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2011年01月29日
全23件 (23件中 1-10件目) 近代別荘・別邸史
カテゴリ:近代別荘・別邸史
第五の不思議、音二郎一行は、どの経路で団十郎を訪ね、葬儀時、何処を道普請したのだろうか?
「鄙びたといっても、茅ヶ崎には団十郎の別荘もある。梨園の長者である団十郎を、音二郎が表敬訪問すると、「松籟の音や波の音が、いまにも頭の上へ落ちて来そうに思われるので、夜などは物すさまじゅう感じますわえ」と療養中の団十郎は言った。茅ヶ崎はまだそんなところだった。」 山口玲子著小説「女優貞奴」第5章 女優開眼 茅ヶ崎の魅力に早くに気付き、別荘「孤松庵」を設けたのが「劇聖」と呼ばれた歌舞伎俳優九代目市川団十郎(1838 - 1903)。今から100年以上前、東海道線茅ヶ崎駅が開設される前別荘地として、芸能ゆかりの地として開かれていく茅ヶ崎のまちの物語はこの団十郎別荘から始まる。 この屋敷で六代目尾上菊五郎など次代を担う若い歌舞伎俳優も育った。したがって茅ヶ崎は近代歌舞伎伝承の道場であったともいえる。団十郎は1903年明治36年9月13日茅ヶ崎の別荘(孤松庵)で亡くなっている。茅ヶ崎での葬儀で弔問客のため駅から団十郎邸までの道普請や道案内に奮闘したのが高砂(たかすな)緑地の住人川上音二郎であった。では、それは、何処の道だったのだろう。 これはよく知られたエピソードであるが、この時川上一門と福井茂兵衛は、弔問客に備え茅ヶ崎停車場から団十郎別荘かまでの道の整備にあたり、全国へ指令を出して新派劇を一日休演させた(注28)この間音二郎は大磯蹌浪閣に伊藤博文を訪ね、20日の青山斎場での本葬のための弔辞を依頼している。 一国を代表する俳優を葬るのに国家が顕彰するのは当然との西洋での見聞を訴えたのだろう。前代まで最下層の身分に置かれた俳優のために一国を代表する元老の弔辞は、異例のことであった。斎場でこれを代読したのが音二郎である。 15日、遺体は茅ヶ崎駅から東京の本邸に向け搬送されるのだがその前にわざわざ村内を一周して別れを告げている。団十郎の遺志であったのだろう。茅ヶ崎駅から貨車を貸切り、棺は鉄路東京築地の本邸に送られたのだがこの時駅頭で棺を見送る一人の少年がいた。6歳の土方与志である。このことについては前号島本千也氏の論文でも触れられている。端なくも茅ヶ崎駅頭で三世代の代表的な演劇人が会したことを記念する風景である。 注28 注1-6「そこで停車場から師匠の別荘までは一里余もあり、五つも路があって、川上さんの前を通るのが一番近路なので、小川があった処へ橋を架け、所々へ杭を立てて堀越(団十郎の本名)道という貼紙をしてランプを吊り下げたのですが、実にこの機転で東京から来た人達は助かったのです。ヒストリア茅ヶ崎2011第3号より小川稔氏文 ![]() ![]() 地図左明治29年から42年、地図右大正6年から13年 茅ヶ崎町の中心は、1921年大正10年にはすでに駅北側に形成されている。新町地区と西へ旧東海道筋まで宿場町らしい商店街が形成されている一方、駅南側にはまだ家屋は少ない。南湖へ向かう人は、駅を降り、一旦北口へ出て、商店街から左折して、踏切(現在の地下道)を渡っていたと考えられる。 駅南側に改札が出来るのは茅ヶ崎駅開設からずいぶん経ってからである。昭和2年9月21日、新田信茅ヶ崎町長の覚書に1923年大正12年南湖院長高田畊安から南出入り口を開設する必要なる土地を率先無料にて鉄道省へ寄付せられたるに対して感謝の意を表している。ヒストリア茅ヶ崎2011第3号より 1903年明治36年、博文館の雑誌『太陽』12月号に載った江見水蔭「霙」の冒頭に次のように描かれている。江見水蔭は、1903年明治36年1月25日、川上音二郎一座の翻案劇『オセロ』の本読みに茅ヶ崎館を訪れている。この時の経験が小説「霙」になったもの。 