『世界はどうしたって「あなたの意のまま」』を読む
ネヴィル・ゴダード著『世界はどうしたって「あなたの意のまま」』(原題:At Your Command)を読了しましたので、心覚えを付けておきましょう。 ネヴィル・ゴダードというのは、ニューソート系のライターの中でも著名な人物で、同じくニューソート系のジョセフ・マーフィーのお友達。というか、二人は共にエチオピアのユダヤ教ラビ、アブドルに師事したのですから、まあ、兄弟弟子とでもいいましょうか。ちなみに、ネヴィル・ゴダードに影響を受けたのが『ザ・パワー』のロンダ・バーン、そしてウェイン・ダイアーでありまして、ニューソート系というのは影響関係がハッキリしていて分かり易いねえ。 で、ゴダードはラビの下で修業したくらいですから、マーフィー以上に聖書色が強くてですね、書いていることの根拠の殆どが聖書からの引用であり、またその独自の解釈ということになる。何しろ、「(聖書は)これまでに書かれた中で最も科学的な本だ」と言っているくらいですしね。そして「聖書を、ある古代文明についての歴史書あるいは非凡な生涯を送ったイエス・キリストの伝記としてではなく、人の意識の中で繰り広げられる壮大な心理ドラマとしてみてみましょう。/そして、聖書を自分自身の物語だと宣言するのです」(12ページ)とのたまわっちゃう。 で、そういうゴダード氏にとって一番重要な聖書の一節が神の定義。聖書の中で神は「私はある(I AM)」と名乗る。例えばイザヤ書45章5節に「私(I AM)が主、他にはいない。私をおいて神はいない。あなたは知らないが、私はあなたに力を与えた。私は光を造り、闇を創造し、平和をもたらし、災いを創造する。私が主、これらすべてを行なう者である」とある。 で、ゴダード氏によれば、この「私はある」という存在の自覚、これこそが復活だと。つまり人が「在る」と意識することが、この世において復活するという意味である(15ページ)というわけ。 だから、神様というのは、自分の外側にいる赤の他人のことを指す言葉ではなくて、本当の神は、自分自身が「私はある」と意識することの中に居ると。 で、そうなると、「祈り」というものも本質的に変ってくるので、それは赤の他人の神様に「望みを叶えてくださーい」と頼むことではなく、その望みがすでに叶っていると自覚することである、ということになる。つまり、もうこの時点で「引き寄せ系」の下準備が出来たわけですな。 だから、自分が貧乏だと自覚して、それで「神様、私を金持ちにしてください」と祈るのはナンセンスなわけ。だって、自覚していることが成就するのだから、貧乏だと自覚しているこの人が金持ちになれるはずがない。そうではなくて、「私は既に金持ちだ」と自覚すること。この祈り方によって、金持ちになってしまうわけです。 だから、マリア様も、「私は神の子を身ごもった」と自覚したから、イエス様を身ごもったわけで。 さらに続けてゴダード氏は、ヨハネによる福音書の最初に「初めに言葉があった」とあるのも、ここから解釈できると言っております。ここで言う「言葉」とは、現実化を求めて意識の中を動いている願望なんですな。で、その願望を、唯一の実在である「I AM」の自覚を持った者が明確に意識することで、初めて現実化する。マタイ18:19にある「どんな願いごとであれ、二人が心を一つにして求めるのなら、それは地上で叶えられる」という場合の「心を一つにする」というのは、二人の人間の心ではなく、「意識」(=「I AM」的存在の自覚)と「願望」が一つになれば、それは現実化する、の意であると。(32ページ) だから、病気の人で、自分は健康になりたいと思ったら、まずは「I AM」の自覚を固める。それで「I AM・・・ I AM・・・ I AM・・・」と唱えつつ、自分の存在がピュアに信じられるようになったら、そこに「healthy」という願望を付け加え、「I AM・・・healthy」と唱えてみる。ほーら、これで意識と願望が一つになったので、病気なんて消し飛んでしまうと。 ほんまかいな! だけど、何しろ長年の間、こうした真実に気づいていなかった人間は、従来型の信仰とか、慣習とか、色々なものに縛られて、本来の自分を見失っているわけですな。それゆえ、人間は誰しも自分のことを過小評価すると。だから、そういう束縛するものを全部棄てないと、本当の自分として生まれ変わることは出来ないのだそうで、それが「古い革袋に新しい酒を入れることはできない」の意味だと。 ちなみに、自分の願望がどういう風に実現するかは、考えなくて良い、とも言っております。それが『ローマ信徒への手紙』11:13にある「神の道は理解しつくせない」の意味だと。 しかし、人間はすぐ「how」の部分を考えてしまって、「どうせできっこない」という結論に達してしまう。これが邪念。 例えば獄中にあるものが「自由になりたい」という願望を持つ。もし、この願望を持ち続ければ、この男はどういう形であろうと、獄中から外の世界に出られます。 しかし、大抵の人は、自分をとりまく四辺の高い壁を「現実」だと思い、この壁を自分が乗り越えられるはずがない、と思ってしまう。その段階で、「乗り越えられるはずがない」という意識が現実化し、この男は獄中から出られないことになる。(82ページ) 意識の中の現実こそが現実であると、信じ続けること。それ以外に現実などない、と確信すること。これが難しい。 あるいは、こういう例もゴダード氏は書いています。 マタイ17:20に「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向って『向うに動け』と言えば、その通りになる。あなた方にできないことは何もない」とある。 で、あるおばあさんがこの説教を聞いて家に帰り、この一節を信じた「つもり」になり、眠りについて、翌朝、真っ先に窓辺に駆け寄って「どうせ山は動いたりしないと分かっていた」と叫んだと。 このおばあさんが心に抱いたのは、実は「山は動く」ではなく、「動く筈がない」だったんですな。だから山は動かなかったと。 またルカ5:1にイエスと魚穫りの話があって、イエスの弟子たちが夜通し魚を捕ろうと網を下ろしたけれど、一匹も掛からなかった。ところがイエスがやってきて、もう一度下ろしてみろというので、下ろしてみたら、さっきまで一匹もかからなかった場所で、網も裂けんばかりに魚がかかった。 弟子たちは、「こんなに何度も網を下ろしても掛からないのだから、ここには魚はいないんだ」と思って漁をしているのに対し、イエスは「魚が沢山掛かった」ことを信じて網を下ろすので、こうなったと。(88ページ) だから、聖書の中に書いてあることを、その気で読めば、ゴダード氏が言っていることを証するような逸話ばっかりだ、ということになるわけですよ。 だーかーらー、自分を取り巻く様々な束縛を打ち破って、「I AM」の自覚を持ち、神と一体化して願望を実現せよと。聖書にそう書いてあるじゃないかと。 これがゴダード氏の主張であり、本書の内容であります。 なるほどね。納得。(納得するんかいっ!!) さて、私もこのところ、この手の本をやたらに読むわけですけれども、なんかね、ちょっと掴んできた感じがする。何を掴んだかというと、私、今年の11月に、このテーマで学会発表するんですけれども、そこでの発表内容が自分なりに掴めた感じがする。学会で、こういうことを言おうというのが、大体掴めた。ということは、つまり、その延長線上に、このテーマで本が一冊書けるな、という自信が出てきた。それも、相当面白い内容の本がね。 ということで、なんか見通しが明るくなってきたなという手応えを感じている今日の私なのであります。I AM!【楽天ブックスならいつでも送料無料】世界はどうしたって「あなたの意のまま」 [ ネヴィル・ラ...価格:1,404円(税込、送料込)