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カテゴリ:教授の読書日記
常盤新平さんの書いた『罪人なる我等のために』という小説を読みましたので、心覚えをつけておきましょう。
常盤さんの小説って、結局、実際に起こったこと、ご自身が体験したことを書いているので、私小説と言うことになるのだと思うのですが、そう考えるとぞっとするようなことがこの小説には書いてあります。 私小説だから主人公は常盤さんご本人なんですけど、この私小説の特徴は、もう一人の主人公として「秋子」なる人物が登場すること。 この秋子さんは、常盤さんの最初の奥さんの中学時代からの親友。そのことは、この作品以前の常盤さんの自伝小説にも書いてある。だから、実在した人なのよ。 で、この秋子さんですが、彼女は医者と看護師の間に生まれた私生児で、養父母の元に引き取られ、中学・高校と青山学院に通い、高校卒業後、銀座のバーに勤めるようになった。で、幾つかの店で働いた後、40代も末になった頃、銀座についに自分の店「ファネリ」を持つも、ほどなく癌に倒れ亡くなってしまうんですな。 で、本作は、常盤さんが死んだ秋子のアパートを、遺品整理を兼ねて訪ねるシーンから始まります。秋子が生前、結婚まで考えた山形という名の元愛人と共に。で、物語はここから順不同で過去に遡り、常盤さんと秋子の間にあった不思議な関係が深堀りされていくと。 秋子という人は、几帳面なところがあるので、育ての親を大切にし、日曜日は必ず彼らと過ごすことにしていた。でも、やはり血のつながりがないということから、そこまでの情愛はなく、定期的に一緒に過ごしながらも気持ち的には敬して遠ざけているようなところがある。 そんな身寄りのない秋子にとって、親友の志づ子、そしてその夫となった常盤さんの二人が唯一の心の拠り所になっていたと。だから週末、店の勤務が終わると、常盤さんと志づ子の新婚家庭のアパートに転がり込んで、泊まっていく。で、常盤さんたちも、それを当たり前のように受け入れる。つまり、男一人、女二人の共同生活みたいになっていくんですな。といって、志づ子は面食いだし、常盤さんも秋子の男勝りのような性格に性的には惹かれないので、この三人の関係がおかしくなることはないわけ。 で、当時は常盤さんと志づ子の関係は新婚さんで安定しているのだけれども、秋子の方はそうはいかない。 秋子は、その孤児の生い立ちに由来するものか、father figure を求めるわけよ。要するに妻子持ちの年長のハンサムな男。勤め先のバーの客として知り合ううちに、秋子はそういう男の愛人みたいになってしまうわけ。秋子は、バーのホステスとしては理想的な魅力のある人物なので、客の方でもついその気になってしまうんでしょうな。 だけど、所詮相手は妻子持ち。どうにかなるなると甘い言葉でとりつくろっても、結局どうにもならない。で、最終的には秋子が身を引くみたいな形になるのだけれど、そうなるとまた次のいい男が現れて・・・ということが繰り返されるんです。そういう秋子の恋愛遍歴を、常盤さんや志づ子は、危なっかしいなあ、と思いつつも、見守ると。 ところが、そうこうしているうちに常盤さんと志づ子の関係がおかしくなってくるんです。 元々翻訳家志望、一時は出版社に勤務したものの、副業でやっていた翻訳の仕事が順調になってきて、それで会社を辞めて翻訳業に打ち込んでいた常盤さん。出版社勤務で定職ができた頃に志づ子と結婚し、その後、夢をかなえて翻訳家になったわけだから、人生順調じゃんと思いきや、ここで魔が差すんですな。翻訳家養成所みたいなところの講師を務めていた時の生徒さんだった文子という既婚女性と仲良くなっちゃって、子供までできてしまった。 で、生まれた子供も認知するのだけれども、常盤さんはそのことを志づ子には言わないの。で、そこから常盤さんは、本妻の志津子と娘のさわ子のいる東京の西の郊外にある家と、愛人の文子が住む千葉の方にある家とを往復しながら、二重生活をする。十年くらい。そのうち、愛人の方に二人目の娘まで生まれたりして。 最低だよね! もちろん、さすがにそのことを十年も隠し通せるはずもなく、志づ子はやがて真実を知る。