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May 6, 2014
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全45件 (45件中 1-10件目) 三春戊辰戦争始末記
カテゴリ:三春戊辰戦争始末記
参 考 文 献
一八八一 謹上諫死奉呈文 永沼運暁 松本登氏所蔵 一八八五 熊田嘉膳履歴書 松本登氏所蔵 不 詳 飛田昭規履歴 飛田昭蔭氏所蔵 一九〇九 三春小学校同窓会報告書 第七号 松本登氏所蔵 一九一一 仙台戊辰史 藤原相之助 荒井活版製造所 一九二七 二本松藩史 戸城伝七郎 二本松藩史刊行会 一九三四 二本松藩士人名事典(全) 古今堂書店古典部 〃 水戸烈公の国防と反射炉 松本登氏所蔵 一九三八 大島高任行実 松本登氏所蔵 一九四一 戊辰白河口戦争記 佐久間律堂 堀川古楓堂 一九五八 田村の小史 影山常次 石橋印刷所 一九六六 会津若松史 会津若松市 凸版印刷 〃 磐城百年史 荒川禎三 いわき市 〃 幕末の思想家 中沢護人 筑摩書房 一九六八 戊辰役戦史 大山柏 時事通信社 一九六九 郡山市史 郡山市 大日本印刷 一九七〇 福島県史 福島県 小浜印刷 一九七二 維新変革における在村的諸潮流 鹿野政直 三一書房 高木俊輔 一九七三 郡山戦災史 郡山戦災を記録する会 不二印刷 〃 二本松藩史 二本松藩史刊行会 歴史図書社 一九七五 いわき市史 いわき市 平活版所 一九七七 郷土史事典 佐藤次男 昌平社 一九七八 城下町に生きた人々 二本松市商店街連合会 松屋印刷所 〃 三春の歴史と文化財 三春町教育委員会 〃 鳥羽伏見の戦いとその史跡 小林専一 一九七九 茨城県幕末史年表 茨城県史編纂幕末維新史部会 理想社印刷所 一九八〇 会津戦争のすべて 会津史談会 一九八二 二本松市史 二本松市 明和印刷 〃 棚倉町史 棚倉町 歴史春秋出版 一九八三 歴史(みちのく二本松落城)榊山潤 叢文社 〃 鏡石町史 鏡石町 第一法規出版 一九八四 三春町史 三春町 凸版印刷 一九八五 理由なき奥羽越戦争 渡辺春也 シナノ印刷 〃 都路村史 都路村 ぎょうせい 一九八六 秋田県の歴史 今村義孝 山川出版社 〃 宮城県の歴史 高橋富雄 山川出版社 〃 船引町史 船引町 山川印刷所 〃 三百藩主人名事典(一)藩主人名事典編纂委員会 大日本印刷 〃 戊辰落日 綱淵謙錠 文芸春秋社 一九八七 植田町史 雫石太郎 第二巧版印刷 一九八八 三百藩家臣人名事典(二) 家臣人名事典編纂委員会 大日本印刷 〃 戊辰東北戦争 坂本守正 新人物往来社 〃 小野町史 小野町 大盛堂印刷所 〃 藩史大事典 雄山閣 一九八九 江戸城総攻め 日本放送出版協会 〃 ・六月 歴史と旅(徳川三百藩大崩壊) 秋田書店 一九九〇 幕末維新人名事典 奈良本辰也 新人物往来社 〃 滝根町史 滝根町 歴史春秋出版 〃 白虎隊と榎本艦隊 日本放送出版協会 〃 ・六月 歴史読本(勤王・佐幕、幕末諸藩の運命) 新人物往来社 一九九一 三春城 総合調査報告書 三春町教育委員会 一九九二 天狗党が往く 光武敏郎 秋田書店 〃 霊山町史 霊山町 大盛堂印刷所 一九九五 反射炉 金子功 法政大学出版局 一九九六 明治維新の再発見 毛利敏彦 吉川弘文館 一九九七・十一月 天皇の伝説 メデイアワークス 一九九八 二本松少年隊 星亮一 成美堂出版 〃 三春滝桜 長尾まり子 集賛社 〃 戊辰戦争全史 菊池明 新人物往来社 伊東武郎 〃 ・十二月 歴史読本(戊辰大戦争) 新人物往来社 一九九九 浅川町史 浅川町 日進堂印刷所 〃 近代三春の夜明け 三春歴史民族資料館 平電子印刷所 二〇〇〇 本宮町史 本宮町 平電子印刷所 二〇〇一 大越町史 大越町 平電子印刷所 〃 歴史春秋 五四号 会津史談会編 歴史春秋社 〃 日本の戦争 田原総一朗 小学館 〃 明治天皇 ドナルド・キーン 新潮社
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Apr 15, 2008 08:43:25 PM
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Feb 6, 2008
カテゴリ:三春戊辰戦争始末記
I 三春狐
*会津猪 仙台狢(むじな) 安部(棚倉藩主)の兎はよく逃げた 会津猪 米沢狸 仙台兎で 踊り出す 会津猪 米沢猿で 新発田狐に 騙された 会津桑名の腰抜け侍 二羽(二本松藩主・丹羽氏)の兎はぴょん とはねて 三春狐に騙された 会津猪 仙台狢 三春狐に騙された 二本松まるで 了見違い棒 (違い棒は丹羽氏の家紋) これらの動物について、三省堂の大辞林には次のように記載されている。 猪:「思慮を欠き向こう見ずにがむしゃらに突進する」 狢:アナグマの異名。「毛色がアナグマに似ているので」タヌキの こと。 兎(兵法):実際の役には立たない策略。 狸:(比喩的に)表面はとぼけているが、裏では策略をめぐらす悪 賢い人のこと。 猿:小利口な者をののしっていう語「・・真似」「・・知恵」 狐:狐は人をだましたりたぶらかしたりすると俗にいうことから、 悪賢い人、他人をだます人。 解説・動物になぞらえられたこれらの歌は、内容から言っても同 盟側が自嘲的に歌ったとは考えにくい。新政府側が敗れた 奥羽越列藩同盟諸藩を揶揄して作ったものであろう。それ にもかかわらず「三春狐」のみが悪くそして長く伝えられ たのは、三春藩の周辺のすべてが奥羽越列藩同盟であった ことから村八分的な立場に追い込まれ、なおかつ敗戦の憂 さを、この戯れ歌に託されたからではあるまいか。そして より小さな守山藩は、大水戸藩を後ろ盾にしていたのであ る。それらを考えれば、三春藩は同盟側諸藩が受けた侮蔑 を相殺するのに、丁度よい地域と規模でったということか も知れない。 J 二本松藩の苦衷 *二本松藩は仙台藩に疑われながら、何のために戦ったのか。 仙台戊辰史 六〇七ページ (仙台藩の)増田曰ク 二本松ハ大垣ト婚ス 故ニ毎ニ密謀ヲ通ズ 丹羽丹波ノ敗ノ如キ最モ怪シムベシ 解説・仙台藩は二本松藩をも疑い、新政府軍とともに会津を攻撃 すべきであったとも考えていた。 仙台戊辰史 五九六ページ 矢吹ニ陣セル(仙台藩)伊達将監ノ軍ハ六月廿三日ヲ以テ軍議ヲ開キシニ(中略)元来本藩ハ本来ヲ誤テリ(中略)即チ官兵ト議ヲ合シテ会津ヲ挟撃スルコト第一ノ策ナリ 本宮町史 七三〇~七三一ページ 文久三(一八六三)年将軍家茂の上洛にともない、二本松藩は(中略)家老江口三郎右衛門が、番頭二名と兵一〇〇〇余を率いて江戸警衛に出役した。