目下、教会船アメナディル号は不幸の集積場と化していた。 “とある人災”で乗組員には生傷が絶えず、心労で寝込む者が後を絶たなかったのである。 そして、その最たる被害者である船上司祭のザゼルは、別種の不幸を上書きされている真っ最中であった。 ナイトクランを出航して以降、毎度お馴染みになった騒動を処理した後、寝室に向かった老司祭は、偶々忍び込んでいたミュークたちと鉢合わせしていたのだった。
「さっさと脱ぐのじゃ」
ミュークは老司祭の喉元に仕込み短刀を突きつける。 赤裸々に脱衣を促しているが、勿論ミュークにそっち系統の趣味はない。 寧ろ真逆の性癖の持ち主である。 よって目当ては中身ではなく老人の纏う聖職衣。 ミュークは愛用の紅の長衣、ルムファムはフリル付きの漆黒のドレス、其々が場違いに目立つ装いを是正しようとの算段である。
「ぶっかぶか」
ルムファムが丈の合わない袖口を振り回しながら不平を漏らす。 どうやら一足先に、老司祭の所持していた予備の聖職衣を着付けて貰っていたようである。
「我慢するのじゃ、そんな成りでも多少の目眩ましにはなるじゃろうしな」
ミュークは下着姿になった老司祭に馬乗りになると、紅の長衣の上から剥ぎたての聖職衣に袖を通している。 肉感的な娘が半裸の男に跨る姿は、傍から見ると淫猥な光景に見えなくも無い。
「無駄な抵抗はしないほうが身の為じゃぞ」
ミュークは寝台に横たわる老司祭に覆いかぶさるような体勢で更に警告する。
「そっ、其方何者だ!?」
「ワチキはミューク・ウィズッド。 ここを訪れた理由はおいおいわかるじゃろう。 そんなことより、その老い具合から判断するに、お主はかなり位の高い聖職者と見受けられる。 合縁奇縁に腐れ縁とも申すし、ワチキの役に立って貰うぞよ」
ミュークは慇懃に名乗りを挙げると、不気味に微笑んだ。 年功序列といった人族特有の社会制度をよく理解している。
「やはり賊の類か!? ぐっ……っ」
暴れる老司祭の身体を、横合いから伸びた小さな手が寝台へと押し戻す。 驚いた老司祭が視線を横に向けると、流れるような銀髪の少女が枕元に佇んでいた。 ルムファムである。
ミュークは老司祭の軽率な行動に肩を竦めると、
「主の命じゃ。 それをどう扱おうとお主の勝手じゃが、老い先短い人生をここで終わらせたくはあるまい?」
脅しをかけるように口調に凄みを効かせた。 更にルムファムが老司祭の喉元を圧迫して演出を添える。
「な、なにが聞きたい?」
喉奥から絞り出されたような老司祭の声。 相手を害する気など更々ない三文芝居であったが、一定の効果はあったようだ。
「ナイトクランで招き入れた客人は今何処におる?」
ミュークの質問に老司祭の顔が強張る。 そこに浮かぶのは警戒の念だ。
「……知らぬ」
老司祭は多大な時間をかけて一言そう呟いた。 この状況下で口を割らないとは、見上げた信仰心であった。
「答えずとも良い。 ワチキの目を見るのじゃ」
ミュークの双眸に冥い紅色の輝きが宿る。 寝台に横たわる老司祭は魅入られたように視線を逸らす術を失う。
「―――くっ!?」
小さく呻いた老司祭の意識がまどろむように混濁する。 まるで心の奥底を覗かれているような不安定な感覚が、年老いた精神を蝕んでいた。 たった今、ミュークが行使した“力”は、血統アルカナ【女教皇】の持つ“精神操作・意志伝達”と並ぶ“記憶探知”である。 この能力は対象者と視線を合わせることで発動条件を満たす。
暫くしてミュークは満足したように頷くと、
「船央楼上層の特等船室……、そこにおるわけか」
「なっ、なぜ……」
老司祭の両眼が驚愕に見開かれる。
「お主がそれを知る必要はない」
ミュークが目配せすると、ルムファムの拳が老司祭の鳩尾に突き刺さる。
「がぁっ……」
潰れた苦鳴と共に老司祭の身体から力が抜け落ちた。
「潜心の深度が浅かった故、たいした情報は得られなかったが、この老人の記憶ではナイトクランで迎賓した人物は二人とある。 恐らくは一方が聖女で、残りは護衛者であろうな」
