5954589 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

教授のおすすめ!セレクトショップ

教授のおすすめ!セレクトショップ

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Profile

釈迦楽

釈迦楽

Keyword Search

▼キーワード検索

Freepage List

Shopping List

お買いものレビューがまだ書かれていません。
July 5, 2020
XML
カテゴリ:教授の読書日記
ケン・ウィルバーの書いた『無境界』(原題:No Boundary: Eastern and Western Approaches to Personal Growth, 1979)という本を読みましたので、心覚えをつけておきましょう。

 その前にケン・ウィルバーについてですが、ウィキペディアによると1949年生まれ、ニューエイジ思想家にしてトランスパーソナル心理学の論客・哲学者なんですと。キャッチフレーズ(アメリカの哲学者って、一人一人にキャッチフレーズがあるの??)は「フロイトとブッダを結合させた男」。この本も副題が「Eastern and Western Approaches」ですから、ああそういうことね、っていう感じですな。代表作は『意識のスペクトル』で、20社以上に断られた挙句、ようやく出版にこぎつけたら大ヒット。すっかり有名になりました。でも、どこかの大学に勤めるとかいうことはしないで、文筆業一本と。
 
 どこで読んだのか忘れちゃったけど、この人の執筆方法ってのがちょっと変わっていて、まず10か月くらい、ひたすら本を読むんですって。で、10か月読み続けた頃には書きたい内容がまとまるので、今度はそれをぐわ~っと書く。で、書いたらまた10か月読んで・・・っていうのを繰り返すんですと。つまり、1冊の本を書くのにかける仕込みの期間は10か月なのよ。

 まあ、ねえ。私のように1冊の本書くのに10年かける人間からすると、10か月の仕込みってどうなんだ倫理的に、っていうね。
 
 で、今回彼の本を読んでみて、ははーんって思ったんだけど、なるほど、10か月の仕込みだわ~、っていう感じ。彼に対する批判って、先行研究・先行文献を誤解しているとか、引用がでたらめだとか、そういうのらしいのですけど、そりゃ仕込みが10か月じゃそうなるわなあ。それに、ぐわ~って一気に書くから、文章も十分に推敲されてなくて、冗長だったり繰り返しが多かったりする。

 ちなみに、彼の発想の大本はオルダス・ハックスリーで、彼の知的アイドルはアラン・ワッツなんですと。何しろアラン・ワッツの本を書き写して、文章術を学んだとかいうんだから。それでウィルバー自身はクリントン大統領、アル・ゴア副大統領、そして自己啓発思想家のディーパック・チョプラから賞賛されているっていうんだから、要するにこの人はアレじゃない? 心理学者だとか哲学者じゃなくて、自己啓発思想家じゃない?

 多分そう。だから、この『無境界』っていう本も、基本的には自己啓発本です。まあ、自己啓発本なら10か月で書いても良きよ。

 ということで、この本の内容なんだけど、冒頭いきなり、以前このブログでも取り上げたR・M・バックから(多分『宇宙意識』)の引用で幕を開けます。つまり、自分と周辺世界との境もなくなり、すべては一つなんだ~っていう至福の認識。バックはこれを「宇宙意識」と呼び、ウィルバーは「統一意識」と呼ぶわけですけれども、要するに本の冒頭で、この至福状態が人間のあるべき姿だと、ウィルバーは言うわけ。

 例えば、ウィルバーはエマソンから例の「窓の下のバラ」のエピソードを引いてきて、バラの花はその瞬間、その瞬間、完璧だと。過去もなければ未来もない、今、ここで、常に完璧なものとして存在している。人間もまた、無境界の至福の中では、当然、このバラのような存在になるはずだというわけですな。

 だけど、世界を見渡しても、「宇宙は一つ! 至福だ~!」なんつってる人なんか、そうそういやしない。事実として宇宙は一つなのに、なぜそれを認識して至福状態にいる人がいないのか。

 それは、人間が「境界」を作るからだ。これがウィルバーの思想の基本的なスタート地点ね。

 たとえば世界地図のことを考えてみましょう。地球儀の上に線が引かれて、ここからここまでがフランス、ここからここまでドイツ、とか、そんな感じになっていると。

 だけど、もともと地球の上に線なんかないわけですよ。それを引いたのは人間であって。

 でも一旦、線を引いちゃうと、その瞬間、それは境界線となって、線の内側と外側を峻別する契機となる。そしてそれだけならまだしも、境界線引くと、それは必然的に二つの異質な世界の接点となり、その接点はしばしば戦場になると。

