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カテゴリ:阿武隈川~蝦夷と大和の境界線
奥羽の地は都人から見て辺境の地であった。ある意味で外国、という感覚であったのかも知れない。奈良時代(710~794)に作られたとされる勿来の関は、来る勿れ(来るな)という意味が示すように、エミシの南下を防ぐ目的で設置された防御点であったらしい。白河関はそれより早くて5世紀前半、少なくとも645年の大化の改新の時に文献に出ることから、その頃に作られたと思われる。 大化元(644)年、中国唐王朝二代目の皇帝・太宗は、高句麗遠征の詔を発した。この決断は、高句麗、百済、新羅の朝鮮三国と日本を30年にもわたって巻き込む大戦乱の幕開けとなった。朝鮮半島の東西で覇を競っていた百済と新羅は、朝鮮北部の高句麗から強い圧迫を受けていた。そこで高句麗と連合した百済に押された新羅は唐に接近、そのため百済は、唐と新羅の挟撃を受けて苦戦していた。そうみると日本海側を北上していった城柵が河口港周辺に設置されて行ったのは、対朝鮮半島軍事経略上の最適場所であったからだと考えられる。熾烈化する朝鮮の戦乱に対して、武力を背景に有無を言わせずエミシを大和の政治機構に組み入れ、防衛体制を整えようとしたのであろう。 大化三(647)年、大和は渟足柵(ぬたりのき)を、その翌年には磐舟柵(いわふねのき・新潟県村上市)を築いた。渟足柵や磐舟柵が作られたことから、福島県においてもエミシと大和の境界線が県の中央部、つまり現在の郡山市周辺にまで進出してきたと考えられる。神話の『国土創成』が参考になる。今の福島県から北は道奥(みちのく)と言われた。そのためか、助川(茨城県日立市の宮田川か?)あたりは『道の前(みちのくの入り口の意)』と呼ばれ、陸奥国苦麻村(福島県双葉郡大熊町熊)は『道の尻』と呼ばれていた。古代、この間は常陸の多可評(たかのこおり)であった。その後それが常陸と磐城に分割されたのである。いずれ『道の前』と『道の尻』は、対になる地名である。 その後大和は勿来と白河関を底辺として阿武隈川流域に南から白河、石背、阿尺、安達、信夫に郡衙を置き国造を派遣した。白河には関和久遺跡と借宿廃寺が、須賀川には栄町遺跡と上人坦廃寺、郡山には清水台遺跡と清水台廃寺、二本松には郡山台遺跡と西地区寺院、福島には五老内遺跡と腰浜廃寺が残されている。これらの郡衙は多賀城の下部機構として整備され、律令時代の地域に根ざした地方役所となった。一説によると、郡衙は正倉院(米倉)・郡庁(行政施設)・館(宿舎・厩)・厨院(調理棟)など約40棟で構成されていたとされるが、福島県域にあった郡衙にこれらのすべての施設が揃っていたかどうかは不明である。とは言っても、これらの郡衙と廃寺跡は、大和が北流する阿武隈川の西側に沿って壮大なくさびを打ち込んだ、ということになるのではあるまいか。これらの郡衙と寺院は、非常に近い場所か同じ場所に併設されていた。ここで注目すべきは、これらの施設全部が阿武隈川の西側であったということである。 そしてそれに対応するかのように、阿武隈川の東には日本武尊の神社が数多く残されている。(資料1~2 参照)ところで日本武尊は大和側の人である。天皇の命令でエミシを平定に来たのに、なぜ日本武尊はエミシの地に神として祀られたのであろうか。それに対する一つの推定が、常陸風土記にある。それには、日本武尊が井戸を掘るなどして地元に貢献したと記述されている。そこから考えられることは、日本武尊の恩に報えるため、エミシが自分たちの集落にこれらの神社を勧請したと考えてもよいのかも知れない、またそれは、大和に服従したという証明にしたとも思われる。つまりこの阿武隈川の東側に日本武尊を祀った神社が数多くあることから、日本武尊に平らげられはしたが、もともとはエミシの土地であったということではなかろうか。このなだらかに起き伏す山並みが、狩猟採集に向いた土地であったのかも知れないからである。 稲作文化の伝播による大和の進出は、この時期あたりまでではなかろうか。これ以後、大和の武力による進出は足を速めるのである。