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2024/04/04(木)12:09

『デューン』を観に行って、『オッペンハイマー』を観る羽目になる

教授の映画談義(368)

昨日の夜、レイトショーで『デューン Part 2』を観に行ったんですわ。  で、チケット売り場でチケットを買おうとして、ふと手が止まった。ん? これは「吹き替え版」ではないか?!   驚くべきことに、その映画館ではもはや字幕版の上映がなく、吹き替え版しか上映していなかったのでした。いやあ、洋画観に行って、吹き替え版しかやってない、なんて状況にこれまで立ち至ったことがなかったので、面食らったわ・・・。  あとで調べたら、他の映画館でも字幕版の上映が間もなく終了するところばかり。『デューン』ほどのSF大作が、今や日本ではこういう扱われ方をするのね。  とにかく、洋画を吹き替え版で観るなんて無粋なことはワタクシにはできないので、『デューン』はあきらめ、急遽『オッペンハイマー』を観ることに。まあ、いずれ近々に観る予定ではあったので、順番は逆になったけどいいかなと。  というわけで、予定外に『オッペンハイマー』を観ることになったのですが(以下、ネタバレ注意)、「原爆の父と呼ばれたオッペンハイマーの栄光と苦悩を描く」という謳い文句通りの映画でした。原爆の開発をめぐるエピソードが全体の6割くらい。後半の4割は、「ソ連のスパイ」疑惑をかけられ、檜舞台から引きずり降ろされていくオッペンハイマーの後半生のゴタゴタを描くことに費やされております。  まあ実際、オッペンハイマーも脇が甘いというか、女性関係のモラルがないし、共産主義の理想に共鳴するのはいいとして、そこを突かれて人に利用されることも多かった。まあ、天才物理学者とはいえ、オッペンハイマーはそこそこ欠点の多い人なわけよ。そりゃ、仕事上の才能が傑出している人に対しては、人間としての人格も一級品であってほしいとつい思ってしまうけれども、必ずしもそうならない、なんてことはどこにでもある話でね。  オッペンハイマーだって、ある意味、どこにでもいる普通の人なんですな。  でも、その普通の人が、大量殺人平気たる原爆を作っちゃった、というのは事実であって、その責任は重い。もちろん、それを開発している時には、それを開発しなければならない国家的・時代的な理由があったし、仮にナチス・ドイツがアメリカより先に原爆を開発していたらどうなったか、ということも考えなければならない。ユダヤ系のオッペンハイマーにしたら、なおさらそう。  しかし、原爆が完成してしまうと、もうそれはオッペンハイマーの手を離れ、アメリカのものになってしまう。そしてオッペンハイマーの意図とは関係なく、実際に使われてしまう。開発だけさせられて、その後は梯子を外されてしまうわけよ。しかし、そんな風に梯子を外されたにもかかわらず、原爆の父という倫理的責任だけは負わされるというね。  まあ、哀れなもんですわ。ある意味。その哀れな男の、茫然とした表情で映画が終わるというのも、実にふさわしい。  人間に火をもたらしたプロメーテウスは、その後、永遠の罰を受けることになる、という、映画冒頭に示されるテーマが、最後のシーンに引き継がれる。そういう感じでしたね。  というわけで、3時間の大作、非常に面白かったのですが・・・ではこの映画が映画史に残る傑作かと言われると、うーん、どうかな。  まあ、史実映画の限界というか、史実(あるいはその解釈)を超えるものではないからね。「そういうことだったんですよ」で終わっちゃうから。それ以上でもそれ以下でもないという。  それだったら、同じノーラン監督の史実映画でも『ダンケルク』の方がはるかにドラマチックだったかな。『ダンケルク』は二度観てもいいけど、『オッペンハイマー』をもう一度、3時間かけて再見したいとは思わないもんな。  っつーわけで『オッペンハイマー』、面白くはあったけれども、個人的には「大傑作」というよりは「大佳作」という評価だったのでした。

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