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1-01【神都】


初稿:2009.03.02
編集:2023.03.13
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※光ノ章の本編です

1-01【神都】




 レムギサロス大聖堂に透き通るような歌声が満ちる。
 謳い手はアルジャベータ聖誕祭の主賓―――聖霊の血脈に連なるシャルロット・アルジャベータ・リュズレイである。 少女は儀式用の祭祀服ではなく、繊細な刺繍が隅々まで施された純白のドレスを纏っていた。 その姿は場の荘厳な雰囲気と相まって、可愛いというよりも清純な大人の華やかさを醸しだしている。

 歌声が止むと、絢爛たる祭服に完装した教皇ウェルティス・フォン=バレル三世が、聖女の待つ主祭壇へと身廊を真っ直ぐに歩む。 その入場に伴い中央尖塔にぶら下がる聖者の鐘が、荘厳な音色を響かせていた。

「メナディエルの祝福を……」

 教皇はシャルロットの目前で跪くと、骨ばった指先で複雑な聖印を組み上げた。 そして、差し伸べられた少女の左手を取り、己の唇をゆっくりと近づけていく。 教皇が聖女の左手の甲に接吻してメナディエルの祝福を賜ることで、祈りの儀は完遂される。 それは丁度、大聖堂内陣の上天に描かれた聖剣戦争の壁画にもある光景であった。

「―――っ……くっ」

 不意に肉を破る鋭い痛みがシャルロットの身体を走り抜ける。 だが、少女の苦鳴は鐘音にかき消され、列席者の耳に届くことはない。 押しつけられた教皇の口唇と少女の肌の隙間から朱い筋が糸が引く。
 教皇の背中で死角となった異変を察知するものは誰もなく、レムギサロス大聖堂を包みこむ神聖なる祈りは最高潮に達していた。

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 ここは聖宮セラフィムガードの空中庭園。
 式典を終えたシャルロットは、目下に広がる神殿都市セラディムを虚ろに見下ろしていた。
 夜の帳がおりて、古色蒼然とした街並みは数多の篝火によって彩られている。 それはアルジャベータ聖誕祭に臨む為、大陸各地から訪れた巡礼者たちが燈した燐光であった。 高揚たる余韻に包まれたレムギサロス大聖堂に向かう参拝の列は、今以て途切れる気配がなかった。

「ん……くぅ」

 首元を飾る霊環へと無意識に添えた少女の左手から鈍痛が伝わる。

 ―――左手に穿たれた2つに傷跡

 シャルロットは自分の身に起こったことを未だ理解しきれずにいた。 それはきっと他者に伝えるべき事柄であるのだろうが、なぜかそうする気にはなれなかった。 まるで、己の意識を他者に乗っ取られたような圧迫感が少女の心を支配していた。

「シャルロット様……これ以上はお身体に障ります。 どうか聖宮へお戻りくださるよう」

 背後から近寄ってきたミルフィーナが気遣いながら進言する。 馬車の一件以来、シャルロットは何処か他者を拒絶するような雰囲気を醸しだしていた。 ミルフィーナの知るシャルロットは、俗世間に疎く人を疑うことを知らない。 悪く言えば世間知らずで警戒心に欠けている。 他人に対し不振や疑念を抱かないところはシャルロットの美徳でもあり欠点でもあった。 しかし、今は違った。 少女との間に不可視の壁がはっきりと感じられた。 それを敏感に察知したミルフィーナは、心ならずも離れた場所から様子を見守っていたようだ。

「……そうですわね」

 シャルロットは手套で左手の傷口を隠すと小さく頷いた。
 いつの間にか周囲に、石畳を叩く雨音が小さく響いていた。 ミルフィーナも降りだした雨にうたれるシャルロットを見かねて声をかけたのだろう。
 ミルフィーナに手を引かれながらシャルロットは漆黒に染まった空を見上げる。 何も無くただただ吸い込まれるような闇―――そこに遮るものもはなにもない。 それは見る者の平衡感覚を奪い、その存在を希薄にさせていくようだった。 漠然とそんな想いがシャルロットを支配していた。 今はただ手のひらから伝わるミルフィーナの温もりだけがシャルロットにとって確かなものだった。