斉明天皇の4(658)年、阿倍比羅夫は船180艘を連ねてエミシ征伐のため日本海沿いに蝦夷地(北海道)の後方羊蹄(しべりし)にまで侵攻した。しかしこれは点の確保であって、面としての確保ではなかった。海からの北進は、大和にとって是非とも確保したい重要な地域だったと思われる。ただこの後方羊蹄は北海道ではなく、青森市後潟字潟山にある尻八(しりはち)館だとする説がある。青森県立郷土館によると、この館は古いアイヌの砦を土台として安東氏が築城したものだと言う。しかし、土地を収奪される側としてのエミシの抵抗が強くなっていく。そのためこの阿倍比羅夫侵攻の事実だけでエミシと大和の境界線は津軽海峡であったとは言えない。いずれエミシの問題への対応の重点が、戦乱の朝鮮半島に近い日本海の側に転じたということなのであろう。 一方、唐と新羅の連合軍に敗れた百済の人民は、大和に逃げてきていた百済王子を擁立することで大和に援助を要請した。これに応じた大和は、斉明天皇の七(661)年、百済への派遣軍を出発させた。 天智天皇二(663)年、阿倍比羅夫を将として百済に派遣された大和の水軍は、朝鮮錦江河口の『白村江の戦い』(百済復興戦争)で唐の水軍と戦い、大敗を喫した。この戦いは、大和が鉄を得るため加勢の兵を出したとも言われ、その後、鉄の武具で地方を平定していくことになる。大和は、唐と新羅による反撃を恐れた。翌六六四年、中大兄皇子(ナカノオオエノミコ) が防人(さきもり)と烽火(のろし)の制度をつくり、対馬、壱岐、筑紫に水城を築いて防衛に当たらせることにした。そのときに集められた兵士たちが防人である。兵士の一部は1年交代で衛士(えじ)として上京、また一部は3年交代で北九州に防人として出て行った。このときの軍団は全国に配置されていた常備軍で、通常、兵士1000人で一団が編成された。兵役は公民の義務で一般から徴発され、武器、食料自弁の農民兵であった。 防人には東国の人たちが選ばれた。なぜ東国の人たちが選ばれたかは良く分かっていないが、一説には東国の力、つまりエミシの力を弱めるためとも言われている。任期は、3年で毎年2月に兵員の3分の1が交代とのことであったが、実際にはそう簡単には故郷に帰してもらえなかったようである。東国から行く彼らには、部領使(ぶりょうし)という役割の人が引率をし、徒歩で北九州まで行く訳であるが、当時の人たちにとって辛い旅だったことは間違いがない。そしてせっかく任務が終わって帰路についても故郷の家にたどり着くこと無く、途中で行き倒れとなる人たちも少なくなかったのである。 防人には、今の福島県域の人たちもいた。そしてこの人たちが、エミシ人であったともそうでなかったとも、証明するものはなにも残されていない。この派遣には、『福島エミシ?』の力を殺ぐということも考えられていたのかも知れない。九州に送られた防人たちの歌が万葉集の巻20に載せられている。 会津地方には、 『君をのみ しのぶの里へ ゆくものを あひずの山の はるけきやなぞ』 の歌があり、中通りには 『あひ見じと 思いかたむる 仲なれや かく解け難し 下紐の関』、 そして浜通りには 『筑紫なる 匂う娘ゆえに 陸奥の 可刃利乙女の 結ひし紐解く』 などの歌があり、この他にも多くが残されている。 これらの歌から、この徴兵は福島県全域でも行われたことが分かる。そしてこれらの歌のほとんどは、家族と離ればなれになる悲しさや、夫が遠くに行ってしまう悲しさ・不安・無事を祈る気持ちを詠んだものであった。しかし上に立つものには、彼らの士気を鼓舞し、出征させなければならないという別の配慮があった。次のような歌がある。 『今日よりは 返り見なくて大君の 醜(しこ)の御楯と 出で立つ我れは』 『海ゆかば 水漬く屍 山ゆかば草むす屍 大君の 辺にこそ死なめ かへりみはせじ』 万葉後期を代表する8世紀の歌人・大伴家持の和歌である。福島県域からどの程度の人数の防人が徴兵されたかは不明である。 ブログランキングです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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