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『福島の歴史物語」。ただいま、「ショート・ショート」を連載しています。

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桐屋号@ Re:陸奥国鞭指(むさし)莊の怪(03/06) 2019年12月に廃止だそうですね。私…

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Jun 6, 2014
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     行 司 ヶ 滝

 正保元(1644)年12月25日、幕府は各藩に対し、国絵図の撰上を命じました(正保古絵図)。これに伴い、翌正保2年、相馬藩は「玉野境道法改」を行って国絵図作成を進めたのです。しかし翌正保2年は、秋田俊季が宍戸(茨城県笠間市)から三春へ転封になった年でしたから、事情もよく分からないうちの出来事だったのです。

 正保4(1647)年9月 相馬藩は御国絵図郷村帳」を撰上しましたが、そこには「春より三春論山」と記載されていました。つまり境争いがあることを明示したことになったのです。年号の変わった慶安元(1648)年3月7日、相馬藩泉縫殿助・太田茂左衛門・稲葉八大夫らと三春藩秋田三郎右衛門・小野寺太左衛門・郡司利助らが、古道村の平七という場所に出張し、双方百姓から事情を聴取したのです。相馬領百姓の主張は、吉野田和川切ではなく平七峰より絵馬賀鼻までであり、「正保四年御国絵図ニ茂如此境目と書上」げたというものでした。とは言え、それぞれが勝手に撰上した正保国絵図が論拠とされたのです。ところが慶安2(1649)年、大阪城加番中の秋田俊季が死去、その子 盛季がそのまま大阪で父の役職を継いだのです。

 この図面上の問題が現実の問題となったのは、元禄10(1697)年12月22日、 三春領古道村重三郎 伝重郎 長三郎らが相馬側に提出した訴状と相馬領野上村七之介 山田村五左衛門 羽鳥村作大夫 大掘村長重郎 新山村勝右衛門 大河原村重右衛門 下野上村治郎右衛門らによる返答書で、訴状の説明するところでは、吉野田和川切を古来境としていたのですが、正保4(1647)年に相馬藩の在郷給人二人が足軽百姓を連れて、古道村の切当山に入り、盗伐をしていたので道具を押収したということからことから騒ぎとなったのです。
 その一方で、正保(1644〜1647)年中に、白川、二本松、三春領境については互いの話し合いにより解決しております。

 ところが、この騒ぎから51年後の元禄11(1698)年 えせ坂以北について「此所古来三春領ニ御座候所去ル卯八月御裁許之上相馬領に罷成候」とあり三春領から相馬領に変更され、三春側としては不満の残る結果となりました。そのために、元禄15年、現地再見聞されましたが決着が見られず、争いが再燃しました。

 ともかく、この長い争いのうちに関係者の多くが死去、それでも元禄15(1702)年12月に、磐城、相馬、三春の三領一紙の国絵図が完成して一応の決着をみたのですがまたも再燃し、宝永元(1704)年の再検分となったのです。この最終結果がいつになったかは明確ではありませんが、三春側の敗訴という結果になりました。宝永4(1707)年に秋田盛季が大阪で死去しておりますので、三春藩としても3代に渡っての事件となってしまったのです

 そしてその敗訴した責任をとって、三春藩古道村の名主・遠藤十三郎が切腹したのです。現在、田村市都路町古道地内の高瀬川支流にある滝が「行司ヶ滝」と呼ばれていますが、土地の人は、ここを相馬領との境にしたので、この名で呼ばれていると伝えています。



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Last updated  Jun 6, 2014 10:09:47 AM
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