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QBスニーク

◆発病前◆

 私がこの世に生を受けてから白血病を発病するまでの状況を,出来る限り思い出してここに記したい.生活様式や環境が白血病の発病に及ぼす影響は少なからずあるものと考えるので,今後の白血病医療のお役に立てれば幸いである.

 まず,幼少期~発病前に体調を崩すまでの記憶を辿ってみる.

○誕生月:5月.

○生誕地:秋田県の山間部.

○出産時の両親の年齢:32歳(父),28歳(母).

○両親の血液型:A型(父),AB型(母).

○両親の血縁:父方の祖母と母方の祖父に血縁関係あり?(詳細は要確認).

○兄弟姉妹:5つ年上の姉(B型).

○出産前の状況:逆子と診断され,正常に戻す対策が施されていた.

○出産時の状況:逆子のまま出産,臍の緒が首に巻きつき,しばらく産声を出せなかった.

○出産時の体重:3600or3800g(要確認).

○3歳時くらいまでは体重も人並み以上であったが,ジフテリヤの予防接種時に体調を崩し,以来,食が細くなり,人並み以下の体重を維持することになる.

○小学校の1年生くらいまで,発熱性の痙攣を繰返す.年に一,二度くらいの頻度で,倒れていた記憶がある.

○小学校の2~3年生くらいから,町内で野球チームを結成し,野球に熱中するが,食と体は細いままであった.とにかく,食事するのが嫌でしょうがなかった.

○風邪をひくと,必ずといって良いほど,扁桃腺を腫らしていた.小学校の高学年の頃,隣県の大学病院で精密検査を受けるが,切除の必要なしとの診断が下った.

○中学生になっても,野球は続けていたが,食は細いままであった.2年生の夏の練習中に,ひどいめまいを起こし(地面が浮かんでくる感じに見えて),地元の病院で精密検査を受けた.腎盂炎と診断され,長期に渡って通院と食事療法を行った.周りの仲間たちは成長期を向え,自分だけ取り残された感じで,中学3年の時には,クラスで身長の低い方から数えて2番目か3番目だった.

○せめてもの救いは勉強が楽しかったことか?身体が弱くても,頭で勝負してやると思って,前向きに生きていた.

○高校受験は予想以上に上手く行き,地元の進学校に一桁の順位で合格した.自分が病弱であることを痛いほど自覚していたため,プロ野球選手になるという夢を棄て,なぜか(まともに50mも泳げないのに)水泳部に入部した.

○水泳をマスターすることに没頭するあまり,好きだったはずの勉強は片手間にするようになった.部活を終えて帰宅すると,晩御飯を食べるのを忘れて,朝まで熟睡してしまうことがたびたびであった.

○水泳は一般人からは尊敬されるほどに上達したが,勉強の成績の方はかなり落ち込み,卒業時は入学時に比べて110番程度順位が下がっていた.そんなことを吹っ飛ばすほどうれしかったことは,健康になったことであった.ハードな練習のせいもあって体重こそ標準以下であったが,身長は入学時に比べて15cmほど伸びて,175cm近くになっていた.あれほど病弱だった身体も見違えるほど健康になったのは水泳のおかげであろう.この頃は,食も大分太くなっていた.毎日牛乳1ℓを飲み,週に1回程度はビフテキを平らげたりしていた.今考えれば,贅沢をさせてもらった.

○大学受験の準備中に,帯状疱疹(ヘルペス)に罹った.3年生の夏休みまで水泳に没頭していたため,短期間で受験勉強を仕上げようと無理していたことは確かだが,年末のクラスマッチ(バスケットボール)に出られなかったのは残念で仕方が無かった.あれだけ練習していたのに・・・.

○大学は工学部に入学し,予てからやりたいと思っていたアメリカンフットボール部に所属して,勉学とスポーツを両立した4年間を過ごした.健康状態は良好であったが,夏場の練習では,かなり体力の消耗が激しく,数日間寝込むことは度々であった.練習で擦り傷を作ることが多く,傷の治りが悪くなることもあった.自分の体力に最も自信を持っていた時期である.大学4年時に初めてパソコンを購入,実験データのまとめやレポート作成に利用した.このころから,電磁波を毎日のように浴びることになる.

○大学時代は勉学とスポーツの両立が達成でき,自分でも満足の行く成績で大学院へ進学.大学院の2年間は,研究がメインの生活であったため,比較的不規則な生活が続いた.それでも,ほぼ毎日のようにフットボールの練習に参加して,現役と一緒に身体を動かしていたため,不調を訴えることはほとんど無かった.

○社会人となり,生まれて初めて愛知県へ.“思えば遠くに来たもんだ”という感じで,生活習慣に慣れるのに数年を要した.仕事は,大学院での研究テーマを継続できる企業の研究員であった.健康には全く不安は無く,仕事の合間にクラブチームでフットボールを継続するほどであった.何も怖いものはなかった.

○子供が出来た頃にフットボールを止め,すっかり運動不足の生活に入った.職場で自分の仕事が認められ始めた時期でもあり,ほとんど仕事人間になった.必然的に,電磁波を大量に発生する実験装置のそばにいる時間や,デスクワークでパソコンの前に座る時間が長くなった.それだけではなく,実験器具の洗浄に有機溶剤を使う機会が多かったことも思い出す.この辺から,病が密かに芽生え始めていたのかもしれない.

○発病する3年前に胸膜炎を患った.胸膜炎で入院する2ヶ月ほど前に,夜中に確かに胸の痛みを感じて病院で検査したが,レントゲンには何も写らなかった.その後入院までの間に,顔を中心に蕁麻疹のようなものができて凸凹の顔になってしまったことをおぼえている.何かとんでもないことが自分の体の中で起きていると感じた.

○朝方は微熱程度なのに,仕事から帰って床に入る頃には40℃近い高熱を発する状態が一週間続いて,堪らず病院へ.レントゲンを持って内科外来に戻る途中で,そっとレントゲンを覗いて驚いた.右肺が真っ白に写っていたのだ.「即入院です.手遅れになると,片肺が使えなくなりますよ」と言われた.結局,入院した日のうちに応急処置で,注射器で胸水の一部を抜き取り,驚くほど素早く熱が下がった.前日まで一人前の食事を満足に食べることが出来なかったのが,その夜の病院食は完全に平らげてしまった.こんなにも自分の身体がデリケートだとは思っても見なかった.

○その後,胸水を少量ずつ完全に抜き取るために,約3週間にわたってポンプに繋がれた.トイレに行くたびに看護婦さんを呼んで車椅子にポンプを積んで移動しなければならないのは辛かった.熱もないし,食欲もあるし,ポンプさえなかったら,遊びに出掛けたいくらい元気だったのだ.結局,トータル2ℓの胸水が抜き取られた.成人の男性の片肺一杯に水を貯めると2ℓくらい貯まると言われているから,私の右肺は満タン状態であったわけだ.

○この胸膜炎をきっかけに,少なくとも月に一度は外来診察に通い,血液データを蓄積していたのが,後々の早期発見につながる.不幸中の幸いとはこういうことをいうのかもしれない.

○3週間程度の入院であったため,復帰に際しては何の問題もなかった.スムーズに会社に復帰できた.この入院で,健康の大切さについては認識を新たにしたつもりであったが,仕事人間に戻るのに大して長い時間は必要としなかった.毎日,8時から21時や22時までの激務が続いた.それでも,好きでやれる仕事だったので,その忙しさが心地良かった.

○益々仕事の面白さを噛み締め,海外での学会発表も決まり,新居への引越しを終えようとしていたとき,それまで経験したことの無い体調の異変を感じた.

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