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作詩・作曲 武政英策 (たけまさ えいさく) 〔昭和34年〕 1 南国土佐を あとにして 都へ来てから 幾年(いくとせ)ぞ 思い出します 故郷(こきょう)の友が 門出に歌った よさこい節を 土佐の高知の 播磨屋橋(はりまやばし)で 坊さん簪(かんざし)買うを見た 2 月の浜辺で 焚火を囲み しばしの娯楽の 一時(ひととき)を わたしも自慢の 声張り上げて 歌うよ土佐の よさこい節を みませ見せましょ 浦戸をあけて 月の名所は 桂浜 3 国の父さん 室戸(むろと)の沖で 鯨(くじら)釣ったと いう便り わたしも負けずに 励(はげ)んだ後で 歌うよ土佐の よさこい節を いうたちいかんちや おらんくの池にゃ 潮吹く魚が 泳ぎよる よさこい よさこい ■ もとは民謡「ヨサコイ節」の替え歌として、高知方面で歌われていたものを戦時中兵士同士が広め知る人は知るように。昭和27年に音楽関係者が聞きつけ手直しの末、鈴木三重?子の歌唱でレコード化。しかし、地元でしか売れず。昭和33年、国営放送のイベントでペギー葉山はアトラクションで歌うことを依頼されます。もともと、ジャズ/ポピュラー?を歌ったいたペギーは断りますが、プロデューサーや司会の高橋圭三らに懇願されてしぶしぶ歌ったところ大好評。当然レコード化をという話になりますが、ペギーは拒否。仕事?で海外へ出掛けます。帰国後、それではと旅先で見つけて来た「ドクトル・ジバンヌ」のB面でならということでしぶしぶ吹きこみます。 実際は両A面の扱い、勿論空前の大ヒットとなり、既に人気歌手だったペギーですが日本の歌のヒットにより、支持層が拡大し、独自の路線を歩んでいくことになります。 これだけの大きい作品と巡りあってしまうと、その後ヒットを出すのは困難なのですが、ペギーはこの歌の大きさと闘いながらもさらにヒットを出し続け「学生時代」というこれ?また後世に遺る曲までヒットさせたのでした。 因みに26歳のときに「南国土佐を後にして」 が空前の大ヒット現在は78歳になられています。 ■ 土佐弁 「言う」は土佐弁ではしばしば「ゆう」となる。よさこい節の一節に 「いうたちいかんちや おらんくの池にゃ 潮吹く魚が 泳ぎよる」 というのがある。「いうたちいかんちや」は「言ってもダメですよ」の意。 それにしても大法螺(おおぼら)です。潮吹く魚は【鯨】、おらんく【オレの家】の池は土佐湾ならぬ太平洋のことなのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012/06/12 02:47:48 AM
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