「砂の白きに埋れて青麦未だ芽を見せず。桑に葉は無し甘藷は蔓のみの畑。これを幸ひの間道にして、行来の人の足跡の多いのに釣込れた我、正しき路を捨て。つひ此方を取って行く茅ヶ崎停車場の裏手。路ならぬ路を踏んで砂山を越し松原に入り、未だ初雪を見ぬ此頃に梅の咲く宿を訪れた。」 「行来の人の足跡の多いのに釣込れた我、正しき路を捨て。つひ此方を取って行く茅ヶ崎停車場の裏手。」と、正式な出入り口ではないが、停車場の裏手からの路がすでに出来ていたようである。駅南側の海岸地区が次第に開発され、人の往来が多くなれば自然と道(踏跡)が開かれたものと考えられる。 1923年大正10年測図の地形図では駅南側に、4~5軒の建物が確認されるのみである。駅の改札口があったかどうかは不明であるが、駅を降りた乗客が南口を利用しているのは理解できる。おそらく、各別荘や南湖院への案内・送迎の人力車(タクシー)の拠点が出来ていたと考えられる。 文 地理・地域研究者 島本 千也(しまもとかずや) ![]()
2011年12月20日
カテゴリ:近代別荘・別邸史
「さきの雷坊らしき少年と川上家の内弟子の谷斎一が犬と戯れ、ロバと山羊も一緒に写っている。他に豚や家鴨も飼っていて、まるで動物園のようだったという。周囲は茫漠たる松林で、背景にかすかに万松園の屋根が見える。内弟子たちは、早朝からブーブー、ガーガーとやかましく鳴き立てる動物の声に悩まされた。が、人工的な都会育ちの貞には、このように鄙びた一軒家に動物たちと暮らすのが、年来の夢であり、五年ぶりに得た安らぎであった。」
山口玲子著小説「女優貞奴」第5章 女優開眼より ![]() 村井玄斎関係書簡 貞より音二郎の病状について とある。これは、当時人気作家平塚に住まう村井玄斎の庭園観と同じ傾向がみられる。1904年から亡くなるまで神奈川県平塚市の平塚駅の南側に居住。『食道楽』の印税で屋敷の広大な敷地に和洋の野菜畑、カキ、ビワ、イチジクなどの果樹園、温室、鶏、ヤギ、ウサギなどの飼育施設、厩舎を築造し、新鮮な食材を自給した。 当時は珍しかったイチゴやアスパラガスの栽培まで行った。また各界の著名人を招待し、著名な料理人や食品会社の試作品などが届けられるという美食の殿堂のように取りざたされる優雅な暮らしを営んだ。 ただし、彼は一連の『食道楽』ものを終了した後に断筆、報知新聞をも辞職してしまう。その後、脚気治療のために玄米食の研究に没頭し、また断食、自然食を実践した。また、自ら竪穴住居に住み、生きた虫など、加工しない自然のままのものだけを食べて暮らし、奇人、変人扱いされた。Wkipediaより 『近代の別荘と別邸』の出筆者安島博幸氏は、別荘分類を近郊賓客接待型、高原避暑型、温泉保養型、海浜保養型、農場経営拠点型、近郊保養型と分類した。貞が描いたこの萬松園は、まさに海浜保養型と農場経営拠点型、近郊保養型を複合的に併せた施設だったといえる。 明治36年7月8日「都新聞」に川上音二郎は、先に茅ヶ崎へ千数百坪の地所を買い入れたるが右は邸宅及び牧畜家禽中(きんちゅう)に宛てたれば今回更に俳優学校敷地として鉄道線路沿いの小松原4500坪を買い入れ山岸茄葉氏(雲石に)輝毫(きごう)を請い俳優学校の標?(ひょうびょう)を立てたりと尚今8日茅ヶ崎に住所を定めたる披露をするに付き本郷座に出勤すべき新派大一座が赴き〈楠公桜井駅〉〈ヴェニスの商人〉〈台湾鬼退治〉等の等の演劇を催す由にて一昨日来小屋掛けをなし全村大騒ぎの記事がある。 1903年明治36年7月8日「都新聞」 この記事の鉄道線路沿いの小松原4500坪俳優学校が計画されたものが面積は定かではないが高砂下が推測される。計画地の候補として現在の厳島神社南向かいの線路沿いが候補地の一つだった可能性が高い。十間坂茅ヶ崎座ではなく、後の大黒館の前身、「くもかん」という芝居小屋があったと聞き伝えられている。(十間坂、坂巻佐助氏談・聞き取り野崎) 山岸 荷葉(やまぎし かよう、1876年 - 1945年3月10日)は、日本の小説家、書家、劇評家。 ... 雲石と号し、巌谷一六門下の天才書家として知られる。加賀屋を継いだ兄山岸定吉の妻つるの従兄弟に当たる尾崎紅葉の門下に入り、硯友社同人となる。スパイシーより
