業者柏木○○は、平塚以西の人物らしい。長谷川長次郎の名前は1898年明治31年8月3日に初出する。石上憲定「自渉録」に初出P353南湖中村屋旅館同頁出筆している。当時の海水旅館の宿命である冬の営業がままならず海岸端における「海の家」と等しくシーズンオフには、経営者もしくは、オーナー地権者が代わって行ったとも考えられる。その傾向や矛盾は年表にて参照すると明らかになる。 当時の巡査日記―石上憲定「自渉録」にも小さな事件として茅ヶ崎館や中村楼の宿名が出筆されている。1899年明治32年3月13日中村楼盗難事件(石上憲定「自渉録」)P428があった。 ところが、同年、「東京朝日新聞」朝刊七面では、海水浴御料理旅館「同業広告茅ケ崎館・中村楼開業」と広告が出稿されている。また、同年8月官設鉄道案内、旅館案内 松旭閣(停車場より凡半丁)松本楼(停車場より七丁)海水館(停車場より八丁半)松本屋(停車場より七丁)萬松園(停車場より六丁)とそれぞれの旅館が紹介されている。 ![]() この中で現在判っている旅館は松本屋(停車場より七丁)。たびたび石上憲定「自渉録」に登場する。その他、海水館(停車場より八丁半)は、茅ヶ崎館の事ではないかと史実確認はないものの茅ヶ崎館当主森氏のお話をうかがった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年10月29日 17時42分28秒
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