この任務は五月に解除されたが八月には京都警衛を命ぜられ、(中略)御所の建春門の警衛の任に就いた。藩は一〇〇日の勤務を終え、翌一八六四年二月末二本松に帰着した。(中略)京都警衛は慶応元(一八六五)年にも命ぜられた。 二本松市史 八一七~八一八ページ 江戸湾警備や京都警衛等、江戸・京都政権動向の近辺に身を置き見聞し時流の赴く所を知りながら世襲門閥制の重臣層と公儀第一とする藩祖以来の伝統による時代認識、脱藩して尊皇討幕運動に走る気力のある藩士もなく、このような藩の体制と山鹿流軍学とで戊辰の戦争がなされたのである。二本松藩の戊辰戦争ほど悲惨を極めたものはない。 藩財政は枯渇し領内農商の献金を当てにして周囲の情勢に処することもできず、止むなく戦争に加わり元亀・天正の藩祖以来の兵器と戦術とで西洋式兵器と訓練を受けた西軍と戦い、戦いば必ず負けて敗走を繰り返す、余りにも勝利なき無益な戦いを続けた。 二本松藩は戊辰の戦乱の主導権も握られないままに奥羽越同盟の最前線兵火の災いを最も多く被り、領内を焦土と化し領民を苦難の途に投じたのみであったことと、犠牲の大きさを銘記しなければならない。 解説・二本松藩は、江戸や京都警衛を通じて会津藩との関係が密 接になったのではあるまいか。また預かり地であった白河 城の守備において、各藩の援助協力の義理を受け、それぞ れの思惑に翻弄されてこの戦いに巻き込まれた。二本松藩 の苦衷が、隙間見える。 K 三春戊辰戦争の総括 戊辰戦争における最大の悲劇は、奥羽越列藩同盟が攻守同盟に変質し、明治天皇に抵抗する賊軍・朝敵と目されたことにある。しかしこの戦いは、歴史として総括されていない。 明治天皇 三〇ページ 孝明天皇が、外国人(或いは、もっと厳密には西洋人)の出現を神々の国に対する許しがたい侮辱と考えていたことは間違いない。 明治天皇 二四九ページ 北における政府軍の数々の勝利は、常に事態が収拾されたという保証を伴って天皇に報告された。或いはこの時期、天皇の関心はこれら軍事的問題から逸らされていたかもしれない。間近に迫る即位と江戸下向の旅、いずれも遠隔地での戦闘より直に心に響く出来事が控えていた。しかし明治天皇が紛れもなく気づいていたように、幕府復活の脅威が永遠に葬られるためにも、相次ぐ反乱はことごとく鎮圧されねばならなかった。 解説・この明治天皇二四九ページの記述こそが、戊辰戦争に於け る新政府軍の本音を表しているのではなかろうか。そう考 えると、福島で暗殺された世良修蔵が持いた密書「奥羽皆 敵と見て進軍の大策」と本質的に合う。それなのにこのよ うな朝廷での大きなうねりを知らずに、三春藩は御稜威と いう大いなる幻想を追っていた。その中で辛うじて領内の 安定を確保した三春藩には、二足の草鞋(三春町史 第三 巻五ページ)をはけるほどの積極的な力量などある筈もな く、双方の合間に沈んでいった。これを意識することこそ が、世上言われている「三春狐」「裏切り」から具体的に 脱却することになるのであろう。 L 同盟側・新政府側一覧 *奥羽越に於ける、同盟側と新政府側の一覧表。 歴史読本(勤王・佐幕、幕末諸藩の運命一六〇ページより) (同盟側) (新政府側) 仙台藩 六二・五万石 秋田藩 二〇・五八万石 会津藩 二八 高田藩 十五 南部藩 二十 新発田藩 十 米沢藩 十八 弘前藩 九・四 庄内藩 十六・七 新庄藩 六・八二 二本松藩 十 三春藩 五 棚倉藩 十 松前藩 二 長岡藩 七・四 守山藩 二 中村藩 六 本庄藩 二 山形藩 五 秋田新田藩 二 村上藩 五 与板藩 二 一関藩 三 黒石藩 一 平 藩 三 下手渡藩 一 福島藩 三 椎谷藩 一 上山藩 三 糸魚川藩 一 村松藩 三 矢島藩 〇・八 松山藩 二・五 八戸藩 二 泉 藩 二 亀田藩 二 天童藩 二 湯長谷藩 一・五 七戸藩 一・一 三根山藩 一・一 米沢新田藩 一 長瀞藩 一 黒川藩 一 三日市藩 一 解説・この一覧表に基づいて、奥羽越状況図を作成した。なお状 況図中、黒点は同盟側、白丸は新政府側、▲は中立を表し ている。ただしこの整理は、戦争終了の時点である。また 白丸は、一ミリで一万石を表現した。
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Apr 15, 2008 08:45:30 PM
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Feb 5, 2008
カテゴリ:三春戊辰戦争始末記
H 小野新町の戦い *笠間藩領・小野新町において、味方である二本松藩兵を三春藩兵が背攻したとされる口伝。
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Feb 5, 2008 10:48:35 PM
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Feb 4, 2008
カテゴリ:三春戊辰戦争始末記
F 二本松勢、舞鶴城攻撃の動き 二本松城下戦の直前に、三春藩の使者四名が、三春街道付近で斬殺された有名な事件がある。彼らは、帰順の勧告を行うため、七月二十七日に二本松に来て、その夜は松岡の茗荷屋という旅篭に旅装を解いた。 別に、大山巳三郎という三春藩士も、ただ一人で松岡の三春屋に泊まった。この時、三春藩はすでに降伏しているので、二本松では知っているし、彼らも追い駈け使者の報告を受けている。 二十七日の夜は、世相不安の由をもって、三春屋と茗荷屋の両旅籠は、藩命によって松岡、若宮の町人が警備に当たっていたが、藩の真の意図はどうであったかはわからないが、三春の裏切りを知った町人は、軟禁と解したらしかった。 藩は三春の使者に二十八日早々に帰国の途につくよう要請し四名の者は早々に出立した。ところが四名とも、出立直後に三春屋の裏手の桑畑で殺害されてしまった。 田村小史には、 『七月二十八日二本松に於いて、仙台よりの帰途に在りし不破関蔵、渡辺喜右衛門及び大山巳三郎は同藩士の為同地に於いて斬せらる』 と書いてある。彼らの最後を見ていた町人{本町・松坂庄八談}は、 「三春の使者の三人は、掌を合わせて、命ばかりはと嘆願した」と語り、家中の人(士族)は、 「立派に割腹している。町人は割腹する姿を遠くから見ていたので、見誤ったのだろう」と弁護している。 