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ガーデンデザイナーのブログ

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ガーデンデザイン

2010年11月13日
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カテゴリ:ガーデンデザイン
渡欧
まず、彼は、幕府体制時1863年密航という形で渡欧している。後、1869年明治2年に西郷従道と2度目の渡欧をしている。彼らの渡欧は、6年前の密航とは違い、かなりの待遇で渡欧している。フランスのマルセイユから首都パリに向い、翌年初夏に欧州を離れるまで欧州に学んでいる。後にイギリスのロンドン滞在、フランスに戻りベルギー・ドイツ・オーストリア・ロシア・オランダを巡視した。

渡欧先の影響
伊藤之雄氏は、「山縣有朋」の文中では、次のように記している。「西郷従道と違い7カ国の観光旅行」であった。当然、名所古刹を含め様々に見聞しているはず。彼の完璧な面と几帳面さをいえば常に王政国家を描いていた。それが、後の政党政治の弾圧となって現れている。彼の見たヨーロッパとは、どの様なところだったのだろうか1872年から1874年までの岩倉視察団の記録、特命全権大使米欧回覧実記久米邦武編が出ているので是非みてほしい。当時、あまりのカルチャーショックで出自を避けていたと言われる程異なり過ぎた世界があったはず。

イギリス風景式庭園の推移
イギリスの庭園文化は、1730年代に英国式庭園がヨーロッパ中を席巻し、自然美を庭園の中に取り込もうとする庭園様式は、ジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau, 1712年6月28日~1778年7月2日は、スイス生まれの哲学者政治思想家・教育思想家・作家・作曲家)の影響下で自然崇拝が流行となっていた西欧で17世紀に普及した平面幾何学式庭園に反発し、イタリアのピクチャレスク(絵のような、絵の主題としてふさわしいといった意味)、風景画家などの影響も受けたこの庭園様式が、フランスやドイツなど全ヨーロッパやアメリカへと広まっていた。つまり、有朋が1869年明治2年の時には、139年も経ており風景式庭園は、十分充実していた時代と推測される。

風景式庭園の推移と人物
チャールズ・ブリッジマンCharles Bridgeman 1690年~1738年
ウイリアム・ケントWilliam Kent、1685年~1748年
ランスロット・ブラウンLancelot Brown、1716年~1783年
ハンフリー・レプトンHumphry Repton、1752年~1818年

「椿山荘」の造営
1877年明治11年12月14日、有朋は、旧大名下屋敷であった土地18000坪、2000円を購入する。西南戦争後の年金740円元手に(現在価3000万円)が与えられ購入する。ここを「椿山荘」と命名した。2度目の渡欧、10年後1888年明治21年明治政権後、有朋は、2度目の渡欧を視察した。89年1月11日にパリに着いた山縣は、フランスの首脳と会談している。彼の見聞ではポピュスティクな反政府運動が盛り上がりに混乱した政府に遭遇している。その年、日本では、大日本帝国憲法が発布されたのをフランスで祝杯を挙げた。
椿山荘3
2010年2月の椿山荘
大磯「小揺庵」の造営
前年有朋は、神奈川県大磯に「小揺庵」を造っている。別荘の母屋は、浜に面して立てられ一部が二階建て、瓦葺きの和風建築であり、縁続きに浴室が設けられ海を眺めながら風呂に入って長旅を癒したと思われる。大磯は、葉山に似た地形で北側が山になっているため、冬季の季節風が弱く、温暖な地形になるといわれている。また、1886年明治18年には初代軍医総監松本順によって塩水浴場が開設され「塩水浴」発祥の地でもある。

第二「無隣庵」の造営
1891年角倉邸(現在のホテルフジタ→がんこ寿司)を購入した。ここが、第二「無隣庵」。1894年明治27年7月25日日清戦争が勃発1895年から第3「無隣庵」の造営が始まり、1896年12月頃に完成している。続いて東京では、小石川水道町には、1902年第3「無鄰庵」に次いで「新々亭」を造営している。彼は、西南戦争後に「椿山荘」の造営し、日清戦争後に「無隣庵」の造営。日露戦争後に年金の1500円(2000万円)を下賜され大磯に「小揺庵」売却を合せて「古希庵」の造営の一部に充てている。