 あ、あと時間もそうね。アホな人間は、時間にも境界を設け、過去・現在・未来と3分割しちまった。で、本来であれば現在こそ一番大事なのに、人間はそこには目もくれず、過去の記憶と、未来への不安にサンドイッチされて苦しんでいる。本当は、時間というものに境界があるわけではなく、過去も未来もすべて現在の中にあるのに、その永遠の(=無境界の)今を生きようとはしない。

 つまり、アホな人間が作り出した「境界」こそ、人間を争いと苦悩の渦に巻き込む悪の張本人であるというわけね。

 で、人間は自分自身で引いた境界によって日夜死ぬほど苦しめられているんだけど、その苦痛を緩和・解決するためにたーくさんの本(広い意味でのセラピー本・・・っていうことはつまり自己啓発本)が書かれている。しかし、その書かれた沢山の本を読むと、なんだか、それぞれ言っていることが矛盾していたりして、どれが正しいのか、どの本を読むのが苦しみからの解脱に役立つのかが分からない。

 そこで、私ケン・ウィルバーが、悩める皆さんのために、どの本を読めばいいか、教えて進ぜようーーというのが、本書の趣旨でございます。だから、この本は古今東西の自己啓発本のどれを読めばいいかを指南する自己啓発本であって、言うなればメタ自己啓発本なのでありまーす。

 お! 我ながらいい言葉が飛び出たね。「メタ自己啓発本」か。覚えておこう。

 はい。で、ウィルバーによると、個々のセラピー本の言っていることがなぜ矛盾して見えるかと言えば、それはそれらのセラピー本が異なる階層の現象を扱っているからで、読む側としては、その本がどの階層の話をしていて、どの階層の解決法を示そうとしているのかを十分把握してから読まないとごちゃごちゃになるよと。

 で、ウィルバーはここで嬉々として階層の話に移るのですが、この階層の概念こそ、そもそも彼を有名にした「意識のスペクトル」っていう奴ね。

 じゃ、その「意識のスペクトル」って何かというと、大雑把に言うとね、「統一意識のレベル」「全有機体のレベル」「自我のレベル」「ペルソナ(仮面)のレベル」っていう4段階に分かれまーす。で、「統一意識のレベル」の話はとりあえず措くとして、その他の3つのレベルにはそれぞれ「境界」があると。もちろん、人間自身が作り出した境界ね。

 まず「全有機体のレベル」の話をしようか。

 これは、人間が最も最初に線引きする境界ですな。つまり、人間は自分を定義する時に、まずは「全身を覆っている肌、この肌の内側は自分だろう」と思うわけですよ。

 当たり前と思います? でもね、これ、本来間違いね。だって、本当は宇宙は一つなんだもの。アレとコレの違いなんかありゃしない。

 で、「肌」という境界線を引くことによって、この「肌の内側は自分だ」という誤謬に導かれたアホな人間は、肌の内側の「有機体」と、その外にある「環境」を区別することになりました。そして、ここに境界を引いたということは、つまりそこを戦場にした、ということですね。自分の外にある環境は、自分を滅ぼそうとする敵だ! ということに決定しました。人間はまず環境という敵を生み出したのでありまーす。

 はい、次。「自我のレベル」の話をしようか。

 「肌」の境界により、人間は自分と環境(=世界)の間に敵対関係を作り出したわけですが、じゃあ、その肌の内側は一枚岩かというと、そんなことはない。人間は肌の内側にある「自我」と「身体」の間にもう一個境界線を引いてしまいました。

 確かに、人間は自我を自分だと思っているので、それは自分の意志でどうにでもなると思っているでしょうけれども、身体の方は、なかなか思い通りにならない。例えば、自分ではそんな予定なかったのに、身体の方が勝手にガンになったりするわけですよ。すると死んじゃうわけですよ。そりゃ、自我の方としては「おい、それはないだろっ!」っていう話になる。

 つまり、人間は自我と身体の間に境界線を引き、「身体」という敵を生み出しました。要は、「環境」に続いて2つ目の敵が生まれたわけです。ちなみに、この心身二元論ってのは、西洋文明の要でありまして、西洋文明は心を人間の主体と考え、身体を切り捨てたわけですな。