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 聖宮の入り口に差し掛ると、左右に控えた警備の護衛官が、口々に女神の御名を唱え聖印をきる。 教皇庁直属の護衛兵は中立を求められる立場だが、シャルロットに対する敬意の払い方から、一見して聖アルジャベータ公会の信徒だとわかる。 もっとも、教皇庁内部の古参者は宗派を超えてメナディル正教そのものに対する敬虔な信者である比率が高い。 それはこの聖地独特の現象でもあった。
 宮殿の中央を伸びる鏡の回廊を進むと、祭典・祭事用にと設けられた白の間に到る。 八本の巨大な大理石の円柱に支えられた広大な空間、見上げれば神代の叙事詩を象った天井画が彼方へと連なっていた。 その壮大な造りは見る者を常に圧倒する。
 シャルロットは大扉の手前で傍らに退いたミルフィーナを背後に従えて、総大理石で造られた白亜の空間に脚を踏み入れた。 聖女の存在に気づいた列席者からざわめきが漏れる。 続けて各国の居並ぶ重臣や廷臣の間から、敬虔や奇異など様々な感情が入り混じった視線がシャルロットに向けられた。 ミルフィーナはあからさまに眉を顰めて、主人に不躾な態度を見せる人間を威圧するように端から順に睨みつける。 女守護騎士団長と目が合うと、ばつが悪くなったのか大半の人間は目線を逸らしていった。

「フィーナ……お顔が怖いですわよ」

「も、申し訳ありません……」
 
 シャルロットに窘められて、少し困ったような表情になるミルフィーナ。

「でも、ここは人が多すぎて少し息がつまってしまいそう……」

「今しばらくのご辛抱を、主席枢機卿であらせられるヴィルヘルム卿、それと各国の代表各位への顔見せがお済になれば、貴賓室へ退席しても問題はないでしょう」

 この夜会は聖女であるシャルロットを労うために開かれたものである。 立場上、宴の主役が顔を見せないわけにはいかなかった。 しかし、華やかな宴に招かれた客人は相当数に上っているようで、この中から目的の人間を捜すのは、かなり骨の折れる作業になりそうだ。

「これはこれは聖女様、お姿が見えず心配しておりましたぞ」

 横合いから唐突にかけられた声。
 振り向いたシャルロットの眼前に、金銀珠玉で飾り付けられた礼服に身を包んだ痩身の男がいた。 病的なまでに青白い肌に上等の絹糸のように流れる金髪、他者の目を惹きつけるには十分な容姿を兼ね備えた冥い紅眼の持ち主。
 男は上体を屈めると、右手を左胸に当てて恭しく一礼した。

 ―――アルストファー・ファージ
 五公国連合ベルムーテスのひとつ、ガザロフオードの現公王である。

 だが、アルストファーは正統なる血脈に連なったガザルフォードの王位継承者ではなかった。 それは彼の出生に関係する。 前ガザロフオード公が名も知れぬ屍族の娘との間に授かった子供。 呪われた烙印の下に産み落とされた忌み子。 それがアルストファー・ファージであった。 前公王妃が子宝に恵まれなかった事や、彼自身の屍族に対する凄まじい憎悪が齎した凶運であったのだろう。 彼はガザロフオード公国の国教でもある白十字教の司教達の強い推薦もあり公王となった。
 シャルロットもアルストファー・ファージとは幾度か面識がある。 だが彼から漂う鬼気は、人間とは明らかに違った存在だと認識せざるを得なかった。

「アルストファー様、ご心配をお掛けして申しわけありません」

 シャルロットは努めて冷静に言葉を返す。

「いやいや、女神の代弁者たる聖女様にご拝謁賜ること事体、本来なら憚るべきところ。 このような下賤な宴には、ご足労頂けぬものとばかり思っておりました」

 言葉の内に秘められた鋭い棘。 嘗め回すような視線が少女の身体に絡みつく。 そういった悪意に免疫のないシャルロットは顔を伏せてしまう。
 アルストファー・ファージが更にシャルロットを威圧しようと身を乗り出した時―――

