|
カテゴリ:心の世界
「無宗教」と言うと、意味が多岐にわたり、特定できないが、根拠無く語っても無理があり、Wikipediaの解説は参照しました。
私の中での無宗教は、違うものとされる「無神論」とも共通する話ですが、この双方を考慮の範囲に入れての話ですが、特定の宗教団体にけもしていなければ、信仰もしていないと言う、そう言う意味の立場です。 しかしながら、ミヒャエル自身で「自分教」と呼称している立場はありますから、広い意味では無宗教とはいえませんね。多分、ミヒャエルは、無宗教ではなくて、「自分教信者」だと言えるのでしょう。 自分教の中身は、多種多様な要素がミックスされ、ビッグバーンの末生まれた立場です。それを表す言葉が、現在時点では「宇宙の調べ」なのです。人畜無害、全てを包み込む世界です。 その上に「確信思考」が置かれて、それが精神生活から行動の全てに至るまでの、原理的礎石です。 神社仏閣・各教会・祠から自然神の祭祀場所、目に見えない対象の祭祀、それら一切合財、何の制限も無く、必要に応じて、手も合わせます。但し、その行為の後は、余計なお土産付きにならないように手を打ちます。 常識としては、仏に対してはお礼を述べ、神に対しては願いを込めると言う常識にも、従うことが多いのです。その他、このようにするのが、常識を超えているけれど、よろしいと聞いていることについても、取り入れています。 礎石は自分教、精神は確信思考と言いながらも、なかなか常に瞬間瞬間徹し切れていないのも確かです。遣り切れることを目睹に研鑚の毎日です。 徹し切れていない時に入り込むのが、迷いであり、悩みであり、心の不安定であり、病です。これら全てを受け入れないためには、礎石とその上の建築物にすっかり信用を置き、 四六時中隙無く徹し切ることです。 今日は書き込みに来てもらわなかったなあ!というのも、淡々と受け止めて、それ以上にしないことです。結構こんな毎日のことが難しいものです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
|