最終更新日
2011年12月25日 13時15分03秒
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2011年12月01日
カテゴリ:近代別荘・別邸史
調査終盤になって次のような記事があきらかになった。江見水蔭独特の文章によって表記された回想録である。
![]() 「川上と団十郎。対象させるのは不服の人も有りませうが、当人としては確かに向うを張っていたので、茅ヶ崎の堀越(団十郎)の別荘を、孤松庵と呼ぶに対し て、自分の同所の別荘を(本邸は其の頃無いのですが、)萬松園と名付けて、いや、伊藤公に名付けて頂き、其の額面を同公に揮毫して貰って喜んで居りまし た。」「この揮毫を表具師に頼んでくれと、私の品川陣屋横丁の宅に持ってきたのは、夜更けてでありまして、門を開ける時にグチャリと攫んだのは、守宮……。」(江見水蔭「私の見た川上音二郎」『藝術殿』一九三二年(昭和七)一一月号) この文章を分析すると 1、団十郎別荘と対象するということは、団十郎に対し格差を自覚している。 2、当人としては確かに向うを張っていた。ということは、対峙する目標を示している。 3、孤松庵に対して萬松園の呼称を明らかにした。 4、「自分の同所の別荘を(本邸は其の頃無いのですが、)萬松園と名付けて」とある自分の同所の別荘とは、あきらかに茅ヶ崎の地を示している。 5、(本邸は其の頃無いのですが、)をどの様にとらえるのか A、「本邸は其の頃無い」とは、音二郎・貞の住まいは、その頃はない。住所不定 B、「本邸は其の頃無い」とは、本邸ではない別の建物が購入前に存在していた。 C、「本邸は其の頃無い」とは、土地は存在したが、建物は、無かった。では、ここでいう「本邸」の表記は、何を意味しているのだろうか。 6、萬松園と名付けて、いや、伊藤公に名付けて頂き、伊藤公とは、伊藤博文のこと これについては、「いや、伊藤公に名付けて頂き、」とあるので「いや、」という否定から「伊藤公に名付けて頂き、」肯定に転化している。それは、団十郎に対して不均衡な格差均衡を図る目的で伊藤博文が名付け揮毫してもらったというのがどうも真意であるようだ。
最終更新日
2012年03月10日 10時20分02秒
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2011年11月27日
カテゴリ:近代別荘・別邸史
さて、近代別荘とはいったいどの様なものであろうか。2004年4月19日平凡社刊日本の別荘・別邸の中で『近代の別荘と別邸』安島博幸氏によると明治前の平安時代の宇治平等院、室町時代の金閣寺、江戸時代の桂離宮、諸大名の中屋敷・下屋敷などがあり、湯治や狩猟等の趣向がための場所とされている。
近代的別荘の成立を安島博幸氏は、この様に説いている。明治維新以降の別荘を大きく三つの段階で分けている。 第一期、 時代は、1887年明治20年代位に建造されたもので新興財閥系、園遊会目的等の賓客接待型別荘。深川の岩崎別邸、三田の三井倶楽部、京都の山縣別邸がある。 第二期、 1887年明治20年頃から1914年大正3年の第一次世界大戦位まで明治期に欧米から日本にやってきた外交官、宣教師、貿易商、お雇い外国人等が西洋別荘スタイルもって初期リゾート型別荘が定着する。 第三期、 1914年大正3年の第一次世界大戦から1941年昭和16年頃までの間、「武蔵野」や「自然と人生」の郊外生活への憧れが中流階級によって避暑等の大衆化が定着した。 その他の分類として、近郊賓客接待型、高原避暑型、温泉保養型、海浜保養型、農場経営拠点型、近郊保養型がある。