|
カテゴリ:カテゴリ未分類
仕事にも復帰し、いつもと変わらない日々に戻りつつあります。今日は初七日で、親戚が20名ほど集まりました。
20名というと、初七日にしては多い方なのかもしれませんが、私の親戚のほんの一部にしか過ぎません。ばあちゃんは合計13人の子供を産み、その配偶者や孫、玄孫まであわせると、合計90名を越えるのです。孫の中でも、私は特にばあちゃんにかわいがられていたと思います。 母の仕事の都合もあり。私は生後8週目から100日を過ぎるまで、ばあちゃんに育てられました。その後も保育園や小学校に通っていたときも、夏休みなどの長期休みには、ばあちゃんの家にいたり、ばあちゃんが私の家に来てくれていたのです。その後はさすがに80歳近くなったときに、田舎を引き払い、私の住む町に引っ越してきて、8年前に老健に入り、ここ2年は療養型の病院に入院していたのです。 その間に、肺炎にかかったり、心筋梗塞を起こしたりと何度か危ないときがあったのですが、何度もその危機をくぐり抜けていたのです。「明治の女は強いなあ・・・」とつくづく感じていました。ここ1年は、老人特有の痴呆症状もあり、時には自分の息子や娘たちの名前も忘れてしまうほどでしたが、私や母の名前と顔を忘れたことはありませんでした。 時々、私の年齢が10も若返り、「今はどこの学校に通っているんだ」と笑っちゃうような質問もされましたが、私であることには違いなかったので、笑って過ごしました。 母も私も、育ててもらったありがとうの気持ちを込めて、なるべくいけるときには顔を出していたのです。 おじやおば、従弟たちは私たちの名前だけは決して間違わないことを羨ましく思っていたようですが、過ごす時間が違う以上、仕方がないことだと思うのです。 今回の葬儀でも、そのことをちょっぴり嫌みのように言う人もいましたが、私にはそれが誇りに感じられました。 葬儀の間、私は不思議と涙は出ませんでした。(私の母は泣きっぱなしでしたけど・・・) ただ、棺のふたが閉められる前の最後のお別れの時、白いかすみ草を棺に納めたとき、私はばあちゃんの頬に触れた手を離すことが出来なくなりました。次から次へと涙が溢れ、嗚咽をあげて泣いてしまったのです。どのくらいそうしていたのかは解りませんが、おばにそっと手を引かれ棺から離されたことは覚えています。 私はばあちゃんが本当に大好きでした。女として、母として、一人の人間として尊敬できるひとです。 だから、ばあちゃんの最期は必ず立ち会うつもりでいました。自分の思いを遂げられたことに、今はとても満足しています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2004.06.13 22:45:11
コメント(0) | コメントを書く |
|