【解説】三春藩は、棚倉から蓬田を進んできた新政府軍と平から進んできた新政府軍、それに加えて二本松藩攻略に備えた新政府軍は、7月20日、すでに三春藩の北12キロメートルにある小浜を長州藩兵3小隊で占拠していた。三春藩は、北、東、南と包囲された情況にあった。三春町史によれば、7月26日の昼頃、平からの兵が三春に到達、三春藩はこれに帰順を願っている。これに対して、ウィキペディア『二本松の戦い』には、大山柏の見解として、『三春藩が用いた策略は悪辣ではあるが、外交のマキャベリズムとして妥当なものである』と載せられている。また三春藩の帰順願に対しての返答のないままその日の夕方、新政府軍は二本松領に侵攻、とある。しかしこれには戦いとなった記述がないので、小浜の長州藩兵と合流したものと推測できる。 7月27日、参謀局軍務局より秋田主税・家老の荒木国之助・小野寺舎人が呼び出され、嘆願書を聞き届けるとの返答があった。その上でここの記述にある27日の二本松藩の動きであるが、三春藩からの帰順の使者が二本松に入ったのは、将にこの日であった。 ここに時間的には問題が残るとは思われるが、それでも使者を斬殺してしまうのは、どういうものであろうか。また『城下町に生きた人々』に『三春の裏切りを知った町人』とあるが、果たしてこの時点で、情報の少ない町人が、『裏切り』と判断し得たであろうか。この記事を載せる時点での加筆とは考えられないだろうか。 2 二本松市史 第六巻 七三九ページ 三春家より本町辺へたんさくの御方三春ニ而ハよほと大しんニ而たんさく方相分候利口なる御士方弐三人参りおり候処此砌ハ二本松ニ而も農兵町兵槍に鉄炮よとけいこさい中ニ付いかゝの次第ニ候や町兵三人斗にて壱人の御士を槍にてつき留其後首打取候様子ニ御座候残の御士方ハほうほうにげくきニ御座候 5 歴史 みちのく二本松落城 二一ページ ブログランキングです。
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Oct 19, 2014 09:45:31 AM
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Feb 3, 2008
カテゴリ:三春戊辰戦争始末記
C 仙台藩の対応
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Feb 5, 2008 12:00:48 AM
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Feb 2, 2008
カテゴリ:三春戊辰戦争始末記
資 料 と 解 説
付録として、この「資料と解説」を載せた。 特に三春藩が、「裏切り者」「三春狐」と謗られる原因になったと思われるのが「浅川の戦い」であり「小野新町の戦い」であった。しかしその間にも、三春藩が裏切っていないと思われる傍証に「二本松藩へ恭順の使者を派遣」したことがある。 小説という形を採りながら無粋な「付録」を書き加えた理由は、単に筆者のフィクションのみである、と思われるのを避けたかったことと、読者がこの本に記載されている文献を参考としてもう一度探し出す煩雑さを避けることにあった。 ご了承を頂きたいと思います。 A 年 表(抄) 『』は筆者加入 *明治四十一年秋、皇太子殿下の東北行啓に際しての報告書 慶応三年十月二四日 徳川慶喜が征夷大将軍を辞し、全国各藩に朝廷に恭順な るべきと布告。三春藩は直ちに之を藩士に達し、藩主後 見の秋田主税は、各重役を会して勤皇の藩議を決した。 これによって江戸詰役小野寺市太夫を上洛させ、次いで 秋田廣記を藩主御名代として急行上洛させ、同年十二月 二十六日京師に達し、三春藩の所信を表明する。 『慶応四年一月 一日 幕府より、西国討伐令が発せられる』 『一月十六日 朝廷より、徳川慶喜追討応援令』 一月二二日 朝廷より征東の朝命下るや、三春藩は勤皇の初志貫徹の ため、秋田右近(浪岡)を江戸詰として出府させる。 (資料B) 『二月十七日 仙台藩に錦旗二旒が下賜された』 四月十一日 江戸無血開城。 在府の勤皇の各藩は橋本、柳原の両参課に相携えて其の 命を乞い、其の分に及ばずの返答に、更に本国の急に赴 くに先だって、秋田右近は大総督有栖川宮を芝山内真乗 院に伺候し、池田参謀に面接して藩の意志を通じ、同月 二十日一同江戸を発して帰国するこれより先、朝廷は会 津、庄内両藩の追討のため、三月下旬鎮撫使の一行を仙 台に入らせ、着々征東の策を講じており、会津藩の赦免 嘆願書を提出したが容れられず。(資料B) 閏四月二二日『前日の夜、世良参謀が福島で斬殺される。この事件を契 機として新政府と対峙する奥羽列藩同盟が結ばれた』こ の同盟は三春藩の本意でなく、事の真相を報告するため、 山地純之祐及ぴ熊田嘉膳の二人を京都に派遣した。 (資料B) 『閏四月二四日 各藩の京都御留守居に「徴兵可能の人数を守護屋敷に報 告し、七月中に人数を差し出すよう」との指示があった』 『五月 一日 越後の六藩が加盟、奥羽越列藩同盟が成立した』 『五月二六日 同盟軍は、白河城奪還作戦を決行。三春藩も参加』 五月三一日 熊田嘉膳ら、京都にて秋田廣記に会し、翌日、参議穴戸 五唖、副総裁岩倉具視に謁して藩の本旨を明らかにした。 岩倉は、三春藩の苦裏を諒とし、勤皇の大義を固守する を歎賞された。 (資料B) 六月 三日 「叡感勅書」を賜る。 『京都で叡感勅書を賜ったものの使者が三春へ帰着する以 前であったため、つまり認められるかどうかが分からな かった。それらもあって、同盟軍として白河、棚倉へ出 兵せざるを得なかった。しかしこの行動と叡感勅書を得 たことが矛盾する結果となった』 『六月十五日 大政と改元した東部皇帝は、仙台に、北部政府を樹立し た』 七月 二日 三春兵が、白河の攻防戦に同盟軍側として参加していた ため、在京の藩士らに禁足令が出された。 『この頃、秋田・秋田新田・弘前・黒石・本庄・矢島・亀 田・新庄・天童藩など各藩が、奥羽列藩同盟を離脱』 『七月 六日 河野広中ら、独自の嘆願行動を起こす』 『七月十五日 河野広中は、三春藩主脳をともない、棚倉へ』 七月十六日 同盟軍、棚倉の官軍を攻めんとして浅川で敗れ、兵を須 賀川、郡山に退かせた。 (資料E) この頃三春より、二本松藩へ恭順勧誘の使者が派遣され た。 (資料G) 七月二四日 この時、三春藩の行動に反盟の形跡ありとした二本松藩 は、福島に在った同盟軍軍事局に急報して其の命令を待 った。軍事局はその真相を探知するため、之を福島藩に 命じて内偵をはじめた。又二本松藩は、兵を三春城下に 進めて荒町馬頭観音山に屯させ、将に三春の町を一炬に せんとして窺った。