このように大別された中でこの茅ヶ崎は、第二期の別荘開発から第三期の大衆化を経て高度成長期における近郊住宅地としての茅ヶ崎が形成されていったといえる。 第二期の1900年前後の明治30年代は、小説「自然と人生」・1898年明治31年1901年明治34年「武蔵野」が出版され郊外生活の流布も相まって影響され日清。日露といった軍事褒章の影響から当時の高官、軍人が各地の別荘を購入し始めるのが第二期の茅ヶ崎の特徴ともいえる。 そこで、大胆な仮説をたててみた。(楠・野崎)弧松庵は、猟師の目印にされていた「からかさ松」という一本松が敷地内にあることにちなんだものといわれたその団十郎別荘に対して川上別荘は「萬松園」と名付けられた。この一本松に対して萬松とは、あまりにも対峙している。 (注茅ヶ崎市史4第二節別荘と海水浴) 当時の高砂上、下の地理状況は、江戸末期海岸防衛のための砲弾演習の妨げのため、天明5年1785年辻堂、小和田、菱沼村の野永場17町8反7畝の松総数18650本を伐採している。このように当時、幕府と農漁民との対立があった。(注茅ヶ崎市史1通史、幕府と農漁民との対立) 当時伊藤里之助は、別荘誘致開発の一端として防砂を目的とした防砂林を明治32年1899年6月26日神奈川県に伊藤町長が植林の申請を届けている。つまり、明治29年当時のこの地は不毛な荒地であったことがわかる。後の1902年明治35年には、一面「小松原」となったこの茅ヶ崎が小説「霙」の舞台となる。 この様に松の無い高砂下に何ゆえ「萬松園」と名付けたのだろうか。また、駅が出来る前、この地に宿泊のできる宿「萬松園」が存在したのか推理してみた。一つは、別荘誘致のため伊藤里之助は、ここに宿泊可能な家屋を造り別荘体験ができるようにしていたのではないだろうか。 その理由に、1897年明治30年8月7日茅ヶ崎の駅舎が出来る一年前に宮内庁関係の花房義質(はなふさよしもと)が滞留地は、萬松園以外の中村楼や茅ヶ崎館といった宿泊地もあったろうと推測されるが萬松園への滞留人数確認の書簡を別荘誘致に励む伊藤里之助宛てに届けられている。 第二に「萬松園」の名付け親は伊藤博文ではないかという説。この説があったとすれば伊藤違いの伊藤里之助ではなかったのか。これについては、1898年明治31年に駅が出来ることも不毛のこの地に多数の松が植林されることについては、当時の伊藤里之助しか知りえないことであること。「萬松園」の名付け親は、伊藤違いの伊藤里之助ではなかったか。 後に茅ヶ崎館発行の絵葉書における茅ヶ崎八景の「高砂の名月」の舞台、高砂下が選ばれた理由があるはず。明治31年に駅舎が出来たことでこの高砂下の地はかつて南湖や茶屋町が中心地であった場から程遠い駅舎が出来ることでやがて茅ヶ崎の中心地となり代わっていくのである。
最終更新日
2012年03月10日 10時21分10秒
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2011年11月24日
カテゴリ:近代別荘・別邸史
次の画像は、萬松園門前の集合写真。音二郎が居るので所有した明治35年からに雷吉君の戸籍について伊藤里之助に書簡を送った明治43年までの間、約8年間のなかでの集合写真。この集合写真はいったい何処で撮られたものだろう。この画像の左側にシイノキが植えられている。
もし、原安三郎の土地購入後作庭時にこのシイノキが移植されていなけれ・・・ 次の画像は、現在の元正門の画像である。大胆にも合成してみる。もし、この建物が既存にあったとすれば音二郎一行が帰国し、建造中の建造物はどの様な建造物だったのか? 8月21日に帰国、翌月9月28日から10月22日の登記。この間2ヶ月。しかも10月3日には江見水蔭との打ち合わせを果たしている。 それは、建造中であったがためにオセロの稽古や読み合わせを人寄せのできる茅ヶ崎館、稽古の出来る中村楼になったのだろうか? ![]() ![]() ![]() 萬松園は、和洋折衷と聞いている。気になる画像は、夏服でくつろぐ和室前、縁の下飾りを見ると造りは和のようだ。もう一つは、紋付袴正装でショールを持っている鉄製の門扉前。この背後に和洋折衷の建物があったのだろうか。季節は冬だ。 ![]() ![]()