7代目小川治兵衛の出現
それは、7代目小川治兵衛の存在があまりにも突出して登場しているということ。時代背景から察すると明治27年代の京都は、不景気であり日清戦争が勃発している。そんな意味でも当時、技能を修得する現場があったとは思えない。だが、技能的な修行が無かったわけではない。「天地人」や「五行」といった基本デザインは、小川家入家後10年の間の習得得ること、豊富な庭園モデルに欠く事のない環境にあったといえる。が、有朋との出会いで彼の今までに無い趣向に7代目は多いに驚いている。「無隣庵」では、モミ30本の植栽依頼されている。

7代目小川治兵衛活躍期
7代目小川治兵衛、以後7代目とする。7代目が活躍するのは、明治27年1894年以降に活躍している。7代目は、1860年万延元年に京都に生まれている。その後、18歳になった7代目は、偶然にも同じ小学校同級であった小川家の美津と結婚することになり、婿養子として小川家に入った。
その、わずか2年後6代目が亡くなり20歳で跡を継ぐことになる。7代目が20歳の時は、1880年明治13年である。明治10年は、西南戦争。11年には、大久保利通が暗殺されている。それから2年後のこと。このころの京都は、不況のどん底であった。元来苦しかった財政に加え西南戦争の費用が重なり、負債の利子だけで国庫収入3分の1を超える劣悪な経済状態だった。

時代背景
その頃の京都も「都(みやこ)」が東京に移り、人口さえ減っている時代背景がある。当然、造園の仕事も減っていた。そんな彼を支えたのは義母であったと記されている。植える、据える等の技能的な修行あったにしても作庭の構成能力があったかどうかは明らかではではない。この後、疎水引き入れと有朋との出会いが7代目に転機を変えた。つまり、有朋の希望を聴き入れながら共に学び、共に育っていったのだと思う。7代目の作庭歴は、明治10年から12年と伝えられており、隣家並河靖之邸から始まったといわれている。が、並河邸の養女徳子の回想(S38)では、明治22年ごろの造営といっているので10年の矛盾が生じている。

「無隣庵」造営
斯く思う、恐らく7代目の作庭歴は、1890年明治23年30歳からが本格的な作庭期に入ってからであろうと察することができる。それに、隣家「並河靖之邸庭園」と「無隣庵」の庭園構成はまったく違う。並河靖之邸庭園作庭後、有朋の「無隣庵」から多くを学んだものがあったに違いない。
「無隣庵」造営は、途中日清戦争があり、久原庄三郎(藤田財閥からの養子、久原姓名に)に託されていた。久原庄三郎 くはら-しょうざぶろう 1840-1908旧姓は、藤田。
手入れ中の無隣庵.JPG
2010年10月の無隣庵
後年、7代目は、「無隣庵」を作る際、私は有朋から常に呼ばれて「意見を戦はしながらあれ迄に仕上げた」、「無隣庵」は山縣の数ある別荘のなかで「最愛」のもので、石と水には最も心を用いていた、と回想している。つまり、有朋と7代目の対話によって「無隣庵」が具現化したことだ。また、造り手が違う椿山荘や無隣菴、古希庵のそれぞれの流れの作風を見ても共通したものがあり、有朋の趣向がかなり大きく、強いものがあったと想像できる。したがって有朋の庭園観は、独自の庭園観であったと想像される。