ミュークが質問の内容で対象を聖女と特定しなかったのには二通りの理由があった。 この老人が聖女に関する詳細を知らなかった場合と、聖女自身が身分を偽って船に乗り込んでいる事態に順応する為である。 更なる条件を満たせば、意識の深層に沈む失われた記憶すら呼び起こせたが、被体のみならず術者自身の負担も大きく実用性は低かった。
「誰か来たようじゃな」
ミュークの優れた聴覚器官が船内通路を歩く足音を捉えていた。
暫くして、船室の扉を叩く音。
「ザゼルさま、いらっしゃいますか? 少々、問題が起こりまして……」
船室の外から若い男の声。
「(問題……? レムが与えられた役割を遂行したと思いたいところじゃが……)」
ミュークは息を殺して、声の齎す情報に集中する。
だが、僅かな沈黙の後、室内からの応答がないことに諦めたのか、気配は遠ざかっていった。
「問題とやらは気になるが、ワチキたちも先に進むとしようぞ」
長く同じ場所に留まれば発見される危険性が高まる。 扮装したとはいえ、船内を無闇矢鱈と動き回るわけにもいかず、迅速に事を運ぶ必要があった。
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数刻後、ミュークとルムファムは、取得した記憶を辿り、目的地である船央楼上層に到達していた。 船内廊下は他の階層より幾分広めにとられており、突き当たりには目的地である重厚な扉が見える。
「好都合ではあるが、些か無用心じゃな」
呆れた口調とは裏腹に、船の墓場と呼ばれるこの危険海域で、外敵への警戒が緩む事はミュークの思惑通りだった。 船の航行すらままならない岩礁地帯で、海賊や私掠船に襲撃される可能性はゼロに等しい。 乗組員の注意は外敵の侵入ではなく自然の脅威へと向けられている筈だ。
「ようやく、聖女シャルロットに拝顔賜れるわけじゃな」
ミュークは繊細な金刺繍の施された赤絨毯の上を大股で進む。 そして、特等船室の両扉が目と鼻の先に迫った時、唐突に眉根を寄せた。
「ん?」
室内から言い争うような声が聞こえたのだ。
ミュークは扉に耳を宛がうと、そっと聞き耳を立てる。
『―――船を……さいですぅ~』
正確な内容は聞き取れなかったが、それはまだ幼い舌足らずな少女の声だった。 興味をそそられたミュークは、黒檀製の両扉を僅かに開き室内を覗き込む。
「(ほぅ……これはっ!?)」
室内には、腰に両手をあて偉そうに踏ん反り返っている金髪の少女と、その横で萎縮するように縮こまる茶髪の少女が居た。 どちらも年の頃十二、三歳程度であるだろう。 特にミュークの目を惹きつけたのは金髪の少女の双眼であった。 左右非対称な眼色は少女に何処か普遍的な神秘性を与えていた。
「(まさか魔力の象徴たるオッドアイの持ち主にお目にかかれるとは……)」
ミュークの表情が倒錯的で恍惚としたものに変わる。 まるで少女の金銀妖眼に魅了されてしまったかのようである。 ゴクリと喉が大きく鳴る。 どうやら、聖女と思しき金髪の少女と戯れる甘やかな夜を妄想しているようだ。 半開きとなった口元から垂れた涎を袖口で何度も拭う。 レムリアが同行していたら一悶着あったことは間違いない。
「よ、よいか、ルム。 金色の髪の娘子に対しては間違っても手荒に扱ってはならぬぞ。 アレはワチキのじゃからな」
などと、挙句の果てに公言する始末。
そんなミュークをルムファムが無機質な眼で見上げる。
「べ、別にやましいことなど、こ、これっぽっちもないのじゃぞ。 ワチキに限って下心などあるわけもなく……そ、その……あ、アレじゃアレ」
ミュークがしどろもどろに弁明する。 だが、ルムファムの無言の圧力は強まるばかり。 耐え切れなくなったミュークは、わかり易いカタチで現実逃避をした。 後先考えずに扉を蹴破って凍りついた時計の針を半ば強制的に進めたのだった。
「ワチキはミューク・ウィズイッド。 以後、お見知りおきをお願いするのじゃ」
欲望とは種族を超えて正常な判断を狂わせるらしい。
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