最終更新日
2012年03月10日 10時21分53秒
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2011年11月21日
カテゴリ:近代別荘・別邸史
「茅ヶ崎むかし語り」
![]() ここで、小学生であった原氏の姪である柴田周子・稲村秀子さんは、「茅ヶ崎むかし語り」P4の2行目に記されている。「川上別荘があったのは、今の芝生の花壇の辺だけじゃなかったかな。今の門の右側ね。駅前に小原さんという石炭屋さんがあったでしょう。 ここ(高砂緑地)の土地をどの部分か知らないが持ってたっておっしゃってた。3軒か4軒かをまとめて買ったんですね。2階が屋根の上が陸亀みたいになっていたから、見晴らしみたいのがあったような…。すぐ地震(関東大震災1923年T12)で潰れましたからね。 それで、オシダさんって方が畑をつくったりなさるでしょ。そんな道具が立てかけてあったりして田舎のようでしたね。家は田舎のようではなかったです。」と小学生時代にみた川上別荘の建物の印象を語っています。 さらに、萬松園となる敷地は川上貞(定)名義後翌年、幡豆寅之助によって1903年明治36年から1918年大正7年に至るまで買い足されている。市史編纂、第2表川上定分土地取得状況によると現在高砂緑地を管理する茅ヶ崎市公園課の台帳では、面積約0.6ha(約2000坪)で1216坪が川上定分として明記されている。 1902年明治35年8月、欧州公演旅行を終え帰国した川上夫妻は、この茅ヶ崎を日本での演劇活動の拠点として考え俳優養成学校を事業しました。川上定(貞)分9筆1216坪、姻戚関係の幡豆寅之助分を含めると最終的には14筆1757坪を高砂下の土地家屋を取得する。ここまでが生涯学習科の調査。 この度、調査で解明されたのは、幡豆寅之助氏と川上貞が姻戚関係であったことが解明されたため1906年明治39年2月5日幡豆寅之助取得10293番地の222.4坪を足すと1979.4坪約2000坪の取得が判明した。その他、明治30年の8月、花房義質の書簡によってこの茅ヶ崎に萬松園があったということが明らかになった。 幡豆寅之助の住所は、北海道小樽区土場町7番地とあり、貞の実兄幡豆勝次郎の縁者と思われる。実兄幡豆勝次郎は、「山口玲子著『女優貞奴』に文中出展されている。「実兄幡豆勝次郎は、貞がもの心つく頃には、既に屯田兵になって北海道に移住している」と記されている。貞の血縁筋小山家の過去帳から没年順に、源兵衛、花子、トヨ、タガ(タカ)、留吉(留三)、久次郎、夏子、彦造、倉吉、幡豆勝次郎、貞の11人の名前が見出され貞と勝次郎の二人を除く以外は、小山姓になっている。 幡豆寅之助と川上家との関係については、白川宣力著『新聞にみる人物像』の海賊島・川上音二郎の探検(2)の文中『オセロ』の翻案劇のために台湾視察を描写する記述がある。『オセロ』の翻案劇は、1903年明治36年東京公演にて日清戦争後日本の植民地として領有した台湾に設定し、─ヴェニスのムーア人オセロを、「原住民」鎮圧のために台湾に送り込まれた薩摩出身の帝国軍人に変更し演じられている。 出展、白川宣力著『新聞にみる人物像』より 幡豆寅之助の人物名は、白川宣力著『新聞にみる人物像』にも筆出している。出展、新聞にみる人物像によると「川上、其れから自分の親戚に常(あたる)幡豆寅之助と云う人、此の人は嘗て(かつ)横浜の水上署に奉職をして居って海上のことに詳しいと云うので同行をして連れ立ち前期の日取りで東京を出発11月19日に神戸から泰南丸で泰湾澎湖島へ志した」とあり、幡豆寅之助と川上音二郎と共に当時の台湾事情を視察している記録があった。 