有朋の庭園観
彼は、天保9年閏4月22日太陽暦1838年6月14日山口県萩で、下級武士である足軽・中間組等の有捻(ありとし)と母松子のもとに生まれた。2009年2月、文春新書に書かれた有朋像を伊藤之雄がこのように描いている。「山縣有朋を一言で表現すれば、「愚直」という言葉がもっともふさわしいであろう」と表現している。
彼は王政復興を願い、ひたすら戦いぬいてきた。さらに藩閥政治にこだわりひたすら政党政治を拒んだ。渡欧したフランスでポピュスティクな反政府運動をみている。政党や議会政治に対する強い嫌悪感は、伊藤博文でさえ閉口している。徹底した彼の姿勢は、伊藤之雄の云う「愚直」が表現としてふさわしい。彼にとっての愚直さは、幕末・維新に倒れていった多くの志士たちに対する責任感であったろうと伊藤之雄が結んでいる。
古希庵流れ2.JPG
古希庵流れ2
まとめ
「運も実力のうち」といってしまえばそれまで。しかし、あまりにも長寿であったと思う。大磯古希庵に訪れた原富太郎は、横浜三渓園自邸の滝を自慢している。しかし、それぞれの生き様や人生観をみるといずれの比較にはならない。なぜなら有朋が描く流れは、有朋が流した血や涙であり、その心洗われる清流は、幕末・維新・西南・戊辰・日清・日露の英霊を唯一浄化できる流れなのかもしれない。
古希庵流れ
古希庵






最終更新日  2010年11月14日 01時09分04秒
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2010年11月11日
カテゴリ:ガーデンデザイン
「山縣有朋」
陸軍と官僚を支配下において山縣閥をつくり、デモクラシーに反対し、みんなに憎まれ世を去った元老山縣有朋は、日本の近代史にとって本当に害悪だったのか?
「山縣有朋」前文、伊藤之雄著より、2009年2月20日出版

有朋の庭が癒される理由(わけ)
有朋の愛した「椿山荘」「無鄰庵」「古希庵」を訪れたとき、共通に思う穏やかに流れる遣水に心が癒され、「椿山荘」「無鄰庵」に異空間を感じてしまうのは何故なのか?
2004年1月に発行された白川書院刊・洛翠「植治の庭を歩いてみませんか」に掲載された明治42年当時の「無隣庵」をあなたは観ましたか?あなたは、明治42年当時、竣工から15年後の「無隣庵」を観てどの様に感じただろうか?現在の「無隣庵」は、当時の姿から大きく変貌している。
明治42年無燐庵1
明治42年当時の無隣庵
「無鄰菴」
2010年2月の無隣庵
有朋の庭園観研究論文他文書
有朋の庭園観についての建築・庭園研究論文は、小野健吉(2000):京都を中心とした近代日本庭園の研究:奈良国立文化研究所、P140。
鈴木博之(1982)山縣有朋の庭園観:古希庵記録保存調査団・鈴木博之編、山縣有朋邸小田原古希庵調査報告書、千代田火災海上保険9-11
野村勘治(1997):旅に出たら寄ってみたい庭30小学館、88
鈴木誠(2005)ランドスープ研究論文:山縣有朋の庭園観と椿山荘
椿山荘1
芝生園地について小野健吉(2000):京都を中心とした近代日本庭園の研究:奈良国立文化研究所、P140。は、「山縣の庭園観とその背景」を説明した文中において、明治期の新興勢力の邸宅所有形態の理想は、江戸時代からの富商や上級武士家層のそれと、地主貴族やカントリージェントルマンといった西欧上層階級のそれと混同したものを想定していた。
という鈴木博之(1982)山縣有朋の庭園観に付け加えて、「庭園のデザインにおいても、ひとつの理想として、イギリスを起源とするヨーロッパの風景式庭園を想定していたのではなかろうか。という小野健吉説単に芝生の広場を導入するといった表層的な模擬にとどまらず、農山村などの景観を庭園内に写実的に実物大で持ち込み園外景観を積極的に庭園の構成要素に取り入れるといった彼らの庭園観やそれに基づくデザイン感覚には、渡欧の際に実見したヨーロッパの風景式庭園の影響を読み取ることができるのである。」これについて、鈴木誠(2005)ランドスープ研究論文では、郷里山口県萩の地理地形の影響を受けているという説。また、野村勘治(1997):旅に出たら寄ってみたい庭30小学館、88は、郷土常栄寺の写しであると指摘している。

