『福島の歴史物語」。ただいま、「鉄道のものがたり」を連載しています。

2017/02/11(土)08:08

『帰布二世』の証言(10)

二つの祖国の狭間で(21)

      『 帰 布 二 世 』 の 証 言(10)  このアメリカ政府の不当な扱いに対し、抵抗する術さえ分からぬ日本からやってきた一世たち。しかしこうした移民を親にもつ日系の二世たちは、親たちに抵抗している。そして自らのふがいなさに嘆きつつ、時として子供たちにまでなじられる一世の親たち。彼らの苦悩は計り知れないものがあったと思われる。  いずれにしても、ハワイにおいての帰布二世たちは少数派であった。言葉も不自由であったから、むしろいじめの対象になったようである。そのことはさらに、小さくなって生きざるを得なかったのではあるまいか。すでに帰布二世の世代そのものが少なくなってしまった今、その親たちは皆無である。その時の親たちの苦しい気持を聞く方法は、永遠に失われてしまった。  この取材のまとめの意味で、『ある二世の轍』より次の文章を引用してみる。起きた時期は不明であるが、内容から言って1930年代の後半かと推測できる。いずれにしても、米国籍を有する成人に近い日系人にとって、日本は住み難い国になっていたのは間違いない。     非国民   大事な頭をボールと間違えられる  東京留学時代のことである。私は特許局に数種の登録をしていた。そのことで米国市民である証明書を必要としたので、アメリカ大使館に出入りしていた。  ある日の午後、同僚とともにいつものように、牛込区を歩いていると、「君、ちょっと」と呼び止められた。何事かと、その男に問い返すと、その男はポケットから身分証明書を取り出した。男は私が虫けらより嫌いな特高警察の者であった。次に男はつっけんどんに、「ちょっと来い」と言うと、もう自分はドンドン先に歩き始めた。私らも仕方なく、その男に従って行った。私の同僚はというと、特高と知っただけで青くなっている。私と同道したことを後悔しているかも知れぬという考えが頭をかすめた。しかし私はなぜか落ち着いていた。それが特高の気に障ったのか、しばらく行ってとある交番の裏側に連行された。  そこには、私服が二人と制服が二人いて、それに私を連行した男が加わって計五人となった。  「君はどんな目的で日本に来たのか。何のためにアメリカ大使館に出入りするのだ。大体に見当はついているんだ。電機製作所で働くように見せかけ、実は電機館や特許局に出入りして、日本の発展、研究状況を逐一メモしているんだろう。日本人の顔をしながら、この非常時(一九三九年末)に時局も憂えず、毎日学校や製作所を巡り歩くとは何事だ。その目的を話してみよ」  と詰問してきた。  「私はけっしてあやしい者ではないから心配はいりません」  と、平気で答えると、声を一段と荒らげ、  「何を目的で日本へやって来たんだ。怪しいかどうかを聞いているのではない。まともに返事しろ。正直に返事しないとためにならないぞ」  と大声で怒鳴りつけるのみでなく、凄みさえ加えてたたみかけてきた。わたしはありのまま、日本には勉学のために来たこと、特許局へは新案を登録するため出入りしていること、そのためには米国市民の証明を必要とすること、それは法律で決められていることであり、特許局へ行って出願中のもの、登録済みのものなど調べてほしいと言った。 「なまいきなことをいうな。正直に答えろ」  と怒鳴りつけるや、尋問している奴が私のアゴを横にグイと押した。すると左側の私服がわたしの頭を右に押しやった。右側の奴が頭を後方に、後方の奴が力まかせに前方に、その間にもポカリポカリ、前のやつがまた後方にポカリ、口を開くすきを与えず、私の頭はボールのように前後左右に押しやられ殴られっぱなしである。重心を失い、意識さえ朦朧として、失神しそうになり、彼らが手を休めると前のめりに倒れかかった。  「オイ、コラッ、日本人なら日本人らしく直立せよ」  と頭上から怒鳴りつけてきた。けれど、直立などできるはずがない。さんざん頭をいたぶられ、殴られたのである。  「それ見ろ。貴様は日本人ではない。日本人はこれくらいのことでへたばらないぞ。非国民め、しっかりしろ」  私は完全に参ってしまった。弁解しようと口をあけかけると「非国民め」と怒鳴られ、「ちょっと待ってくれ」と哀願するとまたポカリ。「日本では問答無用だ」と、答えては殴られ、黙してもポカリとやられ詰めであった。しばらくして「悪かったと謝ったら、今日のところは返してやる」と言ったので、私は不本意ながら悪かったと詫びた。そのあと再び二つ三つポカリとやられて、やっと解放された。日本の特高はアメリカのリンチ(私刑)を思わせる惨いものであったのだ。  同道した同僚出雲勇次郎君は外で待ってくれていた。私が解放され出て来たのを見てすぐにも私の手を握らんとしたが、特高の眼に威圧されそれもなしえず、しばらく歩いてのち初めて口を開いた。かなり殴られたものの鼻血程度で解放されたのは幸運だった、と話合い足早に帰途についた。  それからは、行動範囲を制限し、身の安全を期し、やがて機を見てハワイへ逃げ帰ったのである。 ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。

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