学童疎開
学 童 疎 開 昭和19年6月30日、学童疎開促進要綱が決定され、防空上の必要から、国民学校初等科児童の疎開を促進することとされた。先に縁故疎開を奨励したが、難しい場合国民学校初等科3年以上6年までの児童については、保護者の申請に基づき集団疎開が実施されたのである。「教職員モ学童ト共ニ共同生活ヲ行フ」という学校単位の集団疎開は、同年8月に始まった。 授業は疎開校の分教場形式か地元委託形式かを受け入れ側と協議して行われ、昭和20年春には全国で約40万人を超える児童が疎開していた。 集団疎開先の三春町では二部授業(午前は地元、午後は疎開児童が同一校舎を使用)となったが、縁故による初期の疎開児童は数も少なく、特に問題はなかった。しかし中期になると縁故疎開児童は大幅に増え、私たちの学校にも縁故を頼ってやって来た児童が学級に編入され、それはやがて教室からはみ出るほどの児童数となっていった。学校へは隊伍を組んで登校し奉安殿に最敬礼、それから教室に入っていったものである。 しかし授業では疎開児童の成績が地元の子より優位に立ち、しかも都会育ちの彼らの何気ない言動が地元の子の気持ちを逆なでにし、屈折した心理状況が発生してきた。今、当時を思い出すと、地元の子にとっては、大いなる負のカルチャーショックであったのではなかったかと思われる。例えば学芸会で、疎開して来た女子児童が琴の弾き語りをした。今でも憶えているが、次のような唄であった。我々地元の子は、驚いたものである。 お山のお山の細道は 誰々通る誰通る 兎の親子の通る道 月夜に狸の通る道 この周辺での集団疎開は、三春町に東京都中野区の江古田国民学校の159人の児童や荒川区真土国民学校の207人の児童が、また江古田国民学校は須賀川町に201人、田村郡御館村(現・郡山市中田町)に72人が分散して疎開、その他にも荒川区第一日暮里国民学校の児童が熱海町(現・郡山市)に実施されている。 ところが郡山市に疎開児童が来た様子がない。これは、郡山への爆撃が予想されたからであろうか。むしろ市内から郊外へ疎開した地元児童が、少なからずあったようである。しかし集団で疎開して来た子どもたちも心細かったろうが、地元でも一日里親を実施するなど、受け入れに腐心した。とにかく東京とは文化の程度が違った? のであるから子どもたちの間にいらぬ葛藤が起きたり、疎開学校同士間での対立もあったのである。 このような疎開が、ヨーロッパでもあった。イギリスでは、ロンドンやマンチェスター、リバプールなどの都市とその周辺に住む学童の疎開が百万人単位で行われた。行き先は主にスコットランドなど国内の北部だったが、一部はアメリカやイギリス連邦自治領に送られた。 またフィンランドでも、就学前の子供を中心とした約8万人という大規模な学童疎開が実施され、その大多数が隣国のスウェーデン(一部はデンマークとノルウェー)へ疎開した。 一方のスウェーデンでも官民の間でフィンランドに対する支援意識が高まり、「フィンランド支援センター」機関が立ち上げられ、フィンランドの子供達を無償でスウェーデン人の家庭が受け入れた。 これら国を超えての長期にわたった疎開は子どもたちから母国語を奪ったこともあり、戦後になっても疎開先の国に留まった例も多く、スウェーデンに約15,000人以上、デンマークに約50人が残ったといわれている。戦争は敗戦国にばかりではなく、戦勝国の子どもたちも巻き込んでいたのである。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。