要約、
1、ヨーロッパ自然風景式庭園の影響=小野健吉・鈴木博之説 
2、郷里常栄寺(雪舟)に影響された芝生庭=野村勘治説
3、郷里山口県萩の地理地形の影響を受けている=鈴木誠説

先ず、2の芝生の説は、当時庭に扱う芝は野芝であり、その存在は随所に見られた。したがって、野村勘治のいう芝生庭の影響は、植物史からいっても以前から取り入れられ「作庭記」には、「芝をふせる」の記述がある。当時の「芝」と現代の「芝」の相違性が気になるが、とにかく芝生を扱う面積が明治期の規模でないにしても以前から芝は、使用されていた。
3、の郷里山口県萩の地理地形の影響については、幼少期の原風景なので少なからず影響はあったであろう。また、彼の母は、5歳の時に亡くなり異母とは、疎遠で祖母に育てられた。有朋11歳の時、士分の若侍を川へ投げたことで士分の父が怒り、有朋を川へ投げ込み祖母が救い揚げ有朋はいつまでも号泣していたという。このときの有朋の感情は、士分・身分の差を痛いほど経験している。

吉田松陰のもとに青年期を迎え、京都で久坂玄瑞、梁川星巌、梅田雲浜らの尊王攘夷思想を徹底的に叩き込まれ天皇親政の国家基盤が出来上がったといわれている。また、有朋の祖母は、元治2年1865年彼が27歳の時に橋本川へ京都土産で新調したちりめんの着物をまとって入水自殺している。当時の彼は、高杉晋作と共に騎兵隊として倒幕路線におり、足手まといになってはならぬという考えがあっての入水と後年回想している。したがって水つながりとしての影響は、多分にあると覗える。が、阿武隈川が橋本川と松本川の合流は河川スケールがあまりにも大きく椿山荘造営時の曲水遣水造営に岩本勝五郎指示の影響があったとは考えにくい。

建造物保存について
常々発信しているが建造物保存は、どうしても残そうと思っている側の想いが大きく偏ってしまう。「あるじを亡くしたムクロ」は、当時住まう施主の魂が遠退き、その在るべき姿は変貌してしまった。役所のみならず、保存方法在り方を見直すきっかけなるといいと願う。今年2月、京都に行くと必ず向かう場所、無鄰庵。その訪問回数は数えきれない。しかし、今回の無隣庵は、あきらかに違って見えた。それは、ヨーロッパの風景だ。今まで薄らと感じていたが、さらにその感情が高ぶってきた。

疑問、誰が造った?
現代では、小川治兵衛からの庭園観研究が盛んに進み、オーナーである有朋側からの庭園観は、あまり描かれていない。それは、一体何故なのだろうか。疎水の恵から市内京都の庭園環境が変化したのは事実ではあるが庭園の転換期であったターニングポイントは、何処だったのだろう。それは、やはり無隣庵からの出発といっていい。有朋の庭園観は、果たして7代目にどれだけ伝わっていたのだろう。おそらくは、初期の植治にあった作庭素地を掴みつつ有朋に接していたとすると、7代目には、相当なプライドを刺激したことだろうと想像できる。京都は現場の職方組織に必ず作業をまとめる番頭がいた筈なので監理する植治から得た情報は、親方(監理機関)番頭(管理機関)職方(技能集団)へとダイレクトに反映したと思われる。

有朋の庭園観、私心
明治42年竣工から15年後の無隣庵が、ヨーロッパ平原に突如として現れる小川のせせらぎに見いだしてしまうのは私だけだろうか。穏やかで安らぎさえ覚える無隣庵を造営した有朋自身と人間性有朋に対しての司馬遼太郎の俗に言う司馬観では、彼の評価は最低だ。
こんなに穏やかでおおらかな庭を好み、幾つもの流れの表現を具現化した有朋が、この近代史において害悪と思われた一員は、いったい何だったのだろう。岡 義武著「山縣有朋」半藤一利著「山縣有朋」伊藤之雄著「山縣有朋」の3冊を通して有朋の人物像がどの様であったか。共通している点は、幕末、明治、大正を生き延びた運の強さと徹底した政治理念だけでは庭園観は覗えない。