1911年明治44年11月11日に音二郎は亡くなる。その7ヶ月前1911年明治44年9月、博多の櫛田神社に土地・建物を寄進した際の書類(登記簿抄本)は、川上音二郎の名で神奈川県高座郡茅ヶ崎町茅ヶ崎12684番地、現在の南湖4丁目16-34番地に相当することがわかった。彼の本籍住所が何故ここだったのか未だもって謎。高砂下土地名義が大正七年、原氏に譲渡するまで貞と姻戚関係の幡豆氏の名義であり、そこに音二郎の名義はなかった。 ![]() 当時の旧登記簿によると登記主は伊藤里之助になっている。ここは、小山敬三別荘に程近い場所。驚いたことに中村楼当主星野岩松土地所有が近隣であった。何故かというと中村楼当主星野岩松の所有地が川上定、幡豆寅之助が購入した萬松園の隣接地にあったからだ。何故隣接地にあったかは、未だに不明。 萬松園について我々は、大胆な仮説をたてた。それは、萬松園の由来について、1897年明治30年8月7日茅ヶ崎の駅舎が出来る一年前に宮内庁関係の花房義質(よしもと)萬松園への滞留人数確認の書簡記録が茅ヶ崎美術館館長小川稔氏によって発見された。このことによって万松園は、川上貞が茅ヶ崎に来る5年前には存在し、1899年明治32年3月13日に中村楼が旅館案内を広告。同年8月官設鉄道案内の旅館案内は既に萬松園が紹介されていた。
2011年11月18日
カテゴリ:近代別荘・別邸史
左 明治29年から42年の地図 右 大正6年から12年の地図
明治29年から42年の地図にはあった道が、大正時代には道が無くなっている。また、萬松園からの道や数本の道が出来きているのが確認できる。また、南口駅は、大正12年大震災後に登場するので明治29から42年の地図では確認できない。 しかも、○印の場所は3万坪におよぶ中村楼が在った場所が明確になった。 ![]() ![]() 上の地図では、わからないので昭和29年までの地図を同時に載せてみる。 ![]() ![]() 茅ヶ崎市役所の大絵図と登記所の旧土地台帳記録 萬松園の現在、高砂緑地であるこの公園は、実業家であった原安三郎の別荘松籟荘1919年大正8年6月5日の跡地であり、先の所有者川上音二郎・貞奴が所有したとされる萬松園は、1902年明治35年10月22日~11月28日川上定(貞)の名義と幡豆寅之助の名義で購入されている。 ![]() ![]() この旧土地台帳を見ると当時この川上邸で道が行き止りとなっている。つまり、現在のように鉄砲道へ続く道は、この当時存在していない。最終的に川上貞(定)幡豆寅之助が購入した土地は、次の通り。 ![]() ![]() この図面でわかるのは、宅地部分が2箇所しかないということ、その他は山林、畑 の地目となっていることが今回はっきりした。 図参照(有)プリムローズ・湘南企画工芸 野崎幸夫製作 (旧登記簿・大絵図・法務局現登記図を重ねた図、青の斜線部分が最終購入地)
最終更新日
2011年11月19日 21時03分43秒
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2011年11月13日
カテゴリ:近代別荘・別邸史
星野岩松1845年弘化2年.07.05~1910年明治44年12月1877年明治10年星野岩松は「土木受負の志を起して建築工事に従事し専ら外務省の工事を受負ふ」また、音二郎もいたパリ万博に「在横浜の仏国郵船会社々員の依託を以て日本建築中殊に精巧美麗を以て称せらるゝ寺院の山門を模造し」「『パノラマジオラマ』会社に装置して観覧者の大喝采を博したる」1900年明治33年04~11京浜実業家名鑑(1907) 水沢富士夫氏調査2011年
