二代目「植岩」が亡くなりました。
2011年12月2日、先代二代目「植岩」が亡くなり12月7日に葬儀が行われ85年の生涯を閉じました。先代は、大正15年寅年生まれ昭和初期の大恐慌時に幼少を過ごし、15歳より先々代「植岩」の元で修行を積み家業を守りながら当時各市町村に存在していた茅ヶ崎海岸にて「防空監視所」に勤務。この時、少年時代を過した加山雄三少年と海岸でキャチボールをしたことやアメリカ軍機からの機銃掃射を受けた恐怖感を私たちに話していたことを思い出します。当時、銃後の茅ヶ崎は些少の仕事はあってもまともな仕事はなく、防空壕堀の仕事をしながら海岸で町の安全を見守っていたようです。当時の戦況は大変悪く海岸沖に墜落した飛行機の報告が無視され正義感の強い先代が憤慨したことも語っていました。そうした戦況下、一年繰り上げの召集令状によって伊予の三島に配属、その夏広島原爆投下にて投下後片付け作業時終戦を迎え、長男孝平の戦死後家督を襲名し現在に至りました。1964年は、オリンピックの年。その年、私は周辺小学校生徒がオリンピック聖火ランナーを応援するために国道で旗を振っていた。終戦から10年、もはや戦後ではなくなった高度成長期に先代がいました。経済状況を振り返ると1ドル360円日本が潤っていた時代。1950年代半ば先代が運転免許を取得。この頃の植木屋の多くは、自転車とリヤカーで道具を運搬するのが日常でありこれに終止符を打ったのが三輪トラックでした。当時は別荘の留守居番も兼ねた者も多く、先々代からの顧客もさることながら「植岩」の顧客は、地元の大店が主たる顧客。この度の葬儀にあたって老舗の印半纏を棺の中に収めさせていただいた当時の印半纏は、その大店から出入りの印として頂いただくのが普通であり、歩く広告塔の意味を成していた。先代にもその逸話が残っており、これまた自慢の一つでもあった。30年代の茅ヶ崎には、大きなバスロータリーがあり、中央にソテツが植えられていた。このソテツの冬囲いを先代が請け、駅前ロータリーの改修工事が行われるまで毎年続けられた行事でした。ある日のこと読売新聞に冬の風物詩としてソテツの冬囲いが絵になるということで湘南版に掲載されたことがあった。そのとき、着ていた印半纏が今は無き「長崎屋」の印半纏も一緒に掲載された。それを見た当時の社長がいたく喜んだという逸話がのこっている。この印半纏には、ある意味広告を背負っているということは、同時に資性も背負っているということでもあり、いい加減な仕事は出来ないと言っている様なもの。現在では、この様に得意先から印半纏を賜ることの風習は無くなってしまいましたが、仕事への姿勢や本人の持つ資質が印半纏によって形成されて云った事は間違いないことなのです。私は初代となる岩治がすでに床に臥し亡くなっているので先代金平への師事となります。先代が戦後から高度成長期に作庭が多く行われるとともに樹木の管理も多くなります。私たち兄弟の修行時代には、オイルショックの頃で不景気の波に入るため作庭する場が極端に少なくなっていました。そのため、庭つくりや竹垣の作り直しがあると私たち兄弟は、むさぼるように知識や技術を吸収するようになります。恵まれた環境であったら現在の基礎は、築けなかったかもしれません。明年のご挨拶を遠慮いたしますことお許しください。