時代背景
幕末から明治、大正期を生きた有朋は、あまりにも長生きし過ぎたのかもしれない。私は、歴史学者でもなく、政治学者でもない。また、単純に当時の国の機能を云えば、この国が小さな国だったころ。つまり、決済手続き経路の短い数人で構成された元老院組織がこの国の運命を左右していたともいえる。彼の仕事は、岡 義武著 半藤一利著 伊藤之雄著それぞれの3冊が伝記として伝えているのであえてここには記さない。が、戦記ものになってしまうのは、彼が生きぬいてきた時代のせいかもしれない。

闘いの日々
高杉晋作率いる騎兵隊での戦い。上野、彰義隊の戦い。さらに長岡、北越戦争。会津鳥羽の戦い。榎本武揚、土方歳三が率いる函館戊辰戦争、五稜郭入場時、年号が明治となった。明けて1869年明治2年、五稜郭陥落。西南戦争の後、騎兵隊の解体等彼は、常に戦い。多くの血を流し、殺戮をくりかえしている。歴史書は、常に勝った側が作成するもの。明治新政府から見た歴史観は、大儀の明治史であり、幕臣派から見ればテロ攻撃であったろう。






最終更新日  2010年11月11日 20時38分28秒
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2010年10月31日
カテゴリ:ガーデンデザイン
京都に行ってきました。
10月28日から30日の旅です。
京刃物の大隈→重森三玲邸庭園


昨日帰ってきたら台風で大変。小田原まで順調でしたが、茅ヶ崎まで各駅で順次走行でした。幸運にも関西京都では、台風の影響が無くラッキーなしっとり京都を堪能できました。

今回の旅は、濃い見学会になりました。先ず、10月28日午前中に京刃物の大隈さんの処へ・・・・ところがお留守とのことで30日(土)に出直すことにしました。お昼を済まして午後の予定は、重森三玲邸庭園です。その後は、今晩の宿泊先祇園へ。宿泊で祇園は、初めてです。2月にも来ましたが、今回もちょっと寂しい祇園でした。
重森三玲邸庭園です。
重森邸園内1
極力私は、庭の写真を撮りません。自分が撮るより写真集のほうが俄然好いからです。

重森三明 (しげもり・みつあき)重森三玲さんのお孫さんにあたる方です。

京都芸術短期大学専攻科修了、パリ国立高等美術学校卒業。1997 年に帰国後、CCA北九州のリサーチ・プログラムを修了。2000~2001 年、生家、重森三玲旧邸においてアートプロジェクト「Shima/Islands」を共同企画。2006年秋、「重森三玲庭園美術館」開館、館長に就任。現代美術、庭園など「場のアート」の研究、設計、創作を行う。
解説の重森さん
今から30年以上前、重森三玲さんには相当影響を受けていました。初めて観た時の衝撃は、例えられません。それから否定と拒否、そして理解へ。いったい自分自身に何があったのか。
重森邸園内1
当日は、じっくりお話してしまいました。ここ最近の私の庭園観は、ある方の捉え方の発言によって自らの捉え方が大きく変わりました。
水屋と坪庭
造園という狭義では、あまりにも低すぎる。アートとしての彼を観ることで、ようやく理解出来始める。彼は、彫刻家だ。造園という狭義では、計り知れないエネルギーを感じています。
次は、碧雲荘→無隣庵→炭屋






最終更新日  2010年10月31日 22時32分15秒
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2010年08月30日
カテゴリ:ガーデンデザイン
先月、いまさらながら日本庭園協会に入会しました。
今年の1月、東京支部の落合さんから日本女子大での講演会の招致か
ら半年後の入会手続きでした。

