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2015.07.01
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カテゴリ:街 こおりやま
  ある神風特攻隊員の遺書

 『僕はもう、お母さんの顔を見られなくなるかもしれない。お母さん、良く顔を見せて下さい。しかし、僕は何もカタミを残したくないんです。十年も二十年も過ぎてからカタミを見てお母さんを泣かせるからです。お母さん、僕が郡山を去る日、自分の家の上空を飛びます。それが、僕の別れの挨拶です。』

 この遺書を書いた茂木三郎一飛曹は、その内容からみて郡山出身と思われます。

 戦中、郡山の海軍金屋飛行場から特攻隊が出撃したという話を聞いたことがありました。しかし郡山から直接出撃したという記録はありませんから、恐らく郡山で、または原町飛行場(南相馬市原町区)で飛行訓練を終え、特攻基地へ送られる前に書いたものと想像できます。
 昭和20年5月4日、茂木一飛曹は神風特攻隊第五神剣隊の一員として、鹿児島県鹿屋(かのや)基地より250キロの爆装零戦として出撃、沖縄周辺の艦船攻撃で戦死をしました。享年わずか、19歳でした。

 このような消耗戦法は、当然ながら戦闘機の払底を招きました。そこで使用されたのは、海軍が偵察搭乗員を教育するため九〇式機上作業練習機の後継機として開発した練習機でした。その練習機に積載する爆弾の重量の見返りに外せるものは全部外し軽くする必要がありました。無線機、機銃、あげくには飛び上がると車輪まで落とさせられたそうです。飛び上がれば隣の飛行機とも連絡がとれず、故障などで引き返しても着陸も出来ず、その多くは空中戦の準備も無いまま丸腰で待ち構えている敵の戦闘機群に飛び込んでいったのです。いま残されている米軍側の映像の記録に、機銃を撃ちながら敵の艦船に体当たりしていく特攻機の姿は、まったく見当たらないようです。
   
 このように青少年の命を無視しながらも敗れた対米戦争。70年後の今に至るも「現在の平和日本の礎は、国の為に散華した英霊のお陰によるものである」と主張するエライ人。彼らはこの主張の中に英霊を貶めている、つまり矛盾した論理であることに気付かないのであろうか。



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最終更新日  2015.07.01 05:58:21
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