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2024/04/27(土)16:44

荒井良二著『ぼくの絵本じゃあにぃ』を読む

教授の読書日記(1103)

昨日展覧会に行ってすっかりファンになった荒井良二さんのご著書、『ぼくの絵本じゃあにぃ』を読了したので、心覚えをつけておきます。  この本、荒井さんの幼少期の頃のこと、イラストレーターになられた頃のこと、絵本の魅力に目覚め、絵本制作に取り組むようになった頃のこと、あたりから語り始め、個々の作品の制作経緯やその背後にある思い、影響を受けた他のアーティストのこと、絵本以外の仕事にも携われるようになってからのこと、山形のご出身であったことから東北の大震災の後、東北の人々の心の復興になんとか力を貸すことができればと、様々な活動を行なったことなどが書かれております。まさに「絵本」というものを中心に語る荒井さんの人生の旅のお話。  そういう中から見えてくるのは、荒井良二さんという方のお人柄ですよ。何というか、ほんとにスッとした人。大げさなところがなく、等身大で、自然体。でもそうやってごく普通の人間として素直に素直に考えて行った結果、すごく深いヒューマニズムというか、人間的洞察に到達しちゃったみたいな。でもそういうことを得意気に語るのではなく、ごく当たり前のことのように、まるで昨日の晩何を食べたかを語るがごとくに語っていらっしゃる。そういうところに、私は非常に好感を抱きます。  実際、荒井さんの描く絵に、お人柄が出てますよね! あんな絵が描ける人が悪い人であるはずないもん。  さて、そんな感じで、私は荒井さんの絵本作家としての在り方を読んでいったわけですが、その中で、「これは、絵本創作に限らず、私のような研究者とか、本を書くタイプの人間にも通用するな」と思ったことが幾つかありまして。  たとえば、荒井さんが絵を描く時に、色々な場所で色々な恰好で描くという話とか。  一般にプロの作業場となると、使い慣れた道具が決められた場所に置いてあって、すぐにいつも通りの作業に取り掛かれるようになっているように想像するではないですか。で、実際にそういう風に仕事をされる方もいらっしゃるのでしょうけれど、荒井さんはそうではないと。  昨日はあそこで描いたけど、今日はここ、明日はまたどこか別な場所で・・・という風に、描く場所を変えるというのです。またある時は机に座って、ある時は床に寝そべって・・・という風に、描く姿勢も変えたりする。もちろん、そんな描き方は効率面から言えば非効率なんだけど、それでもそうやって描く。  それはね、結局、慣れを廃して、新しい発見を得るためなんですって。それはムダなことのようだけど、長い目で見ると、メリットがあると。  同様に、荒井さんはある時、コマ漫画を描くという仕事に携わったことがあったのですが、コマ割りをするというマンガの手法は、絵本を作る手法とは大分異なっている。でもそういう、通常の絵本制作とは異なるルール/制限の上で何かを創作してみると、そのことで新しい発見があったりする。コマ割りした一つ一つのコマをそれぞれ1ページに拡大すれば、それはそれで絵本のストーリーになるよな・・・というような発見があったりするわけですよ。  だから、面倒臭くても、慣れた手法に甘えるのではなく、しょっちゅう、別なルールを敢えて自分に課してみる。で、その制限の中で奮闘することで、何か突破口になるような発見があると。  で、荒井さん曰く、そういう突破口を沢山持っている人のことを「プロ」というのだ、と。その辺り、本文から引用してみましょう。  つまりぼくが、折れた色鉛筆の先で描いてみたらどうだろうとか、立って描いたら、あるいは床で描いたらどうかとか、自分に負荷をかけるようなことばかりしているのも、何か新しい発見がないかといつも探しまわっているからです。キャリアを積んだ分だけ、いいものが見つかる確率が上がっているだけで、ぼくだってアマチュアの人と結局は同じです。  