このことに対して、老臣細川可柳が 自ら出て折衝の任に当り、この難局を解決した。 (資料F) 『七月二六日 柴原口より、新政府軍先発隊入城』 (資料H) 七月二七日 三春無血入城。 七月二九日 二本松落城。 (資料J) 解説・この年表は、明治四十一年秋、皇太子殿下の東北行啓に際し、旧三春 藩の勤王事跡を一覧に供するため記述されたもので、薄田精一執筆、 県視学志賀兼四郎、郡視学宇田徹事、郡書記秋田東次郎、同佐藤亥四 郎らの周到な調査によるとされている。 (三春・松本氏所蔵による年表より抽出) B 三春藩勤王の対応 *三春藩の動きは、次のようなものであった。 明治四十一年秋、皇太子殿下の東北行啓に際しての報告書 (前掲A年表)より 慶応三年十月二四日、徳川慶喜、征夷大将軍を辞し、全国各藩に朝廷に恭順なるべきと布告。朝廷より、列藩主召集の命が下る。三春藩は、直ちに之を藩士に達し、藩主後見の秋田主税は、各重役と会して勤皇の藩議を決した。 同 左 慶応四年一月二二日、三春藩は勤皇の初志貫徹のため、秋田右近(浪岡)を江戸詰として出府させる。 同 左 四月十一日 江戸城引き渡し終結。在府の勤皇の各藩は橋本、柳原の両参課に相携えて其の命を乞い、其の分に及ばずの返答に、更に本国の急に赴くに先だって、秋田右近は大総督有栖川宮を芝山内真乗院に伺候し、池田参謀に面接して藩の意志を通じた。 三春町史 第二巻 七五四ページ (閏四月)二十二日に御用人秋田右近を出府させた。「遂に征東の師を起こさるるに当りて、各藩其向背に関し、大に物議を生じたりしも、我藩は専心飽くまで初志を貫徹せんと欲し、殊に江戸における相応の労役に当らん為、急遽出府せしめぬ」 解説・三春藩は、慶応三年十一月初旬に勤王の藩議を決定し、同年十二月 二十六日秋田廣記を藩主名代として急行上洛させ、参与屋敷に三春 藩の所信を表明した。この時期、三春以外にも表明した藩は多いと 思われるが、それについては調べていない。四月十一日、秋田右近 は大総督・有栖川宮に伺候して、池田参謀に藩の意志を伝達した。 閏四月二十二日、奥羽越列藩同盟が結成され参加するが、これは藩 の本意ではないとして山地純之助、熊田嘉膳が京都に派遣された。
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Feb 2, 2008 11:00:04 AM
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Feb 1, 2008
カテゴリ:三春戊辰戦争始末記
お わ り に
ものを書くことで歴史を辿ってみると、今までに理解していたこととは逆のことに突き当たることや、新しいことに遭遇することは決して珍しいことではない。例えば私は、こんなことを経験した。 私の会社は家庭用品の卸売業を営んでいた。それもあって、二本松市のお得意先の小売店の結婚式に招かれることが多かった。そこでたまたま隣に座った二本松商工会議所の方と雑談をしていたが、私が三春出身であることを知ると、「二本松藩は馬鹿だった。もし三春藩と一緒に帰順していたら、あんなひどいことにならなかったろうに・・・」と言われた。 ──二本松なのにそう考える人もいるんだ。 そう思うと私は返事に詰まり、黙っていた。 またこれに関連することで、神山潤氏著 「歴史│みちのく二本松落城│」の「田舎武士の目」に、次のような記述がある。 [いまはどうか知らないが、(第二次)大戦までは、二本松の人は三春の人との縁組みを避けた。三春の者は嘘つきで、信用できないという言葉を、私が二本松に疎開していたころにもよく聞いた。会津の人ならすぐ信用するが、三春の人は信用しないのだ。その当時の怨みが、そんな風に長く尾をひき消えずにいるということも、辺鄙な土地に住む人間感情の微妙な点であろう。確かに二本松は、三春の裏切りによって、ひどい目に遭った] 次にもう一つ、中島欣也氏著 「裏切り│戊辰、新潟港陥落す│」の「あとがき」から引用させて頂く。 [しかし裏切りとは何なのか。戊辰戦争の新発田藩は、それに該当するものだったのか。それは、「けしからぬこと」で一刀両断できるものなのか。またそれが、けしからぬ裏切りだったとしても、それを責めることのできる人がいるのか。 非難というものは、その相手の立場に自分の身を置いてみる│とまではいかなくても、最小限相手の物差しを知り、その行動を検証したうえで、行なわれるべきものであろう。それを避けて通っていながら先入観や固定観念だけで非難が定着するのはおかしい。そう私は思うのである] ──確かに自分に都合の悪い事を誰かのせいにすると、複雑な物事でも簡単に説明できる。そのようなことから「先入観や固定観念だけで(三春への)非難が定着」したのではあるまいか。これはどうにかしなければいけない。 私はそう強く思った。 「会津猪 仙台狢 三春狐に騙された 二本松まるで了見違い棒」 戊辰戦争の後期から歌われたこの戯れ歌に、どれだけ多くの歳月、そして多くの三春の人々の心が痛めつけられたか? それが今に至るまで続き、さらに今後も歴史的事実として継承されて行くとすれば、これほど悲しいことはない。そんなことを考えているうちに、この戦いの本質と思えることが、「二〇〇一年 ドナルド・キーン著 明治天皇・上巻 二四九ページ」に記載されているのを見つけた。次に転載する。 [北(奥羽)における政府軍の数々の勝利は、常に事態が収拾されたという保証を伴って天皇に報告された。或いはこの時期、天皇の関心はこれら軍事的問題から逸らされていたかもしれない。間近に迫る即位と江戸下向の旅、いずれも遠隔地での戦闘より直に天皇の心に響く出来事が控えていた。しかし、明治天皇が紛れもなく気づいていたように、幕府復活の脅威が永遠に葬られるためにも、相次ぐ反乱はことごとく鎮圧されなければならなかった] この記述から考えられることは、戊辰戦争の現場でちょうど起こった三春狐や新発田狐という中傷が、結果として新政府本来の意図を隠蔽することになり、さらに戦いの総括をしなかった結果として「官軍・賊軍」という未了の課題を今に引きずらされた、ということなのではあるまいか。 さらに私はこれを書いているうちに、奇妙な事実に遭遇した。 慶長七(一六〇二)年、関ヶ原の戦いで徳川方に味方をしなかったとして、温暖の常陸から寒冷の秋田の地に追われた者に佐竹氏がある。そしてこのため、先祖伝来の秋田の地から押し出される形で国替えとなった氏族に三春・秋田氏、新庄・戸沢氏、本庄・六郷氏、矢島・内越氏、それと由利五人衆の仁賀保氏など奥羽の五藩がある。 