25日には、3日間の安諸氏のもと版築講習会に参加しました。
版築 築地塀

というより、午前中仕事で午後から出発したので着いたのが17時で
完全に終わっていました。それでも安諸氏他、主催者側の東京支部
の皆さんを含め「充実した良い顔」していました。久しぶりに、熱
いものを感じた時間でした。
明星大







最終更新日  2010年09月01日 18時34分16秒
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2007年11月09日
カテゴリ:ガーデンデザイン
湘南邸園文化祭2007
湘南邸園文化祭とは、相模湾沿岸地域で各地の邸園を舞台にインスタレーション、音楽、講演、映写会、など文化芸術創作活動が行われています。

2年目になる湘南邸園文化祭2007の茅ヶ崎会場、「高砂緑地の歴史と文化景観を考える」が11月3日に開催され多くの同時開催事業の中、多数のご来場ありがとうございました。

今から23年前、次々に消えていく別荘建築の一つ、マンション建設の反対運動の末茅ヶ崎市によって緑地公園として現在は憩いの場として存在している。と文書に表すと簡潔な出来事にも思えるが、その経緯については悲喜こもごもに描き出されている。

当時、まだ建造物の保存運動が盛んではなかった頃の出来事である。私自身20代の後半で「バブル」全盛の身で朝のCNNニュースを見て夜のCNNニュースを見てから寝る毎日、それどころではない。まったく無関心であったことを現在では反省している。

11月3日の当日は、反対運動をされた渡辺、岩本氏をはじめ「松籟荘」の書見を制作した横浜国大の大学院教授吉田鋼一氏をお迎えし、フォーラムが開催された。当時50代の方は70代、既に亡くなられた方もいらっしゃる。あっという間の23年だ。

昨今では、リノベーションなど単に保存を促すだけでなく保存家屋を活かす手法が定着しているがそう簡単にはいかない。同時に庭の保存にも同じことがいえる。永く仕えていた「お屋敷」は、相続とともに分割され狭小住宅かマンション建設の憂き目にあう。この相続とは1905年日露戦争の戦費を賄うために制定されたといわれている。

家督3代目には無くなる租税だ。例えば山林はの材木は、3代後に製品となる。つまり、納税する時には半分以下になるという。山林相続については平成14年度税制改正への要望内容を固めた。いつだったか画家の相続人が相続税が捻出できずに「絵を燃している」衝撃的なニュースを見たことがある。つくづくこの国の文化度の低下が図り知れる。

高砂緑地

松籟荘は、明治35年(1902)新派俳優川上音二郎が約3000坪の敷地を埋め立て住居を構えた所で後、大正8年日本化薬社長原安三郎が保養によい温暖な土地を求め2200坪を購入した。当初、「松籟荘」跡の位置に建坪40坪の二階建既存の建物を使用していたという。

音二郎井戸

明治44年(1911)川上音二郎は、舞台で倒れ帰らぬ人となった。一方、夫音二郎を亡くした貞奴は、福沢桃介との縁を深め(NHK春の波濤)ていく。大正6年(1917)貞は女優を引退し名古屋に居を移し、児童劇団を結成している。つまり、原安三郎が土地を購入し、しばらく住んでいた建物は、川上音二郎の家だった事と察することが出来る。

春の波濤

しかし、大正12年(1937)9月1日関東大震災で倒壊した。茅ヶ崎の別荘建築は最盛期には200戸を超える別荘があったとものと思われるが震災で倒壊を逃れたのは僅か4棟だけだったと云われている。その後、昭和6年(1931)に「松籟荘」が建てられ昭和7年(1932)には、回遊式の庭園が造られた。この頃、当時7歳の私の父は貨車から庭園材料が園内に運び入れられているのを見ていたという。

中海岸地域別荘分布

松籟荘エントランス、ステップ

この頃の日本は、昭和2年(1927)の昭和大恐慌、つづいて昭和5年(1929)の世界大恐慌のころでもある。昭和8年(1932)には、総理犬養毅が暗殺されている。「松籟荘」はその時代の建物だった。全体の様相は、イタリアのヴラ、スペイン調の民家の印象を受けた建物で別府ステンドグラスが程よく設えられていたという。