 はい、次。「ペルソナのレベル」の話をしまーす。

 自我と身体の間に境界線を引くことで、身体を敵に回した心ですが、では自我は一枚岩かというと、これもそうではないと。つまり、自我は「自分はこういう人間だ」という一つの仮面(ペルソナ)を持つと同時に、「こんなのは自分じゃない」というもの、すなわち「嫌な自分・認めたくない自分」というものを発見し、それを拒絶する。この認めたくない自分を「影」と呼ぶならば、人間は自我の中にすら「ペルソナ」と「影」の間に境界線を引き、その両者の間が戦場になりましたと。3つ目の敵、「影」の誕生です。

 とまあ、こういう風に見ていくと、人間は本来の統一意識から遠ざかると同時に、3つのレベルで敵を作ったわけですな。そしてそれはまた自分というものを、唯一認められる「ペルソナ」というごくごく狭い、ちっぽけなものに避難させて、そこでチマチマ生きているということでもある。これを不幸と言わずしてなんと言うかっていうね。
 
 大体、周りが敵だらけ、対立だらけの世界を生きるということは、対立の中から自分の好きな方だけ選ぶ人生になるわけで、そうなると「苦痛のない快楽」とか、「死のない生」とか、「悪のない善」とか、そういう幻影を追い求めることになってしまう。そんなもん、リアリティがないわけで、これが生の充足を阻むことになるのは明白。

 ところで、これら人間からリアリティを奪う境界なるもののほころびが見え始めたのは、量子力学のおかげだ、とウィルバーは考えているらしい。

 つまり、アリストテレスからガリレオ、ニュートンの古典物理学の時代まで、こういう線引きは意味があると思われていたわけですよ。ところが1905年から25年までの間、つまり相対性理論から不確定性理論までの間、アインシュタインからシュレディンガー、エディントン、ド・ブロイ、ボーア、ハイゼンベルグらの物理学者の時代までに、古典的境界は崩壊したと。観察者によって姿を変える量子の存在が明らかになったことで、宇宙のモノすべてに境界がないことは明らかになったというわけですな。

 要は、物理学という、モノの境界を突き詰めていく学問を推し進めていった結果、最終的にモノには境界がないことが分かってしまった。これが「無境界」という世界の本質が明らかになった瞬間であり、境界を作る作業の無意味さが暴露された契機となったと。

 そして、以後、境界のある世界から無境界の世界への道筋が探し求められるようになるわけね。そして、それはまた、東洋宗教への注目という現象にもつながった。なぜなら、最先端の量子力学の世界観と、古い東洋宗教の世界観が、見れば見るほど同じだったから。つまり、この時、西欧社会は東洋世界を改めて驚異の目をもって再発見したわけですな。

 で、世に出回る様々なセラピー本は、各レベルの境界を無化するためのモノなのでありまして、例えばペルソナのレベルで「仮面」と「影」の対立を無化するための本としては、「カウンセリング」とか「支持療法」系のセラピー本が参考になりますよと。

 同じく、「自我」と「身体」の間の境界を無化するためのアドバイス本としては、「精神分析」「サイコドラマ」「交流分析」「リアリティ・セラピー」「自我心理学」系の本が役立ちますよと。

 でまた有機体と環境の間の境界を無化するためには、「バイオエナジェティック分析」「ロジャーズ派セラピー」「ゲシュタルト・セラピー」「実存分析」「ロゴセラピー」「人間性心理学」系のセラピー本を読みなされと。あるいは、もっと簡単に言えばカリフォルニア行って、エスリン研究所で温泉入って来いよと。

 ちなみに、さっきから「無化する」ってなことを言いましたが、これは要するにですね、境界の突破法なのね。つまり境界っていうのは、「そこに境界があるな」と意識することによってその影響力から脱することができる。争うのではなく、認めて無化するっていうね。そしてそれによって対立は統合され、リアリティが戻ってくる。かつての敵は味方に、不一致は一致になる。

 さて、ここまでで人間は大部分の境界から解脱することができたわけですが、まだ最後にラスボスがいる。それは、統一意識のレベルの話でありまして、いかにして統一意識のレベルに到達するかというお話。

 ところがこれは今までのように簡単にはいかない。

 今までは、「お、そこに境界があるな。こんなもの作っちまって、失敬、失敬」ってな感じで突破できたのですが、統一レベルへ達する手前の境界は、ちょい突破が難しい。

 ウィルバーに言わせると、我々人間には無境界の世界、統一意識への参入をためらう「抵抗」がある、というのですな。それを求めているのに、抵抗があるために、目を背けると。で、目を背けるものだから、統一意識に向かおうとすればするほど、遠ざかっちゃう。その辺、ちょっと『青い鳥』みたいなところがあって、もう、目の前にそれはあるのに、それをさがしに他に行っちゃうという。