この戊辰戦争の際にそれら五藩と秋田藩を含む六藩が、まるで話し合いでもしたかのように新政府の側についた。もちろん時期は一致しないが新政府側に付いたのは、これらの藩ばかりではなく都合十六藩にも及んだ。(一九九〇年 歴史読本 勤王・佐幕、幕末諸藩の運命 一六〇ページより。 なお本書二八一ページ参照)しかしその中にあっても、これら六藩の統一したような行動は、単なる偶然であったのであろうか? もっとも私としては、それ以外に考えようもないが・・・。 それにしても、慶応から明治、大正、昭和、平成と戊辰戦争後一三〇年も経った今の世に、なぜ長尾まり子氏が言うように三春はこんな風に責められ、苦しめられなければなければならないのか? なお、過日、茨城県古河市に住むわが友・山口篤二氏と裏磐梯に遊んだ。戊辰戦争の戦場の跡である母成峠に至ったとき、碑文を読んでいた彼が尋ねた。 「ここでは、西軍、東軍と言うのかね?」 奥羽越の人たちが、「賊軍」と言われることを嫌った表記ではあるが、彼には違和感があったらしい。なお古河藩は、新政府軍としてこの戦争に参加している。 「やはり、『官軍』『賊軍』の感覚かね?」 この私の逆襲に、彼は戸惑ったような表情を浮かべながら言った。 「そうはっきりではないが、それに近いものを感じていた。なぜなら東軍・西軍では関ヶ原の戦いと勘違いされそうだし、その上に東西ではどこからが西でどこからが東なのか、抽象的で分かり難い。真綿でくるんでしまうような甘さを感じさせられる」 なるほどそう言われてみると、私にも東軍・西軍という名称が全国的に認知された名称、とも思えなくなってしまった。 これらのこともあって、私はこの小説の中で「官軍と賊軍」、さらに「東軍と西軍」に変えて、あえて「新政府軍と同盟軍(北部政府軍)」の文字を使用した。あの戦争で賊軍とされた地に住む者の一人として、やはり「賊軍」という文字は使いたくなかったのである。 私は小説家でも歴史の専門家でもない。だからこの二点から追求されれば返答に窮することもあるはずである。しかしこの小説が、三春を「狐よ裏切り者よ」と責めた側にもそして責められた三春の側にも、なんらかの考慮の材料になることがあるとすれば、望外の幸せである。そして今後この仮説を覆す資料が出た場合、修正するにやぶさかではないことを付け加えさせて頂く。つまり歴史とは、そんなものかも知れないのだから・・・。 二〇〇二年十二月
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Feb 1, 2008 07:50:55 AM
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Jan 31, 2008
カテゴリ:三春戊辰戦争始末記
「トク、呉服屋へ行くぞ」
先ほどから考え事をしていた嘉膳は、枯れ葉を一面に撒き散らしたような庭に立ったまま突然声をかけた。 「えーっ、いかが致しましたか?」 驚く妻を目で制すると、外に出た。トクは慌てて夫に従った。 ──これは三春に戦争を持ち込まずに済ませられたことに対しての、自分自身へのご褒美よ。 彼はいつもの真面目な顔をしながら、そう思っていた。 呉服屋ののれんを分けて店に入ると、丁稚が、「これはこれは、熊田様・・・。いらっしゃいませ」と声をかけてきた。 帳場で帳付けをしていたらしい番頭が、覗首をする格好で嘉膳と目が合うと、奥に大きな声をかけた。 「旦那様ぁ 熊田様がお越しになられましたぁ」 ──この声を聞くと気分がいいわ。それにしても何年振りかしら。 トクはそう思った。 嘉膳が腰の大小を外し、店の上がりがまちに腰を下ろしているところへ店の主が腰を屈めて籾手をし、相好を崩しながら現れた。 「これはこれは熊田様。それに今日はまた、奥方様とご一緒とはお安くない」 そう言って座ると、小さな煙草盆を押し出した。 「うむ亭主。今日はな・・・、特別にまけてくれよ」 嘉膳も照れ笑いを隠しながら煙草盆を引き寄せた。 「それはもう、熊田様のことですから、勉強をさせて頂きます」 亭主も如才なく応じた。 店内は閑散として、客は誰も居なかった。大体このような不安な情勢が続いていたときに、着物など買いに来る客などなかったのである。亭主は、トクが番頭と反物を広げて話をしている様子を横目で見ながら、愛想を言った。 「ところで熊田様。お陰様で、三春は周辺の町々のように、戦火に焼かれたり町民も命を失ったりせずに済みました。また領内も荒らされなかったので、私どもも安心して早く元の生活に戻れました」 「む・・・。そう言われればわしも悪い気はせぬが、しかしこの頃小さな子どもまでが、『会津猪 仙台むじな 三春狐に騙された 二本松まるで 了見違い棒(違い棒は、二本松・丹羽氏の家紋)』とか、『会津・桑名の腰抜け侍 二羽(丹羽)の兎はぴょんと跳ねて 三春狐に騙された』などと言って戯れているのを見ると、心の臓を突き刺されるような思いがしてのう・・・。息苦しいわ」 嘉膳は煙草盆に、煙管からポンと火を叩き出した。 「いや、しかし熊田様。その他にも新政府の悪い奴らが言っておりますよ。『会津猪 米沢狸 仙台兎で 踊り出す』とか、『会津猪 仙台むじな 安部(棚倉藩主)の兎は よく逃げた』、『会津猪 米沢猿で 新発田(新潟県)狐に 騙された』などと、偉そうなことを言っております。まったく藩の御重役様方のお気持ちも知らず、手前勝手なものでございますな」 亭主はそう言うと精一杯の愛想笑いをした。 「むふっ・・・」 嘉膳は、思わず飲みかけの茶碗を危なく口から離した。 「なんだなんだ亭主。新発田藩も狐などと言われている戯れ唄を知っておったのか? もっとも『勝てば官軍、負ければ賊軍』とも申すからのう。新政府軍から見れば、単に三春は負けた賊軍の一員じゃ。負けたわれらは言われるがままで、何の反論も出来ぬがの? しかし新政府は、どういう方式をこの国にもたらすつもりなのか、とんと分からぬ」 そう言いながら嘉膳は、亭主の耳元に口を近づけて囁いた。 「もしこの戦いで、北部政府の奥羽越列藩同盟が勝っていれば、薩摩や長州藩は賊軍になって、明治ではなく大政の世になっていたろうの・・・?ん?」 いたずらそうな目でそう言うと身体を離し、大きな声で笑った。 亭主は驚いて、目が顔から飛び出しそうな顔をした。 それを見ながら嘉膳は、すました顔で静かに茶をすすった。 ──わしの今度の行動、何かがどこかで、どう間違えてしまったのか! これからの奥羽越の諸藩は、辛く厳しい思いを長くさせられるのであろうな・・・。