カテゴリ:近代別荘・別邸史
さらに遡る1897年明治30年8月7日茅ヶ崎の駅舎が出来る一年前に宮内庁関係の花房義質(よしもと)萬松園への滞留人数確認の書簡記録が茅ヶ崎美術館館長小川稔氏によって発見された。このことによって万松園は、川上貞が茅ヶ崎に来る5年前に存在し、1899年明治32年3月13日に中村楼が旅館案内を広告し、同年8月官設鉄道案内の旅館案内には既に萬松園が紹介されていた。
![]() 花房 義質(はなぶさ よしもと、1842年2月10日(天保13年1月1日) - 1917年(大正6年)7月9日)は、明治、大正期の外交官。岡山藩士で実業家、政治家(初代岡山市長)花房端連の長男。爵位は子爵。歴任した主な官公職は宮内次官、枢密顧問官、日本赤十字社社長など。 ![]() この件については、先に旧土地台帳調査の際、川上貞購入地の隣に中村楼主、星野岩松氏名義の土地が存在したことを発見した。中村楼主星野岩松は、東京江東中村楼(現在の両国)の支店として茅ヶ崎館と同じ年の1899年明治32年に現在の恵泉幼稚園付近に敷地三万坪を有し「海水浴御料理旅館」として開業。 洋食も出しており九代目市川団十郎が茅ヶ崎の別荘「孤松庵」に滞在中ハヤシライスを注文したとのエピソ-ドも残っている。川上一座の「オセロ」では舞台稽古を行った場所。明治四十年本店が東京美術倶楽部に売却されるにともない閉店。その後関東大震災により建物は全壊した。文2011/07/03楠氏 星野岩松1845年弘化2年.07.05~1910年明治44年12月1877年明治10年星野岩松は「土木受負の志を起して建築工事に従事し専ら外務省の工事を受負ふ」また、音二郎もいたパリ万博に「在横浜の仏国郵船会社々員の依託を以て日本建築中殊に精巧美麗を以て称せらるゝ寺院の山門を模造し」「『パノラマジオラマ』会社に装置して観覧者の大喝采を博したる」1900年明治33年04~11京浜実業家名鑑(1907) 水沢富士夫氏調査2011年 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012年03月10日 10時23分09秒
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