「ガザロフオード公王様もご健在でなによりです」

 ミルフィーナが二人の間に割って入る。
 王族同士の会話に容喙する不遜ともいえる行為であるが、ミルフィーナは事も無げに続けた。

「聖女を快く思わぬ不心得者達の毒気に中てられたのでしょう。 シャルロット様は体調を崩されております故、続きは僭越ながら私奴が代わりに拝聴させて頂きます」

 痛烈な皮肉である。 アルストファー・ファージが白十字教でも強硬派の最先鋒であると知っての発言であるから尚更だ。 彼ら強硬派は聖女の伝承そのものを否定している為、シャルロットは教敵にも等しい存在である。 

「ミルフィーナ殿も相変わらずのようですな。 しかし、そのような外敵がいるとして、貴女にそれを阻む術はありますまい。 武芸の嗜みもここでは無用の長物でありましょうからな」

 アルストファー・ファージの嘲弄めいた声が響く。
 聖宮内部では防衛の関係上、帯剣を認められない。 武器の携帯を許可されるのは、教皇直属の聖宮護衛官と正規兵である聖堂騎士団に限られていた。 アルストファー・ファージの言葉はそれを指しているのだろう。

「ご高説傷み入りますが、守護騎士団に身を置く者は武器を持たなくとも戦う術を心得ています。 たとえ相手が屍族であろうと須らく撃退してみせましょう」

 口元にかすかな笑みを浮かべ、ミルフィーナがやり返す。 事の成り行きを興味本位で見守っていた人々からざわめきが洩れる。 場の空気は一触即発の様相を孕んでいた。

「お二人ともそれぐらいになさいませ」

 そこに、たおやかな、それでいて凜とした声が響いた。
 声の主を知る者達の中からどよめきが起こる。 人垣が左右に割れると、そこには紅の枢機卿衣を纏った女性が柔和な微笑を浮かべて佇んでいた。

「イス家の女狐か……」

 アルストファー・ファージは会話に割り込んだ第三者の姿を見咎め露骨に顔を顰める。
 彼女―――ファティマ・イスはここアレシャイムで教皇に次ぐ高位聖職者である枢機卿位にある人物だ。 異端審問の総てを司る最高顧問でもあり、アアル=セナートと呼ばれるメナディエル正教の原型ともなった教えを崇拝している。

「聖下のお膝元でもあるこの聖宮セラフィムガードで、メナディル教徒同士の諍いとは些か関心できませんわね」

「これは私達の問題で貴女には関係ない。 余計な口を挟まないで頂きたいものだ」

 アルストファー・ファージは込み上げる憤りを隠そうともせずに女枢機卿を睨みつける。

「あら、ちゃんと要用はありますのよ。 でも、それはわたくしではなく―――」

 突然、周囲が騒然とした空気に包まれる。
 ファティマ・イスの言葉に呼応するように、もうひとりの人物が姿を現したからだ。 それを視界に捉えたミルフィーナが弾かれたように片膝をつき頭を垂れる。

「こ、これは……バレル三世聖下」

 アルストファー・ファージの顔が、苦虫を噛み潰したように醜く歪む。
 一拍遅れて、シャルロットは震える指先で聖印を切った。 少女は肌が粟立つような怖気と共に、左手の傷跡の発する熱が増したように感じていた。

「それとも、カザロフオード公はこれ以上騒ぎを大きくすることをお望みなのかしら?」

 ファティマ・イスがこの状況を面白がるような口調で毒舌を振るう。

「くっ……いいでしょう。 ここは聖下のお顔を立てておきましょう」

 アルストファー・ファージは忌々しげに女枢機卿を一瞥すると、小さく舌打ちする。 そして、フォン=バレル三世に向けて形ばかりの敬意を払い、足早に白の間を立ち去った。

「聖下、此度の騒動は私奴の責任です。 如何様な処罰も甘んじて受け入れる所存です」

 ミルフィーナはそう陳謝すると、実直な態度で再度頭を垂れる。 だが、これに慌てたのはシャルロットだった。

「い、いえ、フィーナは何も悪くはありませんわ。 わたしがもっとしっかりしていればこのようなことには……」

「心配めさるな聖女殿。 余も此度の宴の主賓の気を煩わすような無粋な真似をするつもりはない」

 ウェルティス・フォン=バレル三世の言葉に、シャルロットも表面上は落ち着きを取り戻す。

「それにしても、ますますお美しくなられて……。 亡きエレシアム妃殿下もきっとお喜びになられていることでしょう」

 ファティマ・イスは一度も微笑を絶やすことなく、そう話を切り出した。



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