三春藩は三春藩で、周囲の皆んなに「三春狐」などと揶揄されて、後世の領民たちにわだかまりを残すことになってしまったかも知れぬ。わしは子孫に対して、本当はとんでもなく相済まぬことをしてしまったのかも知れぬ。それにしてもこの平和の代償が、三春狐という負の、しかもこんなに高価なものであったとは・・・。この思いもかけぬ結果に、たじろぐような想いがする。これでよかったのであろうか? 嘉膳は、妻が番頭と反物の柄行などを話しているのを聞きながら、また煙草盆の火をつけた。いろんな思いが、嘉膳の喫煙量を増やしていた。 「熊田様。奥方様は、この柄行がお気に入られましたようで」 番頭が反物を、トクの衿元に沿わせて見せながらそう言った。 トクは、はにかんだような顔をしていた。 「おう、そうか。それがよいか・・・。亭主、それにしてくれ」 嘉膳は嘉膳で、大照れに照れていた。番頭が「あの~、これに合わせた帯は・・・」と薦めるのを無視し、煙管の雁首から煙草盆に燃えさしを叩き出して立ち上がった。 「へい。毎度ありがとうございます」 亭主は鷹揚にそう言って笑った。 嘉膳は、トクと番頭が仕立てについて話し合っているのを聞きながら、考えていた。 ──わしも三春藩の行動を秘するために、随分と饒舌でごまかしてきた。もっとも町方でも、陰ではわしのことを『嘉膳囃し』などと言って茶化していたらしい。それにしても、新政府軍出先参謀の板垣退助というは、大した男だった。新しい日本の先行きを、しっかり見据えておった。新政府があの思想を取り入れれば、新しい日本という国は立派な国になるに違いない。わしも日本という国を憂いていたつもりであったが、結局、三春藩を越えることが出来なかった。自分が思った以上に人間が小さかった。それに事がここまでになれば、この大きな歴史の回り舞台はすでに回り切ってしまったのかも知れぬ。わしもいつまでも観客の目に見えぬところで、六方を踏んで見得を切っている訳にも参るまい。そろそろ身の引き時だな・・・。 「どうもありがとうございました」 「またのお越しを」 店の前まで見送りを受けて呉服屋を出た嘉膳は、後ろからついて来るトクを振り返りながら言った。 「また寒い冬になるな」 道に落ちていた枯れ葉が冷たい風に煽られ、乾いた音を立てて転がって行った。 「はい。これからは、また雪がたんと降るのでございましょう」 嘉膳はまだ考えていた。 ──それにしても、「三春狐にだまされた」とは、同盟側もひどいことを言うものだ。この戦争の裏でなにが起きていたか・・・。われらがそれをいくら主張しても、結局、歴史の波の中に溺れてしまうのであろう。周囲から責められ、苛まれて孤独の境地に追い込まれた「三春狐」は、波間に漂う藁に掴まって浮かび続けて行くだけなのかも知れぬ。と考えればわが藩は、同盟側から敗退の口実とされても抵抗する力量もなく、また同盟が敗退した理由の矛先を向けるのに、ちょうどよい位置と規模の存在であった、ということなのかも知れぬ。 そう思いながら嘉膳は、ひょいと振り返った。伏し目がちに付いて来るトクの顔が、気のせいか上気して若やいで見えた。 ──愛しい。 そう感じながら妻の顔を見たとき、嘉膳は、はっ、とした。 ──ん・・・? ところで、あの朝廷から戴いた叡感勅書とは、いったい何であったのであろうか? あれは単にわが藩を信頼させ、場合によっては利用するだけのためであって、もともと新政府は、叡感勅書そのものに、われらが思うほどの価値など認めていなかったのではあるまいか? ということは、あれは・・・、ひょっとして、新政府のやり口であったのではあるまいか? そう考えてきたとき、嘉膳は自分の頭の中を、何かの塊がよぎるのを感じた。 ──結局あの戦いで戦火を城下に入れまいとした弱みを、三春藩は双方の側にうまく利用されただけであったのではないか? もしかしてあの戦争が、「日本国家という大きな組織が、それ自体を護らねばならなくなったときには、小藩や個々人の犠牲はやむを得ない」ということの前兆にならなければよいが・・・。 嘉膳は歩きながら、あの困ったときの癖が出て思わず腕を組んだ。 ──どうも違う、何かが違う・・・。今までわしは、無我夢中で戦いを避けてきたが、そう考えてみれば、会津藩や庄内藩のような大藩でさえ、新生日本のためという口実で攻め滅ぼされてしまった。今後の日本は、国家の保全のためとあれば、個々人をも圧殺するようになるのかも知れぬ。あの戦いは、その前例となるのではあるまいか。日本という国の新しい出発にこういう戦いという形をとったことは、よくない方への方向づけになるのではあるまいか。そうだとすれば、単純に「新しい日本はいい国になる」とばかりは考えられあのかも知れぬ・・・。 「わーっ」 鬼ごっこでもしているのか、子どもたちが歓声をあげながら、二人の横を走り抜けて行った。 ──そうか。三春藩が朝廷に勤王の所信を奏上して間もなく、戊辰戦争が勃発した。奥羽はその戦禍を避けるため、会津救解のための奥羽列藩同盟が結成された。平和のためのこの結成に、わが藩は何のためらいもなく調印した。ところがその後この同盟は攻守同盟・奥羽越列藩同盟に変質してしまった。これに参加せぬことは、同盟側に潰されることになる。と言って同盟側として戦えば朝廷を裏切ることになる。ここが問題だ。つまり新政府は、自己の権威づけのため人を殺め、また人を殺めて見せることで、国民を押さえつけようとしたのか。天朝様の威光と武力で、国民を恫喝しようとしたのか・・・? これでは[石が流れて木の葉が沈む]時代だな。戊辰戦争とは、所詮そんなものだったのか・・・。 空の雲は重く、雪の到来を予感させていた。 (完)
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Jan 31, 2008 11:57:18 AM
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Jan 30, 2008
カテゴリ:三春戊辰戦争始末記
「うむ。それに無謀と言えば、徳川慶喜様であろう。会津の容保様とは京都、大阪、江戸と同一の行動を要請していながら、江戸無血開城と引き換えに会津を見捨ててしまった。会津藩としても、もともとは孝明天皇様のためであり、徳川幕府のための献身であったろう。しかし一度は取り消された密勅とは言え、出してしまった密勅が一人歩きをしてしまったのだろう。それにこのような形での実質的奥羽越列藩同盟の瓦解は、各藩それぞれが自己保身のために行動をしなければならなくなってしまったということでもあったのであろう」