というより、一度手になじんだやり方をずっと続けるプロの人もいますが、ぼくはむしろプロとはそういうのとは反対側にいる生き物ではないかとさえ思っています。  一般的にプロの描きとは絵を描くためのコツ、いわばうまく描くための近道を知っている人たちだと思われているかもしれませんが、とんでもない。そういう近道はありません。そんな魔法みたいなものは、どこにもない。どうやったらこれまでと違う描き方ができるか、これまでに描いたものを越えていくことができるか。プロとは、そのためのデータ、つまり、こう修正したらうまくいったとか、こういう場合は失敗したとかいう、自分なりのデータをたくさんもっている人のことではないでしょうか。(106-107)  ね。これよこれ。てらいも何にもない、だけどものすごく深い洞察。荒井さんというのは、こういうものを持っている人なのよ。  あとね、これも一つ感心したのだけど、荒井さんの絵本って、ストーリーがあるようでないというか、物語的な起承転結があるわけではない。だから、ものすごく自由に、フリースタイルで、絵先行で絵本を制作しているのかと思いきや、実は絵本を作る前に詳細なマッピングをする、というんですね。  で、そのマッピングというのは、一つの紙に言葉で(絵ではなく)、この絵本に盛り込むべきコンセプトや、キーワードを書き込み、それらコンセプト/言葉を線で縦横につないだりして、相互連関を明示したりすることなんですな。つまり、一つの絵本を作るのに、設計図をかなり詳細にわたって作ると。  うーん、これはね、論文を書く時のワタクシとまったく同じ。私も一枚の紙に、この論文で扱うべき事柄や、論理の運び方、キーワードなどを書き出し、それを終始眺めながら論文を書いている。論文と絵本と、まったく別のもののようで、実は同じ制作過程を通っているんだ、というのは、私としては大きな発見でした。別業種の話って、なかなか聞けないので、その点、すごく面白かった。  それから、荒井さんは、子供を集めてワークショップを開くことが多いようなのですが、そういう経験から、「子供とは何か」ということに、非常に深い洞察を持っていらっしゃるのよ。それは、「子供は我らの希望だ」とか、「子供はみんな天才だ」とか、「子供の感性が羨ましい」とか、「我々大人は、子供時代のことを忘れてしまっている」とか、そういう通り一遍の認識では全然ないのね。  たとえば、子供は未来の希望だ! というような大人の勝手な思い込みから、子供たちに「未来のことを描いてごらん」などと指示しても、現実の子供は、未来の絵なんか描けないんですって。もちろん、過去のことも描けない。自分がもっと小さかった時のことなど、彼らには関心がない。子供ってのは現在だけを生きている非常にタフでシビアな存在であると。  なるほど!  また小学校3年生あたりを境に、子供が大人の世界を模倣し出し、輝きを失っていくことを荒井さんはしょっちゅう目にする。でもそれを残念とも思わず、ただ、そういうものなんだ、という認識をされている。だから、小さい子供が、それこそ天才的な感性で、思ってもみないような作品を完成させても、「ちくしょー!」なんて思わないんですって。  ただ、そうやって子供が普通に大人になってしまうことを、止めることはできないにしても、アートによって揺さぶりをかけることはできる。  ルーティーンに収束してしまいがちな世界に、アートで揺さぶりをかけ、非日常的な活動をさせることで、「決まり切った大人」から少しはみ出させることはできる。  私が思うに、多分荒井さんという人は、絵本という形で、社会に揺さぶりをかけようとしてるのではないかと。だから荒井さんの絵本は、子供向けであると同時に、大人向けでもある。  とまあ、この本を読んでいて、色々なことを考えさせられました。読んで良かった本でしたね。  ということで、荒井良二さんの『ぼくの絵本じゃあにぃ』、教授の熱烈おすすめ!です。 これこれ!  ↓ ​ ぼくの絵本じゃあにぃ (NHK出版新書) [ 荒井良二 ]

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