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『福島の歴史物語」。ただいま、「鉄道のものがたり」を連載しています。

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2017.11.15
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     朝鮮通信使と高柴デコ屋敷の張子人形

 日本では平安時代の中期以降、女性の救済を説く法華経の普及により、普賢菩薩が主に貴婦人たちからの信仰を集めました。その普賢菩薩は、蓮華座を乗せた六牙の白象に結跏趺坐(瞑想する際の座法)して合掌する姿で描かれるのが一般的です。つまりすでにこの頃から、象の存在が知られていたことになります。記録によると、応永十五年(1408)に最初の象が日本に来ています。このこともあってか、室町時代以降になると、社寺建築などで、柱の外側に突出した部分に象などにかたどった彫刻などが見られるようになります。ところで、この生きた象が来る前に、象牙のほうが先に輸入されていたので、はじめは“ゾウ”とは呼ばず、“キサ”と言われました。キサとは木目(もくめ)のことで、象牙には木目のような模様があるので、キサの名で呼んでいたと言われます。

 郡山市西田町高柴のデコ屋敷に伝わる、古くからの和風の張り子人形の中に、『唐子(からこ)』や『象乗り唐子』などの古い木型で作られた人形があります。私はこの『唐子』という名称から、古代中国の『唐』という国をイメージしていました。ところがある時、知人が、「この『象乗り唐子』はおかしい。象の大きさに対して人物が大き過ぎる。これを作った人は、本物を見ていないのではないか」と言い出したのです。『象乗り唐子』について私は、「これを作った人形師は、象を見ていたとは思う。ただし人物を強調するためにか、もしくは芸術性を強調するために、デフォルメを加えたのではないか。しかも『象乗り唐子』の人形をはじめとして、この他の唐関係の人形の着物のガラともなれば、実際には見ないで、話だけ聞いて画くのは、とても無理だ」と思えるのです。デコ屋敷にはこの他にも、唐人姿、筥をもつ若聚、筥をもつ女など、唐関係のものらしい古い人形が残されています。しかもそれら人形の着物のガラが、どう見ても日本的ではないのです。

 こうなれば、何らかの証拠が必要です。まず年代ですが、もともと高柴のデコ屋敷では、今から約350年前にはじまったと伝えられているようですから、1650年頃になるのではないかと思われます。この時期になると、出雲の阿国が創始した「かぶき踊り」が人気を博するようになり、それをまねた遊女や女性芸人の一座が次々と現れました。これらを「女歌舞伎」といい、京だけではなく、江戸やその他の地方でも興行され流行しました。しかし「女歌舞伎」は風俗を乱すという理由で、寛永六年(1629)前後から禁止令が出され、次第にその姿を消していきました。この「女歌舞伎」の禁止により、前髪のある成人前の少年が演じる「若衆歌舞伎」に人気が集まりました。これは少年の美貌を売物としたもので、エロティックな歌詞による踊りなどを見せていたようです。しかしこれもまた風俗を乱すという理由で、承応元年(1652)に禁止令が出されました。そしてその直後に現れたのが野郎歌舞伎です。これは男性だけで演じられるもので、現代の歌舞伎に連なるものとされています。デコ屋敷では、この時期に人形を作り始めたとしていますが、相次ぐ歌舞伎などへの締め付けを嫌って逃れ、この地で、人形という形で生き残ったとも考えられます。

 高柴の張子人形は、江戸時代に三春藩領だった高柴村(現在の郡山市西田町高柴)で作られはじめました。しかし一説に、三春藩7代の秋田倩季(よしすえ)(宝暦元・1751年~文化十・1813年)が江戸から人形師を招聘し、高柴にデコ屋敷を作って保護したとも伝えられています。しかしそうであるとすれば、デコ屋敷がいう1650年頃と秋田倩季の時代は、100年以上の差がつきます。この年代の差についての確証は、見つかっておりません。ところで、『象乗り唐子』の話に戻ります。

 寛永二十年(1645)、田村氏の次の三春城主であった松下長綱が、二本松城主の加藤明利とともに来日した朝鮮通信使の饗応を命じられています。この役どころは大変光栄なことであるとされていましたが、それにかかる費用の全額は、担当藩持ちでした。三春藩としても大きな出費であったと思われます。このことを知ったのは、二本松領守屋村、現在の三穂田町下守屋に残されていた古文書からです。そこには朝鮮通信使接待の費用確保のために、百姓たちに特別の献金を求める文書が残されていたのです。すると当然、二本松領内の守屋村のみが負担させられるわけがありませんから、その他の村でも要求されたものと思われます。またこのようなことは、三春藩でもあったものと思われます。