「・・・」 「もともと会津救解に動いた奥羽列藩同盟の政治的立場は、不戦であり、朝廷への忠誠であった。しかるにそれを無視し密勅を背景に、奥羽征伐に出てきた新政府軍とはいったい何だったのか。結局、慶喜様の大阪城逃亡が、この戦いの初期から各藩をバラバラにしてしまったのであろう。すでに見捨てられてしまった会津が、今だに慶喜様に忠誠を尽くしている姿が、悲惨だ。今に至るも、慶喜様は何を考えておられるか、まったく分からぬ。何も表明されぬ。自分は謹慎を認められ、駿河に隠退されたから、それはそれでよかろうが、その後、会津藩には、何らの助言も何らの協力もしていない。それはもちろん、戦いだけではない。会津救解に協力してもよかったのにだ。そこのところが明確でなかったために、新政府軍に攻撃され、戦場に取り残された奥羽越の我々諸藩は、ただ右往左往して分裂。結局、一人会津のみが逆賊、賊軍として矢面に立たされたことになってしまった」 「賊軍・・・?」 「そうよ。もっとも結果として、会津には新選組や彰義隊、凌霜隊やその他の幕府の残党が集結してしまったから、戦いも先鋭化せざるを得なかったこともあろうが、今度は品川沖で様子を見ていた榎本武揚様の艦隊が仙台に回るのを潮に、会津から脱出してこれに合流し、蝦夷に篭る動きも出ておる。その艦隊は、軍艦開陽をはじめとして、回天・蟠竜・千代田形・咸臨丸・長鯨丸・美嘉保丸それと神速丸という大船団だという。戦いは、会津だけでは済まぬのかも知れぬ」 「それでは・・・。ようやく戦いが収まり、静かになるのかと思いましたのに・・・」 トクは顔に、陰を見せた。 「それに噂によると、榎本武揚様は蝦夷地に新しい国を造ろうとしている、という話も聞く」 「新しい国・・・、でございますか?」 「うーん。この国とは別に、ちょうど日本や清国そして朝鮮国とあるように、蝦夷国とでも申すのかのう、国が一つ増えることだな」 「それでは一体、この先どういうことになるのでございましょう?」 「うむ。その国も新しく共和政体になるというのと、徳川慶喜様を奉じて新幕府を作るという噂が乱れていて、どちらになるのか訳が分からぬ」 「新しい幕府? それはどういう」 ちょっとの間、沈黙が流れた。 「うーむ・・・。それにしても、わしは今の幕府の制度では駄目になると思い、二本松藩を恭順にさそった。しかし内密に出した佐久間玄畏は守山で二本松兵に闇討ちに会い、ぎりぎりに二本松藩に出した大山巳三郎もまた犠牲となった。その上、会津藩は今、勝ち目のない戦いを続けておる。それなのにまた新しく幕府を作るとはな。わしは、戦いを起こさぬように思ったが失敗し、奥羽越列藩同盟が結成されてからは、戦争の早期終結を働きかけてきたにもかかわらず、これも駄目。さらに今度は戦いが蝦夷地に移り、もし榎本武揚軍が勝てば、国を二分する戦いとなって長期化する恐れも出てきた」 「戦いは、長く続くのでございますか?」 「それは、まだ分からぬ。ただ今わしが一番悔やんでいることは、わが藩の得ていた叡感勅書を、奥羽越列藩同盟の北部政府へ正式に開示する時期を見失ってしまったということだ。しかしあの叡感勅書は、本来わが藩にとって無意味であったのに、我らが意義あるものと単に誤解をしたのみかも知れぬ。『わが藩が新政府軍に帰順』ではなく、『新政府軍に降伏』させられたということは、その証拠かも知れぬ。この戦いにおいて、叡感勅書は何の力にもなり得なかった。このことが何とも後ろめたく、心残りと言えば心残り。誤算と言えば最大の誤算であった」 嘉膳は腕を組むと、妻の顔を見つめた。 「お前様・・・!」 「こたびの戦い、誠に悲惨なことではあるが、今というのはこれからの長い長い未来へつながる一瞬に過ぎぬ。いつかは良いことが、あるに違いない。いや、必ずある」 「私はお前様を、信じています。ですから決して、ご無理をなさらないで・・・」 嘉膳は立ち上がると、腕を組んだまま、また庭の方へ向きを変えた。 「ただ物事として、この世に存在するには存在するだけの理由がある。それは幕府とて同じこと。徳川幕府がこうなったということは、すでに日本という国に徳川幕府が存在する理由がなくなってしまった、ということなのであろう。これから一番大事なことは、『以後の日本がどこへ向かって行くか』ということであろう。いや、『どこへ向けて行くか』ということであろう。わしには残念ながら、その明確な方向付けをする能力がなかった」 それを聞くトクの目に、涙が潤んでいた。 九月二十二日、会津藩降伏。 九月二十三日、庄内藩降伏。 そして、会津藩と庄内藩の降伏とともに、慶応四年と並立していた北部皇帝の大政元年は、四カ月をもって、あっけなく消え去ってしまった。そして慶応は、新たに明治と改元された。明治天皇は江戸城に入城し、江戸は東京と改められた。東の京都、という主旨であった。 三春でも、御宸翰が紫雲寺で読み上げられ、一般に告知された。 その後、仙台の政紀より、 [仙台藩降伏の決定が、東部皇帝に伝えられた時、皇帝は大いに怒られた。 その後、皇帝は京都伏見宮邸に謹慎させられた。側近にあった僧の義観は、 東部皇帝の行為の全責任を自分に課し、『俗人なら切腹するところだが、法 衣をまとう身で、それはできぬ』と、絶食のまま獄死した。仙台藩の若生 文十郎と玉虫左大夫は牢前で切腹、坂英力と但木土佐は刎首にされた] との報告が入った。それを聞いた嘉膳は、 ──輪王寺宮による東部皇帝・大政天皇様も、この戦争の犠牲者の一人であ らせられたのではなかろうか? そう思った。 三春藩では、季春が、次第、不同以上の全員を集めると藩存亡の危機の際の礼を言い、「他藩は虚脱状態にあろうから威張るような態度をとってはならない」と訓示し、御酒、御吸物、御赤飯を下付した。なお小物以下には、御酒を下された。 十一月末、全国の旧藩主たちは、東京へ移住して行った。彼らには新たに、華族という称号が与えられるのである。 [本日五ツ時 殿様御馬にて御出発なり。御先大太鼓二十、鉄砲五十丁、 次に殿様、次に士砲隊三十計なり] 日本は新しく変わろうとしていた。そこまでは理解ができた。それでは日本はどう変わるのか? それから先が、嘉膳には読めなかった。 ──政紀もせっかく最先端の技術を身につけながら、僻地の小藩に身を置いたばかりに活躍する場面が少なかった。随分とわしに協力してくれたのに、可哀想なことをした。 そう思った嘉膳は登城の身支度をした。 季春を訪ねて、政紀を藩校・明徳堂の教授として迎えてくれるよう、依頼しようと考えたのである。せめてそれが政紀にやってやれる、たった一つのことであった。すでに戦火は遠のき、秋が深まっていた。
Jan 29, 2008
