2004/12/10(金)01:13
フェルディドゥルケ
先週ポーランドの劇団が来日していて、小さなシアターで演劇が行われました。演目は「フェルディドゥルケ」。ヴィトルド・ゴンブロヴィッチという人の作品です。
ポーランドの文学作家は歴史的な背景からか愛国的なものが多い気がする。その中でゴンブロヴィッチは異彩を放っていると思う。私は愛国的なものが苦手なため、そういうにおいを漂わせているポーランド文学には深く興味を持つことはできなかったのだが(もちろんそればかりではなく興味深いものもたくさんある…けど、不勉強なのでここでは語れない(^_^;))、ゴンブロヴィッチにはなぜか引かれた。彼の考え方は私にはとっても魅力的だった。難しいし、不可解なんだけど。常に形にとらわれないように生きようとした、彼の姿勢。それに惹かれるものがあった。
フェルディドゥルケは、大人になった主人公が再び子どもに戻って学校の義務教育を受ける話。道徳や制度といった社会のシステムに対する批判。批判というより、ユーモアたっぷりに笑い飛ばす、という感じ。いや、笑い飛ばすというよりも嘲笑かな。劇では、日本語訳で「夏目漱石」として訳されていた。細かいところは覚えていないけど、大雑把に場面を紹介するとこんな感じ。
「なんで我々は夏目漱石に感動するのか?」
「それは夏目漱石が偉大だからだ」
「でも・・・自分は夏目漱石には何も感じないんです」と、生徒。
「頼むから感動すると言ってくれ!私には妻も子どももいるんだ!」と、先生。
彼の哲学は以下に凝縮されるらしい。
「我々が形を創るのか、それとも形が我々を創るのか」
どういう意味か?
簡単な例を出すとこういうことだと思う。最近血液型の番組が問題が記事になった。あまりにも枠にはめすぎて、そのせいでイジメが起きた…なんていうクレームがあったってことが理由でした。血液型によって性格を当てはめるのが私たちは好きだ。でもこれはまさに「形」にとらわれている格好の例。人間個人を見るのではなく、その人が「何型であるか」によってその人を形に当てはめる。それから「日本人は勤勉である」という考えも同じ。日本人は生まれながらに勤勉なのではない。平たく言えば、日本にある社会システムが勤勉でなければうまくいかない仕組みになっているために、勤勉にならざるを得ないって言うこと(「カルチュラル・スタディーズ」にもこういう考え方がある)。これは実にいろんなことに言える。ちなみにこういうのを学術的には「構造主義」というみたい。
「夏目漱石はすばらしい」と私たちは教えられる(まあ私は好きですが)。夏目漱石を読む。本当に素晴らしいと思うかどうかは別として、みんなが「すばらしい」っていうから、自分も素晴らしいと思い込む。こういうことって実はよくある気がする。これも「形」にとらわれているってことだよね。ゴンブロヴィッチは常にそういうことを批判して疑問視し続けた人なのだと思う。そして生き方もそれを実践した。
本当は人間個人個人が「形」を創り出していくべきなのに、気づくと人間が「形」に当てはめられている…。制度によって。言葉によって。国によって。
これに気づくと、世界が違って見えてくる、と思う。