かれは、この茅ヶ崎に数々の土地を所有していた。川上音二郎・貞の所有地の隣、南湖小山敬三別荘の近隣など幾つかの登記が確認されている。別荘誘致等の不動産事業のさきがけとも言える行動が気になる。 ![]() ![]() その後、支点中村楼は大阪の鴻池家とその経営する鴻池銀行(後の三和銀行の前身)の整理、再建に当った際、原田二郎に慰労金五十六万円と茅ヶ崎の敷地三万坪を静養の地として贈呈され、関東大震災を茅ヶ崎出で経験し建物は全壊した。1919年大正8年に鴻池の建て直しに成功してその職を去ったが、翌1920年大正9年、積年の計画であった原田積善会を設立。 原田二郎、1849年嘉永2年10月10日、松阪市殿町で同心(清一郎)の長男として生れた。21才のとき松阪出身の勤王志士 世古延世 (せこのぶつぐ)に随行して京都に上り、更に23才のとき維新後間のない東京に遊学して英語と医術を学んだ。 ![]() その後大蔵省に勤め、31才で横浜の第74国立銀行(現在の横浜銀行の前身)の頭取となり手腕を発揮するが、事情があって職を辞し松阪に戻った。その後37才で東京に居を移して療養生活(胸部疾患)を送ったのち、1902年明治35年54才の時、明治の元勲の一人である 井上 馨 の依頼を受け、家運の傾きかけた大阪の鴻池家とその経営する鴻池銀行(後の三和銀行の前身)の整理、再建に当った。 ![]() ![]() 画集大正時代我町ふるさと 茅ヶ崎の思い出 井沢正一 画 ![]() 写真 原田二郎 1919年大正8年に鴻池の建て直しに成功してその職を去ったが、翌1920年大正9年、積年の計画であった原田積善会を設立。その後10年間財団の代表者として運営に当ったが、1930年昭和5年5月5日、82才で死去した。ここに中村楼→鴻池銀行→原田別荘があった事がわかった。これについては、恐らく別荘史では新発見といえる。
最終更新日
2011年11月13日 10時27分13秒
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2011年10月31日
カテゴリ:近代別荘・別邸史
さらに遡る1897年明治30年8月7日茅ヶ崎の駅舎が出来る一年前に宮内庁関係の花房義質(よしもと)萬松園への滞留人数確認の書簡記録が茅ヶ崎美術館館長小川稔氏によって発見された。このことによって万松園は、川上貞が茅ヶ崎に来る5年前に存在し、1899年明治32年3月13日に中村楼が旅館案内を広告し、同年8月官設鉄道案内の旅館案内には既に萬松園が紹介されていた。
![]() 花房 義質(はなぶさ よしもと、1842年2月10日(天保13年1月1日) - 1917年(大正6年)7月9日)は、明治、大正期の外交官。岡山藩士で実業家、政治家(初代岡山市長)花房端連の長男。爵位は子爵。歴任した主な官公職は宮内次官、枢密顧問官、日本赤十字社社長など。 ![]() この件については、先に旧土地台帳調査の際、川上貞購入地の隣に中村楼主、星野岩松氏名義の土地が存在したことを発見した。中村楼主星野岩松は、東京江東中村楼(現在の両国)の支店として茅ヶ崎館と同じ年の1899年明治32年に現在の恵泉幼稚園付近に敷地三万坪を有し「海水浴御料理旅館」として開業。 洋食も出しており九代目市川団十郎が茅ヶ崎の別荘「孤松庵」に滞在中ハヤシライスを注文したとのエピソ-ドも残っている。川上一座の「オセロ」では舞台稽古を行った場所。明治四十年本店が東京美術倶楽部に売却されるにともない閉店。その後関東大震災により建物は全壊した。文2011/07/03楠氏 星野岩松1845年弘化2年.07.05~1910年明治44年12月1877年明治10年星野岩松は「土木受負の志を起して建築工事に従事し専ら外務省の工事を受負ふ」また、音二郎もいたパリ万博に「在横浜の仏国郵船会社々員の依託を以て日本建築中殊に精巧美麗を以て称せらるゝ寺院の山門を模造し」「『パノラマジオラマ』会社に装置して観覧者の大喝采を博したる」1900年明治33年04~11京浜実業家名鑑(1907) 水沢富士夫氏調査2011年
最終更新日
2012年03月10日 10時23分09秒