そして、悪いことに、その頃志づ子は大きな病気(多分癌)にかかって手術と入院を繰り返す。 まあ、火宅の人になったわけですよ、常盤さんは。 で、この火宅の人になって、四面楚歌になった常盤さんの唯一の理解者になったがのが、誰あろう、秋子であったと。 秋子もすごいよね! だって親友の夫が、親友を裏切っている状況だよ。でも、常盤さんからそのことを(志づ子よりもはるかに前に)知らされた後も、常盤さんを見捨てることなく、常盤さんと志づ子、常盤さんと文子の間の緩衝材になり続ける。 ここが、この小説の一番不思議なところであり、また秋子という女性の特異な魅力なのよね。 ま、おそらく、秋子は自分自身だって愛人の奥さんを泣かせているという認識もあるのでしょう。だから、男と女の関係なんて、どうせそんなもんだと思っているところもある。当人同士は深刻でも、お空の上からみたら滑稽なものだと。 しかし、それ以上に、秋子にとって常盤・志づ子ペアというのは、どういう形であれ、拠り所なのであって、ここが崩壊することは、自分にとっても大打撃だったのでしょう。また、愛人の子供を産んだ文子に対しても、自分ができなかったことをやってのけたという点で、若干のリスペクトもある。 だから、秋子は、志づ子・常盤・文子の三角関係の緩衝材たることを続けるわけ。常盤さんからしたら、もう、天使だよね! だけど、その天使が、50歳手前で癌にかかり、無残、亡くなると。彼女が亡くなった頃には、常盤さんは志づ子と協議離婚し、文子と暮らしていたんですけどね。 で、秋子の葬儀が行われるんだけど、そこには常盤さんや志づ子だけでなく、彼女のかつての愛人たちも参列する。全員じゃないけどね。 葬儀に参列した男たちの誰もにとって、秋子は天使だったのよ。逆に言うと、そういう周囲の男たちによって、秋子は殺されたんだ、と言っても間違いではない。彼らの罪を全部引き受けて、秋子は死んだ。本作が『罪人なる我等のために』となっているのは、畢竟、そういう意味でありましょう。 とまあ、本作の内容はそういう感じなんですけど、この小説の何がいいって、やはり秋子という女性を導入したことでしょう。 常盤さんと志づ子、常盤さんと文子という、この三人の関係だけで私小説を書いたら、それこそ泥沼を描くことになる(実際、本作でも一部、そういう泥沼が顔を出すシーンもある)けれど、そこに第三極として秋子という魅力ある女性が登場することで、人間関係の複雑さが増し、小説の奥行が出たわけね。 別な見方をすると、常盤さんはずるいのよ。自分のやらかした泥沼を描いて私小説を書いているのに、そこに秋子という哀れな女を引き込み、読者の目をそっちに向けさせて、泥沼を中和しようとしているんだもの。罪深いわ。マジで罪人だわ。 だけど、まあ、私小説ってのは、元々罪深さの競争みたいなところがあるからね。 しかし、感心するのは、常盤さんの秋子の描き方で、実際に彼女のことをよく知っていた、お世話になっていた、ということを勘案したとしても、小説中のヒロインとしてちゃんと実物大の存在感がある。リアルなのよ。あ、ここに「夏服を着た女」がいた、っていう気になる。 常盤さんというタヌキ親父は、その見た目にもかかわらず、女性を描くのが上手いのかもね。 ということで、『遠いアメリカ』を試作品とするならば、本作『罪人なる我等のために』は、一人前の小説の顔をしていた、と判定していいのじゃないでしょうか。実際、この小説を読んでいると、私小説を読んでいるという感じがしないもんね。普通の小説を読んでいる気がする。別に私小説を小説の下に置いているわけじゃないけど・・・いや、ちょっと置いているか・・・私は体験談よりも想像力の産物をアートと見なすものでね。 常盤新平さんの『罪人なる我等のために』、教授のおすすめ!です。 これこれ! ↓ ![]() 『中古』罪人なる我等のために お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
December 18, 2024 04:08:47 PM
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