 徳川幕府は、派遣されて来る朝鮮通信使の行列を各藩に命じて警備させ、宿泊などでの饗応をさせるのが例となっていました。このことについて三春町史には、『藩主・秋田安房守盛季が明暦元(1655)年八月の徳川家綱襲封祝賀の際、水戸、会津、前橋、小浜藩などとともに第6回朝鮮通信使の三島〜江戸間の往復警備を命ぜられ、さらに彼らを参観し拝謁した』という記録が残されています。これは、デコ屋敷が成立したのではないか、とされる1650年頃に近いのです。この時、秋田盛季は、遠江国舞坂(静岡県浜松市西区舞阪町)まで、三春藩士の大網源之進らを派遣しており、盛季自身も、朝鮮人の曲馬の上覧に陪席しています。

 三春町史によりますと、明暦元年(1655)の第6回目の朝鮮通信使が徳川家綱襲封祝賀に来た時、『二十一日、秋田安房守盛季、参観す。韓使往還道中。鞍馬皆具を出し護送すべき旨を仰出さる。(略)来時三島より府迄。帰時府より三島迄は水戸中納言頼房卿。保科肥後守正之。酒井雅楽頭忠清(前橋)。酒井讃岐守忠勝(小浜)。松平伊豆守信綱(忍)。安部豊後守忠秋(壬生)。松平下総守忠弘(姫路)。本多能登守忠義(白河)。真田伊豆守信之(松代)。松平大和守直矩(村上)。堀田上野守正信(佐倉)。安部備中守定高(岩槻)。松平淡路守利次。安藤右京進重長。松平出雲守乗久。井上河内守正利(横須賀)。鳥居主膳忠春(信濃高遠)。秋田安房守盛季(三春)。朽木民部少輔稙綱(奏者番)に課せらる。物頭市川九左衞門勤ル』とあり、また、第9回となる享保四(1719)年の朝鮮通信使については、徳川吉宗襲封祝賀の際に、『秋田頼季、朝鮮通信使来日につき遠江国舞坂まで大網源之進らを遣わす。秋田頼季、朝鮮人曲馬上覧の節、田安御門番非番ニ候共、右之節は主水正相勤候様可仕旨被仰付候』とあります。

 正徳元年(1711)の第8回朝鮮通信使の時には、二本松藩と三春藩もこれを警備接待しています。三春の儒学者平野金華(元禄元・1688年〜享保十七・1732年)が二十二歳のとき、この朝鮮通信使の接待役を命じられており、通信使と詩文の応酬をしております(HP御酒之寝言屋家頁(ごしゅのねごとやホームページ))。金華は江戸に出て医を学んでいましたがやがて儒学者を志ざし、荻生徂徠に師事して儒学を収めました。その後三河刈谷藩、現在の愛知県刈谷市城町に仕官しましたが、晩年は郡山市田村町にあった守山藩に仕えています。第8回の朝鮮通信使の一行は475人であったといいます。この人数もさることながら、この時の通信使は将軍に献上するために象を連れてきたのです。ベトナム生まれのこの象は、中国人の商人が献上したものでした。箱根では新しく象小屋を建て、象の好物の笹や野菜などを準備して象を迎えています。その後この一行は、小田原、平塚、保土ヶ谷、神奈川、川崎で宿泊して江戸に到着することになります。三春藩はこの神奈川宿から江戸までの区間を担当しました。この日本では見たことのない珍獣を引いての行列は、否が応でも市井の注目を集めました。一般民衆が押し掛けるように集まり、沿道は大混雑であったと言われます。

 また別の記述には、『享保十三年(1728)、ベトナム国王から時の将軍吉宗のところに象が献上されてきました。さらにその後の天正三年(1575)と慶長元年(1596)にも、やって来ているのです。ただ1408年と1575年の象については、1650年以前のことになりますから、1728年では遅すぎます。ですからデコ屋敷にある唐関係の人形とは、関係がないと思われます。しかし1655年に来た象については、どうでしょうか。

 この象の来た頃を年代的に見ると、デコ屋敷の本家恵比須屋の先祖に元右衞門か権六という方がおりますので、私はこの二人か、もしくはどちらかが象を見た、と想像しています。藩主が朝鮮通信使の応接を賜わったことを知った彼らが江戸へ行き、一般町人の混雑の中で見ていたとも考えられます。この人形のデフォルメ説の傍証ともなり得る人形が、朝鮮通信使が通った福岡県福津市津屋崎に残されています。この人形は、三春人形とは逆に人より象が小さいのです。津屋崎の人形師は、確かに実物を見ていた筈と思われるのですが、それでもこのような人形に仕上げているのです。参考までに、次のHPをご覧になってください。