カテゴリ:三春戊辰戦争始末記
いつしか時期は、夏の盛りを過ぎていた。嘉膳は、さして広くもない裏庭に立っていた。その庭はこの騒ぎで、手入れも行き届かず雑草が生い茂っていた。
妻のトクが、嘉膳の背後に座って話し掛けた。 「朝の内はともかく、この夏はいつになく暑うございました」 「うむ、『夏の暑い年の冬は寒い』と言うからのう。ともあれ、今年の作柄は悪くないようじゃ」 嘉膳は、乱雑になった庭を見ながら言った。 「このところ、不作が続いておりましたので、そうなるとようございますね・・・。ところで戦いの方は、どうなるのでございましょう」 トクは、端座したままで訊いた。 「うむ・・・。やはり仙台藩は動いたのう。前に心配していた通り、結局は錦旗を掲げて新政府に恭順しおったわ」 嘉膳は振り返るとトクを見た。 「その上に、米沢藩もひどいものじゃ・・・。こういう時勢、矛を収めたのも分からぬでもない。しかし、藩主の上杉弾正大弼斉憲様のお子の茂憲様は、自ら越後口の総督府に出向き、『会津を攻めましょうか?』というお伺いを立てていたそうじゃ」 「まあ・・・、あの米沢藩が?」 嘉膳はまた目を庭に戻しながら、独り言のように言った。 「うむ・・・、今になって尻尾を振ってのう。その後はお前も知っての通り、仙台藩も恭順した。この仙台藩と米沢藩は、奥羽越列藩同盟の中心にありながら、積極的に戦わずさらに自分を軽傷にとどめながら会津に苦汁の入ったお鉢を回したようなもの。これらから思い返せば、わが藩が仙台に救援依頼の使者の琴田半兵衛を出したとき、一兵の援軍もよこさず、ぎりぎりになってから寄こしたことがあった。すでにこの時、仙台藩は恭順の意志を秘していたのであろう」 「・・・ところで、お前様。二本松藩が降伏し、福島や村松藩(新潟県)も降伏したと聞きましたが?」 嘉膳は、妻の方に向きを変えた。 「うむ。福島藩主の板倉内膳正勝尚様も米沢藩に逃れたが、二~三の家来を除いて、全員が米沢に入るのを拒否されたというわ。新政府軍の世良参謀の暗殺に福島藩士もかかわっていたことを恐れた米沢藩が、わが身を守っての話ではあろうが、これもまた酷な話。板倉内膳正勝尚様も踏んだり蹴ったりじゃ」 「それでは、御家来衆は・・・、いかがなされましたか?」 トクが心配そうな顔をして訊いた。 「うむ。米沢に入るのを断られた御家来のうち、近習頭の鈴木六太郎、物頭役の内藤魯一らが同士約二十名とともに脱藩して逃走し、二本松の新政府・彦根藩の陣営に出頭して降伏したという。藩を守るという大義の下、個々の命が軽いのう。結局は、藩士という名の弱者の破滅には、目をつぶられてしまったのよ。藩がなくなったあげく米沢に入るのも断られ、行く所がなくなってしまった福島藩士も、不憫なことよ」 トクは目をしばたたいた。 「そうしますと、残るは、会津と庄内藩のみでございましょうか?」 「うむ。その会津も、鶴ケ城での篭城戦になっておる。今しばらくの戦いであろう」 「それにしても、二本松藩の少年隊が全滅し、会津藩では白虎隊という少年たちや娘子隊という女たちが戦っている、と噂されておりますが・・・」 それを聞いた嘉膳は、しばらく黙っていた。そして話し出した。 「そうか、お前も聞いていたか・・・。戦いとはむごいものよ。わが藩の帰順で須賀川から兵を動かせなくなった二本松藩は、少年たちまでも動員したらしい。この少年隊も、悲惨な最後だったという・・・。相手が少年たちとは知らなかったとはいえ、わが藩兵の嚮導による新政府軍と戦っていたのだから、心が痛むのう・・・。しかも二本松藩主の丹羽左京大夫長国様は米沢へ、奥方様は会津に逃れたそうじゃが、結局は二本松に戻られた。それにしても大藩の都合に振り回される小藩とは、辛い立場よ。三春藩とて同じことであった。とにかく新政府軍は冬に入らない前に決着をつけようとして、攻勢を強めておるわ。彼らは南国育ちが多く、冬を恐れておるのよ」 「すると、まだまだ犠牲者が出るのでしょうか・・・。いったいこの戦争は、なんのためだったのでしょうか」 嘉膳は、妻の前に胡座をかいた。 「わしにも分からぬ。最初は単に、薩長による幕府からの権力奪取の戦いであったと思う。しかるに、新たな政治思想が起こり、そこへ諸外国の思惑がからんだこと、それが幕府制や天朝様のあり方、つまりは日本のあり方を探る争いになったのかも知れぬ。しかし結局は、最初の『薩長による幕府からの権力奪取』の部分のみを引きずったのが、この戦争であろう」 「それだけが、理由だったのでしょうか?」 「うむ。たしかに事はそう単純ではない。しかし大きな声では言えぬが、薩長両藩に倒幕の勅が密かに出された後に、つまり幕府が大政を奉還した後にもかかわらず、姑息にも帯地などで錦の御旗などを作って幕府軍を脅かした。恐れ入った幕府は江戸城を明け渡し、将軍が寛永寺に謹慎した。そして会津が謝罪を嘆願し、奥羽の諸藩がそれの後押しをした。これらのことでも分かるように、これで済めばこの戦いはしなくて済んだ筈。そうすればこの戦いに、意味はまったく無かったことになる」 「それなのに、武力で攻めてきたと・・・?」 嘉膳が妻とこのような話をしたのは、最初であった。 ──いろいろ考えていたのだな。 その思いがトクに理解されるようにと、丁寧に言葉を選びながら話していた。 「そうよ。薩長両藩が新政府と称し、無理矢理攻めてきたのは、会津藩主が京都守護職についたことや、庄内藩が薩摩屋敷を焼き討ちにしたことに対する私怨と言っても間違いあるまい。しかしそれとて、会津藩が自分勝手にやった訳ではない。会津藩は孝明天皇の信任を得た上に幕府の命令、また庄内藩も将軍が留守とは言え留守幕閣の命令による行動であった。しかも会津や庄内への攻撃が将軍の謹慎後であるということは、薩長の方が無謀であったと申してもよかろう。ただ新政府としても、『同盟方に強力な兵力を残したままで、新国家が成立させられるか』という危機感を持ったのも、事実であろう。さすれば無謀、とばかりは言えぬのかも知れぬ。とは言っても別の方法があったのではないか? それにこれほどの人を殺め、財貨を失う意味があったのか? そう疑問に思う」 「そうしますと、せめて三春藩が最小の犠牲で済ませられたかも知れないことは、ありがたいことなのでございますね」 そう言われて、嘉膳は思わず微笑んだ。久しぶりの微笑みであった。
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Jan 29, 2008 10:17:32 AM
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