最終更新日  2007年11月10日 09時29分22秒
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2007年11月02日
カテゴリ:ガーデンデザイン
飛び石

3年ほど前、裏千家のお茶の先生宅で飛び石と三つ組みの据え方を教えていた時の話、
事の発端は、またも「思い込み」
「こらぁ~何やっとんじゃー、ボケ」とは言わなかったものの。キミ、「当然、右足からだろ。京都では何してきたの~」と言った時、生意気にも「私は表千家でしたから」と言われたときはちょっとショックであった。とはいっても裏千家の庭なら「郷に入ったら郷に従え」だろ。といってその場を収めた。

よくよく話を聞いてみたら京都に修行に行く=手入れを習得する=庭師なのだそうだ。京都にいて庭つくりの経験がない? 造ったことないのに庭師?

「ふ~ん、そうなの」

恥ずかしい話だ。私は裏千家の手前しかやっていないのでつい最近わかったこと、表と裏では足捌きが違うことが判明した。裏千家では陰陽五行を基に考えられている作法なので右足は陽。点前は右足から入り、畳の敷き合わせの踏み越しも右、すなわち陰の客に対して陽の側を常に客付けとして足を運ぶ。

これは、露地でも同じことが云えるのだ。このことが判ってからはどちらも対処出来る様心がけることにしている。右足から出て、左足で帰る・・・裏では当たり前のようにされている。
ところが表では逆だという、裏では逆勝手があり戸惑うことしばしある。3年前、第一歩を左にした職人を諌めた時判明したことだった。諌められた本人も判ってはいない行為でもあるが、陰陽が逆。

その頃、近所の中学で総合学習の時、或実験に参加してもらった。これも初めて実証された。当日雨なので屋内での授業となり行動学のお話をさせてもらい。被験者10名、右利き左利き問わず或実験を試みた。

そこでは、「左と右」の行動心理の「右周りと左周り」の際、「左利きの子と右利きの子」との行動が異なることが判った。文章だと判りにくいかもしれないが飛び石を3歩目で左右に分けたとき、「右に行くのか左に行く」のか、「第一歩の左足が先か右足が先なのか」第一歩で右利き左利きが判るいい機会であった。

もしかしたら、これは、あくまでも推測と憶測。

利休亡き後、宗旦・宗室が裏千家に、宗旦の三男宗佐は表千家として家督されいく。四代江岑宗佐以降の襲名に「宗左」の「左」が付けられてことも気になるが、所作共々左右に関る所作が表裏どちらも違う所作になっているのはなぜか。もしかしたら祖は左利きだったのかもしれない。

表千家と裏千家の手前の違い

部屋に入る時
表、左足から
裏、右足から 出るときは逆の足から

お茶を出す時
表、茶碗を反時計回りに回して出す
裏、茶碗を時計回りに回して出す

茶碗を返す時
表、反時計回りに回して返す
裏、時計回りに回して返す

茶碗の仮置き
表、二手(左手、右手)で仮置き
裏、一手(右手)で仮置き

茶杓を出す時
表、茶杓が反時計回りに回る
裏、茶杓が時計回りに回る
もし、左利きだとしても右利きの者が左手で箸を持つだけで手が "プルプル" しちゃうのにその昔、左利きを異端と思われていた事を思うと想像を絶する努力が要求されたに違いない。
あくまでも推測と憶測だ。「裏」と「表」のお手前が何故逆なのかの説明は何処にもしるされていない。

と思ったらkokorouruoi.blog105.fc2.comのブログではこの様なことが書かれていた。

※小田榮一 先生のお話によると
   「宗旦(利休の孫)が左利きだったために
    帛紗を左に着けるようになった」
   という説もある(古い書物に記されている)のだそう。

小田榮一 
原色茶道大辞典、詳細. 茶会記の風景、茶会記を読むなど茶道本がたくさん出されています。

裏千家お手前には「本勝手と逆勝手の点前」がある。これは、裏千家独自のもので稽古のときは勝手が違うのでかなり戸惑います。「右、左」両方知ることで初めて判る事でした。反省!!