http://blog.goo.ne.jp/magpie03/e/5e92b1a001fcff2b44d5e4f11c9ba052

 また唐子人形以外にも、『岡山県邑久郡牛窓町(おくぐん・うしまどちょう)で毎年十月第四日曜日に素戔嗚神社の秋祭りに奉納される舞楽風の踊りに、『唐子踊り』と呼ばれる踊りがあります。これは朝鮮李朝期の衣装である唐装束をまとった幼い子ども二人により踊られるものです。カンコという小太鼓、横笛、それと今となっては意味のわからない囃子に合わせて、踊るものです。十月の牛窓町紺浦(こんのうら)の氏神である素戔嗚神社の祭礼の折、地区内の4箇所で奉納されています。文献などから少なくとも江戸時代末には踊られていたことが分かっていますが、その最初は分かりません。寛永十三年(1636)以後、朝鮮通信使の一行は、毎回牛窓港に寄港ないし停泊していましたから、この踊りは、おそらく朝鮮から伝承し、稚児舞となったものと考えられています。

 この他に、現在も伝承されている朝鮮通信使伝来とされる芸能は、この牛窓町の唐子踊りと鈴鹿市東玉垣町の唐人踊りがあります。しかし最近、地元の研究者などから、踊りのしぐさや衣装から判断して、愛知県豊川市に残る笹踊りが、朝鮮通信使の由来ではないかとの主張もありますが、まだ広く認められてはいません。また牛窓町の唐子踊りは、「今年(こんねん)初めて日本に渡り、日本の帝(みかど)は通りません。こころ、よかん、こころ...」という不思議な口上で始まるそうです。異国風の衣装、特異な舞、そして謎の口上。それを解く鍵が、「唐子踊り」という名です。唐子は韓子に通じ、朝鮮の子となるからです。この他にも、東京、金沢、名古屋、川越、土浦、和歌山、鳥取、二宮などで唐人踊という名称の芸能があったということが分かってきています。

 一九八七年十月十八日付の朝日新聞の『祭りの周辺』、『唐子踊り』に、次の記述がありました。『(唐子踊りの)写真を見ると、三春人形のそれとそっくりであり、この人形の題名を「唐子踊り」とすることに全く問題はない。牛窓の「唐子踊り」は、上述のように、その由来はほぼ明らかであるが、どのようにしてこれが三春人形に取り入れられたかは明らかでなく、土人形など他の人形にも類例を見ないようである。絵巻物にでも描かれたものを模したものであろうか。今後の解明を待つ他はないが、いずれにせよ、現在も伝承されている古くからの踊りがそのまま三春人形の題材となっていることはきわめて興味深い。三春人形の世界はまことに奥行きが深く、当時の文化全般を広く反映していたといっても過言ではなかろう。』・・・実に意味深い記述です。

 明治に入ってから、高柴のデコ屋敷の人形に使用される染料に制限が加えられたりしたことなどにより衰えはじめ、ダルマなどがわずかに制作されるまでに縮小されてしまいました。これを復興させたのが、大阪のコレクターである本出保治郎氏であり、当時田村中学の教諭であった高久田修二氏でした。須賀川出身の高久田修司氏は安積中学を卒業後、東京商科大学を中退、第二高等学校理科乙類に入学したのですがこれも中退、改めて東北帝大法文学部国文学科を卒業したのち三春の田村中学の教師として赴任した方です。修二氏は新制田村高校になるまで奉職した異例の経歴の持ち主です。修二氏は教師として三春に長く住むうちに、気息奄々としていた高柴のデコ屋敷の張り子人形や三春駒を掘り起こしたばかりではなく、画僧 雪村周継についても深く研究をされていました。ちなみに、晩年の雪村が住んだ雪村庵が三春町に隣接した西田町大田字雪村にありますが、県指定重要有形文化財に指定されていたそこの本尊の木造大日如来坐像が、昭和五十五年に盗難に遭ってしまいました。残念ながら、いまだ戻っておりません。

 この本出保治郎氏や高久田修二氏に力づけられた高柴の人々と故小沢太郎氏が、この復興に力を注いだのです。現在では色鮮やかな張り子人形が、多種類制作されており、デコ屋敷では、これらの制作工程を見ることができます。デコ屋敷に残されているこの他の多くの張り子人形の古い木型にも、解明されていない古い歴史があるのではないでしょうか。私は田村高校七回生ですが、三春の歴史と文化こよなく愛したこの先生を、私たち生徒らは、「ガラさん」と呼んで慕っていたことを付け加えておきます。

 ところでこの原稿をチェックしていた10月31日、後世に残す価値のある歴史的資料を対象にしたユネスコ(国連教育科学文化機関)の「世界の記憶」(旧・記憶遺産)に、朝鮮通信使と古代石碑群『上野三碑(こうずけさんぴ)』(群馬県)が登録されたことをTVニュースで知りました。日本時間、31日未明に発表されたそうです。もちろん私の切り口とは異なりますが、よかったと思っています。



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最終更新日  2017.11.15 10:33:26
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