難しい判断敬語は、使わねば無礼を重ね、生半可だと使わないほうがましと言う事に成ってしまうもの。使うべきものですが、使う以上は必死に学んで使うと言う心がけが要求されます。 「だれそれが食べ物を差し上げて居るのを見ました」・・・これは正しいでしょうか? このだれそれが、よほどの身内ならいざ知らず、「差し上げる」は自分がへりくだっての表現です。他の者の行為に、当てはめられる表現ではありません。 中元などを発注の際や、領収書を請求した際に、係りの女性が、「御名前様は?」 と言います。これは如何でしょうか? 「御名前はどのようにさせていただきましょう?」が至当です。 マニュアル敬語も、敬語の世界を乱す要因です。それを使っている当の本人達が、企業の歯車敵存在と貸しているパート従業員と言う立場上、気付いても震源はしないでしょうし、先ず気付かないのが現状でしょう。 敬語は、マニュアル敬語が簡単に闊歩できるほど、薄っぺらになってしまっているのが、日本の実情です。 丁寧表現や、へりくだり表現は外国語にも存在します、しかし、特別な形を用いる日本語の敬語表現は、文化も文化、日本語が、日本が誇るべき文化です。 それだけに、使う側派心して使い、更なる習熟を果たし、構成に申す継ぐ現世の日本人の責務なのです。 面倒だから・難しいから・分かり難いから、などと勝手な御託を並べて、避けて通って、日本語を害こぐ後波の発音に堕落させて、いいものではないのです。 |