 で、そうか、さがしに行くこと自体、抵抗なんだなと気づき、もはや自分自身を統一意識の前に投げ出す以外ないんだけれども、あえてそうすることも参入を不可能にするし、かといってあえてそうしないという選択肢もない。なぜなら、参入するもなにも、本来もうそこにあるものなのだから。だから、抵抗を自覚することで抵抗がすこしずつ解消し、それと同時に世界と自分は一つの体験なのだということが分かってくる。そういう形でしか、統一意識との合一はできないと。

 で、もうこのレベルに到達するためには、「ヴェーダーンタ」「大乗仏教」「道教」「秘教的回教」「秘教的キリスト教」「秘教的ユダヤ教」の本でも読むしかない。いよいよマジもんの神秘主義っていう。

 とまあ、そんな感じで、それぞれのレベルで境界無化に役立つ本をウィルバーは列挙・推薦しております。きっと、これらの本を彼自身、10か月の中で読んだのでしょうな。だから、この本は、本質的には「読書案内」の本なのね。ま、彼がどんな本を推薦しているか、というのは、そこそこ面白いところですけれども。

 さて、ざっとこの本をご紹介してきましたけれども、どんなもんですかね?

 結局ね、この本を評価できるかどうかというのは、ウィルバーの論のスタート地点をどう考えるかっていう、そこに尽きるのではないかと。

 つまり、宇宙は一つ、自分と宇宙も一体。世界に分離したものなど一つもない。それが統一意識であって、至福の世界。人間はもともとここに居るのに、境界なんてものを作っちゃうものだから、苦労している。だから境界を無化して、本来の至福の世界に戻ってらっしゃいと。ウィルバーはそう言っているわけですけれども、その世界観を承認できるかどうか、ですよね。

 結局、これは、ウィルバー版の「エデン追放」の話なんだよな~。ウィルバーに言わせれば、アダムが食べた知恵の木の実に入っていた知恵が「境界」であると。で、境界を作ったおかげでエデンを追放されたわけだけれども、本来は追放なんかされてない。境界なんてものは人間の幻想で、そんなものはないんだし、知恵の木の実を食べた後も実はずっとエデンの園にいるんだから、その自覚を取り戻せっていうね。それが幸福というものだよと。

 はい、この世界観に共感できる人、手を挙げて!

 はーい!

 私は元気よく手を挙げたのでした。

 っていうか、もう、自己啓発思想の世界では、ウィルバーの言っていることなんて常識よ。ウィルバーに言われるまでもなく、宇宙(あるいは神と言ってもいいけど)と私は不可分で、宇宙始まって以来、一度も分離したことなんかないっていうのは、自己啓発思想の前提ですから。論じるまでもないっていう。だからこそ、人間が願ったことは何でも引き寄せられるわけであって。

 そういう意味で、我々からすると、え、あんた今更何言ってるの? って感じ。

 というわけで、我々からするとウィルバーさんの10か月に及ぶ執筆準備も甲斐なく、「そんなの最初から知ってるよ」の一言で済まされちゃうんですけど、でも、そうじゃない一般の人にとっては、へーえって思うこともあるのかもしれません。その程度のものとして、一応、ご紹介しておきましょうかね。


これこれ!
 ↓

無境界 自己成長のセラピー論 / ケン・ウィルバー 【本】





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  July 5, 2020 10:21:36 PM
コメント(0) | コメントを書く
[教授の読書日記] カテゴリの最新記事


Calendar

Headline News

Favorite Blog

2年間中断していた作… AZURE702さん

冬に少し逆戻り ゆりんいたりあさん

YAMAKOのアサ… YAMAKO(NAOKO)さん
まるとるっちのマル… まるとるっちさん
Professor Rokku の… Rokkuさん

Comments

釈迦楽@ Re[3]:クタクタの誕生日(04/09) がいとさんへ  いやいや、あの頃が僕に…
がいと@ Re[2]:クタクタの誕生日(04/09) せんせい おぉ、そんなこともありました…
釈迦楽@ Re[1]:クタクタの誕生日(04/09) がいとさんへ  昔、君が正門前のアパー…
がいと@ Re:クタクタの誕生日(04/09) せんせい その近くです! 魚沼から半分近…
釈迦楽@ Re[1]:クタクタの誕生日(04/09) よびなみさんへ  ありがとうございまー…

Archives


© Rakuten Group, Inc.