最終更新日  2007年11月02日 10時31分20秒
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2007年10月24日
カテゴリ:ガーデンデザイン
先週弟子の子が茨城で結婚式を挙げるため片道4時間の移動中車のなかで「そうだしばらくやっていなかった勉強会をやろう」ということで先日の10月20日実技勉強会を開くことにしました。当日は、式を挙げた弟子とその手元、社の3名。合計5名で行うこととなったのですが、弟子のほうは10時で次の現場に発ったので残りの3名で進めることにしました。

実習は久しぶりです。大学での講師から20年は経っています。当時のわたしは30代のバリバリで妙に偏った考えの持ち主でした。学生からは相当嫌われていたことでしょう。
なにしろ学生相手に本気で習得させようとしたのですから嫌われるに決まっています。渡したテキストは殆ど読んでいない状態なので本来は、楽しく自由に好きなようにさせることのほうが彼らにとって好かったのかもしれません。

当時と同じく区割りから始めます。学生には直角の割り出しから始めるのですがまず直角の概念が無い。right angleがピタゴラスの定理で机上理論のままなので9時から始めた区割りもお昼過ぎになる始末。とにかくヒントをだして直角を出させますがまるで小学生並みであることは云うまでもありません。4~5年前に近くの中学校で総合学習の講師を依頼されて「現場で直角」という授業を丸一日やりましたがそれなりにマジに取り組んでいました。

脱線気味なので戻しましょう。現場慣れした彼らは2×4板で難なく整地まで含めて一時間程度で区割りが完成。整地をする頃、弟子は、他の現場に程なく発ちました。
1.JPG
今回の主旨は、「仕上げとは何か」と「構成能力の判断」を診ます。構成は飛び石と延べ段、自然石を扱うので普段20~30ミリの「切った貼った」の甘い考えは通用しません。貼るではなく「据える」が基本です。この基本も無く「切った貼った」しかやっていない者の仕事では比較にはなりません。

画像は、基本的な飛び石の打ち方です。
実習2
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実習19






最終更新日  2007年10月24日 10時15分37秒
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2007年03月01日
カテゴリ:ガーデンデザイン

昨年、取材を受けた2作が掲載されています。

今回は、バラエティーに富んだ緑美しいデッキテラスとモダン和風です。一例目は、珍しくジキタリスの似合う家です。国内でジキタリスの似合う庭はめったにないと思います。二例目は、露地をベースにモダン和風にまとめてあります。構成には無駄なものを削ぎ落とし、狭いながらアプローチで動きを出しています。

新刊 初めてのデッキ&テラス.jpg







最終更新日  2007年03月01日 22時38分12秒
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2007年02月28日
カテゴリ:ガーデンデザイン

 凹凸と凌駕

 DSC0315105.JPG

人間の視覚は、体験的に下方にあるものが前方にあり、しかも実在性の強いものと知覚するのが普通で図を見る手前の人間が常に基準であるから、下方のものがあるように知覚する。

勢いSI横須賀K邸.jpg

 







最終更新日  2007年02月28日 23時01分19秒
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2007年02月14日
カテゴリ:ガーデンデザイン

今日の天気は荒れていました。本日の江ノ島です。DSC04062.JPG

ここのところブログのサボりが続いています。

昼間は打ち合わせやお客様の接客でどうしても作図作業が夜間に集中します。

現在進行中の図面公開します。公開の2件は進行中です。プライバシーのこともあるので小さくします。 

DSC04064.JPGDSC04067.JPG

そのほかの2件はどうなるのかわかりません。ご縁があると良いのですが・・・・・

どうなるのかわからないのでもっと小さくします。

DSC04065.JPG              DSC04066.JPG

 

 







最終更新日  2007年02月14日 23時02分31秒
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