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2011年10月29日
カテゴリ:近代別荘・別邸史
新築間もないころ庭で撮った写真が、のこされている。音二郎・貞夫妻とも、紋付羽織の正装だが、大きな犬がその前にねそべっている。
山口玲子著小説「女優貞奴」第5章 女優開眼 1902年明治35年8月19日、貞奴は一行とともに、往復の日数を入れて一年四ヶ月の旅を終え、神戸に着いた。翌21日付の朝日、毎日両新聞は、一行の帰国を簡単に報じた。帰国後、貞は、9月28日から10月22日・11月28日にこの地の登記をしている。8月21日に帰国、翌月9月28日から10月22日の登記。 この間2ヶ月。しかも10月3日には江見水蔭との打ち合わせを果たしている。その夜、ドイツより帰朝の巌谷小波を茅ヶ崎駅で迎える。「川上は、砂白く松青き地を卜して「萬松園」と名じた。太平洋記事明治35年10月27日に発行。 11月12日川上音二郎と俳優学校、東京朝日新聞朝刊4頁4段「茅ヶ崎村1500坪購入記事」、環翠楼にて伊藤博文に書を乞う。」とある。 さらに、1899年明治32年発行、「官設鉄道案内。この旅館案内では、萬松園停車場ヨリ六丁(約600メートル)宿料凡そ六十銭」と記された出版物が発見された。ここで注目すべきは、1899年明治32年に「萬松園」という宿が存在していた。6丁というと約600メートル、現在の高砂緑地周辺がその圏内になる。 画像、当時の官設鉄道案内に於ける茅ヶ崎の旅館案内2011年水沢富士夫調査同記 茅ヶ崎市史4近代史P516 官設鉄道案内とは、旅客の増員に伴い時刻表や施設案内を目的とした明治30年代の旅行案内書。東海道,北陸道の利用案内、タイトルの読み カンセツ テツドウ アンナイ 作成者(著者) 春日利兵衛著 作成者(著者)(NDL典拠形式) 春日,利兵衛 作成者(著者)の読み(NDL典拠形式) カスガ,リヘエ 公開者 国立国会図書館。目次紹介は、次のとおり。 (目次) 旅店名所古蹟其他 (目次) 新橋神間 (目次) 大船横須賀間 (目次) 大府武豊間 (目次) 米原富山間 (目次) 馬場大津間 (目次) 鉄道略則其他 (目次) 乗客ノ注意スヘキ事項 (目次) 荷物托送手続及賃金 (目次) 官設鉄道概況 (目次) 旅客賃金表 (目次) 附新橋横浜ヨリ藤沢鎌倉平塚大磯国府津行割引賃金 (目次) 汽車時刻表 茅ヶ崎館の創業者柏木○○は、平塚以西の人物らしい。長谷川長次郎の名前は1898年明治31年8月3日に初出する。石上憲定「自渉録」に初出P353南湖中村屋旅館同頁出筆している。当時の海水旅館の宿命である冬の営業がままならず海岸端における「海の家」と等しくシーズンオフには、経営者もしくは、オーナー地権者が代わって行ったとも考えられる。その傾向や矛盾は年表にて参照すると明らかになる。 当時の巡査日記―石上憲定「自渉録」にも小さな事件として茅ヶ崎館や中村楼の宿名が出筆されている。1899年明治32年3月13日中村楼盗難事件(石上憲定「自渉録」)P428があった。 ところが、同年、「東京朝日新聞」朝刊七面では、海水浴御料理旅館「同業広告茅ケ崎館・中村楼開業」と広告が出稿されている。また、同年8月官設鉄道案内、旅館案内 松旭閣(停車場より凡半丁)松本楼(停車場より七丁)海水館(停車場より八丁半)松本屋(停車場より七丁)萬松園(停車場より六丁)とそれぞれの旅館が紹介されている。 ![]() この中で現在判っている旅館は松本屋(停車場より七丁)。たびたび石上憲定「自渉録」に登場する。その他、海水館(停車場より八丁半)は、茅ヶ崎館の事ではないかと史実確認はないものの茅ヶ崎館当主森氏のお話をうかがった。
最終更新日
2011年10月29日 17時42分28秒
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