2024/01/06(土)13:47
土井善晴著『一汁一菜でよいと至るまで』を読了
本年一発目の読書として選んだ土井善晴さんの『一汁一菜でよいと至るまで』を読み終わりましたので、心覚えをつけておきましょう。
この本、タイトルが日本語としてちょっと変だなと思うのだけど、内容としてはとても面白いものでした。新年最初に読む本としてはすごく良かった。
土井善晴さんは、もちろん土井勝さんの息子さん。私も子供の頃、土井勝さんの料理番組(『きょうの料理』)、見てましたからね。土井勝さんの「(この料理は)お子たちにも喜ばれます」という決めゼリフ、よく覚えています。「子どものことを『お子』って言うんだ・・・」というのがすごく印象的でね。「(何かをかき混ぜるようなシンプルな作業を)これはお子たちに手伝ってもらうとようございます」とかね。
で、この本によると、戦後、花嫁修業に料理を習う、なんてことが流行し、元海軍主計だった土井勝さんが開いた料理教室が大人気となり、一時は数万人の受講生を抱える一大産業にまでなったのだとか。で、そんな人気料理研究家の息子として育った善晴さんは、ボンボンとして甘やかされて育ちます。だけど、その後、フランスの一流レストランで修行することになり、また帰国後は和食の名店・味吉兆で修行することになる。この若い日の厳しい修行時代があったから、善晴さんも単なるボンボンから一人前の料理研究家になれたと。
で、その後、善晴さんはお父さんの料理学校の教授陣に加えられるのだけど、時代はもはや花嫁修業の時代ではなく、また土井勝さんも病に倒れたりなんかして、料理学校の経営はどんどん左前になっていく。で、善晴さんは懸命に立て直しに奔走するのだけど、その一方、これは時代の流れなのだからと諦めるところもあり、その一方自分自身の料理研究所を設立し、新たなスタートを切ると。
そしてそうした一連の料理と向き合った人生の中で、最終的に善晴さんが到達した境地が、「一汁一菜」という考え方だったと。
善晴さんの考えでは、プロの料理と家庭料理は別物なんですな。プロの料理はプロの料理として確固たるものがあるのだけど、それはあくまでハレの料理であって、毎日食べるものではない。毎日食べるものではないからこその工夫(例えば、素材を長時間水にさらし、徹底的に灰汁と栄養素、風味を消し去って、そこにカツオだしや昆布だしの旨味を入れていく、とか)というのがあって、それはそれで美味しい。
だけど、家庭料理というのは、人間が生きる原動力となるもので、それはプロの料理とは異なる。毎日食べても食べ飽きないものでなければならず、その基本は一汁一菜、すなわち美味しいコメのご飯と、具沢山の味噌汁、この組み合わせだけでいいと。しかも、その味噌汁にしても、出汁なんて取る必要はなく、ただ良質の味噌をお湯で溶くだけ。そこに、旬の野菜やら、油揚げやら、肉やら魚やら、好きなものを適当にぶち込めばいい。それだけで必要十分な栄養をとれると。
なるほどね。
ま、この本はこんな感じで、善晴さんご自身の来し方と、料理に対する思いを綴った本なのであります。
で、大まかな紹介をするとそういうことになるのだけど、この本は細部も面白くてね。
たとえば、フランスでの修行時代の話で、フランスで外食することの意味、みたいなことが書いてある部分。
フランス人はめったに外食しないんですって。年に一回とか二回とか、そんなもんらしい。だから外食するというのは、フランス人にとって特別なイベントであると。そこで、レストランで何を食べるかというのは一大問題になってくるので、でかいメニューを見ながら、何を注文するか、30分くらいかけて悩むのが普通であると。しかも、料理を頼んだあとは、それに合わせるワインを選ぶのに、これまたソムリエと相談しながら相応の時間をかける。
で、そんな風に熟考の上決めた料理ですから、一皿全部食っていくのが当たり前で、「料理をシェアする」などということは絶対にない。友人の頼んだ料理が旨そうだからといって「一口ちょうだい!」などということは絶対にないんですって。一皿の料理は、それ自体がひとつの宇宙なのだから、それを一人で全部堪能するのが当たり前。
そしてフランスのレストランでは、テーブルの上に塩や胡椒があるのが普通で、どんな凄腕のシェフが作った料理であっても、最終的に味を決めるのは客であると。日本だと、一流シェフの料理に「塩が足りない」とか言って塩を振って食べたら失礼に当たるような気がしますが、フランスではシェフがどういおうが、自分が塩が足りないと思えば塩を振ればいい。これがフランス人の個人主義、なんですな。
とは言え、どこかの国の人たちみたいに、フランスに来てフランス料理の店に入って、「コースの順番なんかどうでもいいから、注文した品全部一度に持ってこい!」とか命じて、それを回転式円卓よろしく、テーブルを囲んだ者が好き勝手にワイワイしゃべりながらシェアして食べるとなると、それはちょっとどうなのかなと。善晴さんもフランス・レストランでの修行時代、そういうことをするどこかの国の人たちにはちょっと閉口したらしい。これは、自国の文化を他所でも押し通すやり方で、それはちょっと違うのではないかと。
あとね、味吉兆での修行時代の話も面白くて、吉兆の創立者・湯木貞一と、その右腕で善晴さんの直接の上司であった中谷文雄の懐石料理思想ってのがすごかったらしい。
和食の粋たる懐石料理、あれは大昔から伝統的にあるものだと思っている人が多い(私も含め)と思いますが、懐石料理ってのは、味吉兆が創り出したものなんですってね。で、じゃあ、懐石料理ってのは何かというと、茶の湯を料理の世界に取り込んだ料理であると。だから、「茶があるかどうか」が、懐石料理の本質だというわけ。
で、ではそこで言う「茶」とはなにかというと、要するに自然のことは自然に任せる、という思想。逆に言うと、すべて人為でやろうとしない、ということになる。
だから、材料をすべて同じ形、同じ長さに切りそろえた料理、なんてのは、懐石ではない。土筆のおひたしなんかでも、同じ長さに切りそろえた土筆なんか出しちゃダメ。だって、自然に生えている土筆には、長いのもあれば短いのもあるでしょ。だから、そこは自然に任せればいい。
料理の盛り付けにしても、たとえば小蛸の煮付けだとしたら、一皿に蛸の数は5つ、なんて数を決めるのは野暮。ワシっと掴んでワシっと盛るだけ。ある皿には蛸が5つ、ある皿には6つ、ある皿には4つであっても構わない。キレイに盛り付けた料理のひと皿を客の元に運ぼうとしたのを湯木が押しとどめて、その盛り付けを上からギュッと抑えつけて崩し、「よし、できた」と言った、なんて伝説もあるとのこと。
なるほど、「茶があるかないか」ねえ・・・。面白いなあ。で、土井善晴さんもそういう懐石料理の美学を習得するために、随分勉強されたそうで。料理の盛り付けに使う器の美を体得するために、美術館・博物館・骨董の店なんかを暇さえあれば巡ったとのこと。結局、いいものを見ることでしか、目は育たないんですって。
とまあ、そんなあれこれが書いてある。とても面白い本でした。新年一発目の本としては、上出来だったのではないでしょうかね。
これこれ!
↓
一汁一菜でよいと至るまで (新潮新書) [ 土井 善晴 ]