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カテゴリ:わけ分からん
今日は三日、正月三が日の最終日ということですが、私は朝からゼミ生からメールで送られてくる卒論原稿と格闘していました。卒論提出期限まであと1週間、皆必死です。 しかし、この時期になると書く方も大分論文の書き方に慣れてきますし、添削する私の方も直し方が堂に入ってくるんです。ですから、卒論原稿は次から次へと届くのですが、それを千切っては投げ、千切っては投げ、という感じで、添削していく方のスピードもどんどん上がっていきます。今日はもう三人分くらいの論文を仕上げまで持っていくことができました。上出来、上出来。 で、先程も言ったように、この時期になるとゼミ生たちの論文も、それなりに様になってくるので、ああ、指導した甲斐があったなぁ、という感慨があるのですけど、それでも私にはどうにも指導のしようがないことが一つだけあります。それは「御礼」ということです。 残念なことに、毎年、数名のゼミ生を預かると、彼らは大体半々くらいに分かれます。つまり、「御礼を言う子」と「言わない子」に分かれるのです。 「御礼を言う子」の方は、私が論文の原稿を添削して返信してやると、すぐに「ご指導、有り難うございました。自分の論文が見違えるように良くなりました」などと可愛いことを言ってくる。一方、「言わない子」になると、私の返信に対しては「うん」でもなければ「すん」でもなく、ただしばらくして「第2章が書き終わりました。添削お願いします」などと次の添削依頼をしてくるだけ・・・。 もちろん、御礼を言ってくる子と言わない子で、私が指導の内容を意識的に変えるわけではありません。しかし私も人間ですから、可愛い御礼を言ってくる学生に対して好感情を抱く一方、何も言わずに頼んでくるばっかりの学生には、「やれやれ」という思いを抱くことは事実です。「馬鹿な奴」とも思います。「親の顔が見たい」とも、ちょっと思うかな・・・。 私は、学生とは言え、二十歳を越えた人間が御礼の一つも言えないのはおかしいと思います。しかし、こういうことは彼らだけの責任でもなく、その親の責任でもあるのでしょう。人に世話になったら、御礼というのはするものだということを、その学生が青年に達するまでのどこかの時点で親が教えなかったのでしょうから、その意味では親も悪い。 しかしひょっとすると、親が悪いばかりでなく、今の日本の社会も悪いのではないか知らん・・・。いや、私がそう思うのは、私と家内の間ですら、この点に関して若干の意見の相違があるからです。 いつのことだったか、恩師やお世話になった方々にお歳暮を送った後、私がぽつりと「俺は人にお歳暮を贈るばっかりで、ちっとも贈られることがないのはどういうわけだ。俺だって随分人の子の面倒を見ているはずなのに・・・」とぼやいたんですな。すると家内は私を叱って、そういう考えは良くない、大体国公立の教員にお歳暮を贈るのは賄賂のようになってしまうではないか、とのたもうわけ。 正論です。それは家内の言うことが正しい。私立育ちの私と違って、大学まで国公立で通した家内は、小さい頃から「教員への贈り物は御法度」という厳格な社会的ルールの中で育ってきたわけですから、そういうふうに考えるのも当然なのでしょう。 しかし・・・。しかし、私のぼやきは、現代の社会規範から見て間違ってはいるけれど、やはりもっともなことなのだと思うのです。国公立の教員に金品を贈るのはよろしくないかも知れないけれど、しかし、何かモノを贈る以外にも御礼の仕方というものがあるはずです。また贈られる私の方だって、もし受け取るべきでないものを贈られたら当然送り主にお返しします。しかし、その心と、送ってくれたという行為そのものは、有り難く受け取ります。世話になったら何らかの御礼はするものなのであって、御礼をする気持ちやその行為を、「賄賂」と同義の、何か後ろめたいことのように位置づけてしまったら、それこそ(高倉)健さんじゃないですけど、「右も左も、真っ暗闇」なんじゃないでしょうか。 ・・・と、そう思っている私ですが、それでもやはり学生たちに「おい、指導してやったんだから、俺に『有り難うございました』と言え」とまでは、自分からは言えないよなぁ・・・。 ここ数年、卒業式が近づく頃になると、学生たちから「先生、謝恩会っていうのは、いつ、どこでやるんですか? どこにも掲示がないので、どうするんだろうって皆、困っているんですけど」などと質問されたりする度に、こいつらに「謝恩」って言葉の意味を、一体誰が教えればいいのだろうか、と思うワタクシなのでした。 仰げば尊し、我が師の恩、かぁ・・・。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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自分より年少の者の至らなさには、腹も立つけれど、まぁしょうがないと思える余裕もありますよね。
しかし、こういう人種は僕の同年代にも、どうかすると先輩の世代にもいるんですな。それも僕の周りにはどうもこういう輩が目につくのです。「いい歳をしてなんだよ!」と思うのは始終ですね。こういうのは若年の所為にして納得することなどできないし、相手が知的にも社会的にもかなりのレベルだったりすることも多いので、自分の気持ちの中で落着できる場所を見つけることが出来ない。だからどうにも鬱屈としたままになってしまいます。 思うに、感謝の気持ちに欠ける人は、自分を客体化、或いは相対化できる能力に劣るんじゃあるまいか。自分を客体化し、相対化できる能力は、人間だけのものだと思うから、こういう人たちは「人間力」に劣ると言える。そう思いましょうよ。そう思えば、多少は納得できる。(不愉快さは変らないけれど) それにしても、僕の周りにこういう連中が目に付くと言うことは、・・・・類は友を呼ぶ・・・か?! (January 4, 2006 12:59:28 PM)
わからない、というのが母の口癖でした。
カタチはことばだったり、手紙だったり、贈り物だったりするわけですが、最近はマスコミを先頭にして「お礼」に対して世間がうるさいですね。 まぁ、渡す時期が問題なんでしょう。釈迦楽さんのボヤキもようわかりますわ。 (January 4, 2006 02:06:20 PM)
連帯を求めて孤立を恐れるノダ!さん
まったく、人間力のある人、ない人というのはいますね。もちろん、前者は少なく、後者は多いわけですが・・・。せめて自分は、前者になりたいものですが、いずれにせよ後者の人に泣かされることは多く、まったく嫌になります。 (January 4, 2006 09:45:34 PM)
Mike23さん
私もそう思います。医学部を持つ杏林大学だって、世話になったお医者さんへの御礼に、元患者たちが杏を持って行ったから、それが林をなしたわけでしょう? それが美風だと思うからこそ、大学の名前にしたはず。昔はそれで良かったんですよ。それがどうして今のように「御礼禁止」になってしまったのか、よく分かりませんなあ。 (January 4, 2006 09:50:43 PM)
釈迦楽さん
杏林大学の「杏林」にはそういう由来があったのですか。知らなかった。良い話ですね。 「お礼」に関しては、「高価さと、込められた気持ちの積は保存する。」という法則をたった今思いつきました。 気持ちがこもっていないと、とかく高いものをお礼にしたがる。つまりは見栄の張り合いになる。「お礼禁止」の背景には、そんな事もあるのかも知れませんね。 教師だった父が、田舎の学校から市内に転勤して戻って来た時、粗末な手作りの人形を貰ってきて泣いていました。 特殊学級の普段は無愛想でどうにも馴染まなかった子が、父の転勤を土壇場で理解し、「先生、ありがとう。これ持ってって!」と家に駆け戻って取ってきた人形を、去り際の父の手に押し付けたんだそうです。 普段は謹厳で子供にはやたら怖かった父が、目を真っ赤にしてボロボロの人形を見ている光景は、事の顛末を母に語る声音と共に、今でも妙にはっきり覚えています。 (January 4, 2006 11:10:28 PM) |
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