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カテゴリ:教授の読書日記
某有名経済誌に掲載する5500字の記事を4日かけて書き上げ、家内の内助チェックも済ませました。あとは9月上旬の提出日までとりあえず置いておいて、たまに読み返して細部を洗練させるくらいかな。
しかし、とにかく仕事が一つ終わった。 文章を書く仕事って、終わるかどうかなんて最初は分からないからね。何日かけても書けないかも知れない。その恐怖と闘いながら書くんだから。書き終わった時は、どっと疲れる。いや、別に疲れはしないけど、呆ける。 で、呆けている時は何もできないから、本を読む。 今日読んでいたのは、中田耕治という人の書いた『私のアメリカン・ブルース』という本。1977年の本だから、かれこれ半世紀ほども前の本ですな。 なんで中田耕治の本を持っているかというと、昨年の秋から今年の春にかけ、事典の仕事で翻訳家・作家の常盤新平のことを調べていた時、常盤さんの師匠の一人が中田耕治だったから。 中田耕治は1927年生まれだから、私の父の一つ年上。だから、まあ、親世代ですな。1924年生まれの私自身の師匠とも年代は近い。そんなジェネレーションが上の人のアメリカ文学論が読みたくなったのよ。 で、読んでみると、懐かしいんだなあ。ああ、昔のアメリカ文学論って、こんな感じだった! という気分が波のように押し寄せてくる。ほんと、文学を勉強しているというのではなく、文学を生きている、文学を呼吸しているという感じなのよ。 だから、浪花節みたいな感じで、文学論と自分自身の人生論がないまぜになっている感じ。でも、そうやって引き付けて読んで、自分の全存在をかけてアメリカ文学と格闘しようとしているところが、面白いんだなあ。だって、それ以外に文学の読み方なんてないじゃん。 今時の若い大学院生なんかの、猪口才にかしこぶった、他人事みたいな論文とは全然違う。 それにやっぱり昔の学者さんは読む量が違うよね。私の師匠もそうだったけど、万巻の小説を読んだ挙句の、特定作家についての論だから、幅と深みが違う。 そうだよなあ、こういう文学論に憧れて、俺はこの道に入ったんだよな、という気分。 まあ、呆けている時期に読むものとしては、イイ感じでした。こういう先達の姿勢こそ、見習わなくてはと思いましたからね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
August 31, 2025 01:18:10 AM
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