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ガードマンのつづる日常

ガードマンのつづる日常

生き方上手・日野原重明

これは同人誌「葦」に発表するものです。

 ホーム・ページを作って、毎日、公開日記を書いている。どこかの国の強制収容所で毎晩、日記を書かせてその人の忠誠度を監督していると本で読んだことがある。結構、ストレス解消になっていたのかもしれない。自分のことに関心をもってくれる人がいて、様子を見に来ているということが分かれば心強いものである。それが権力の手先であっても、サラ金屋の取立てであっても、無視されるよりかはマシということなのだろうか。

 「死ぬまでに読んでおきたい本」などというタイトルで日記が書かれていた。感想を書く欄がある。「一度死んでいたかも知れない。閻魔さまから追試を受けている、毎日レポートを書いているのかな?」と感想を書く。それなりの反応がある。それで私の書く日記のタイトルが「閻魔さんへのいいわけ日記」となった。また、楽天収容所日誌でもある。

 霊能について語ることが多くなった。それなりの反応があるので私の微かな霊体験と過去、霊能者の研究グループにいた頃の話で盛り上がっている。日記にはテーマを掲げると案内板にのせてもらえる。そこで「生き方上手」というテーマに入れていた。ラジオの番組でこの「生き方上手」は日野原重明先生の著書のタイトルだと紹介があった。この日野原先生にはいろいろな思い出がある。
 
 フリーで仕事をしていた頃、テープ起こしのバイトをやった。医療関係者の座談会であった。月一に2時間、それが1年分、24時間あった。三週間でやってくれという。とにかく、引き受けた。参加者は十数名、皆、自分の名前を名乗って発言するわけではない。声に特徴があれば、問題ないのだが、女性の場合、なかなか区別が出来なかった。半分の十日間は聞くだけで、話の内容とその人が誰であるかの区別にエネルギーを注いだ。
 全国でもトップクラスのお医者さんや看護婦さん、事業団の人や厚生省の人、この座談の内容を厚生行政に生かそうという趣旨でやっているのである。その座長が日野原先生であった。話の三分の一は日野原先生の発言であった。あの催眠術師のような声を8時間、それも何回も何回も聞いたのである。
 この仕事をして半年後だろうか、日野原先生が院長をする聖路加病院のある築地で新聞の校正(ラテ版)のために数年仕事に行くことになった。病院にはよく電話をかけにいった。何となく親しみを病院には感じていた。この数年後、オウムの地下鉄サリン事件が起こり、築地駅もその舞台となった。多くのサリン被害者が聖路加に運ばれた。テレビのニュース番組に日野原先生の姿を初めて見ることになった。「これは毒ガス、サリンです」と聞き覚えのある声がした。

 先生の風貌は貧相である。私の小説「精貧世界の人々」の主人公・星空宙太郎に似ている。正しくは、主人公のモデルに似ている。そのモデルというのは東京教育大学卒で都立高校の英語教師である。また、日教組の活動家でもあり、プライベートで精神世界の活動もしている。その活動場所が新宿・歌舞伎町の喫茶店であった。霊感も強く、私とは霊能者の研究会で知り合った。「組合でも宇宙、宇宙と言っているんですよ」「宇宙人はいらない、地球人でいい」と言われてますけど。神観はユニテリアンである。宇宙神と言っていい。明治に広がった日本のキリスト教がこのユニテリアンによって拡散してしまった。日本では原宿に教会があるが、アメリカ系とドイツ系など三派ある。

 テープ起こしをした座談の中心テーマは「ターミナル・ケア」であった。人生の行き着くところは「死」である。どう人間らしく死ぬか?医療の現場がどこまでどのように関わるか。病院で死を迎えることがその患者さんや家族にとってどういう意味があるのか?
 長年住み慣れた自分の家で息をひきとりたい。出来れば、家族、子供や孫に囲まれて息をひきとりたい。そう願っているのではないかと日野原先生は患者の心理を解説した。
 こういう欲求から在宅医療、それを補完するための訪問看護となる。その年の4月からこの訪問看護がはじまった。

 私のホーム・ページにある霊感の強い看護婦さんからの伝言が入っていた。老人医療の現場で自分が担当のときに亡くなる患者さんが多いという。ご主人が亡くなるとき、奥さんに「おまえの時は、オレが迎えにきてやるから」と言っていたそうである。誰も居ないのに大きな声がした、そして、その奥さんが息をひきとったという。その子供さん達に大きな声がしましたよと言うと、「オヤジが迎えに来たな」と涙を流したという。
 いたずらに生命維持装置で延命するのは誰のためにもならないというのがこの霊感の強い看護婦さんの意見である。

 私の叔父と叔母の話である。叔父が倒れて3日目に臨終となった。医者は「子供さん達が来るまで1時間ぐらいなら生命維持装置つけていましょうか?」と叔母に尋ねた。叔母は即座に「お迎え待たしたら悪おまっさかい、外しとくんなはれ」ここに子供達がいないのは子供達のせいでお医者さんの責任ではない。持っていたカネをチィーンと鳴らし、「ナムアミダブー」と念仏を唱えた。妻である私が送る。
 叔母は熱心な本願寺の門徒である。私の母も同じような教育を受けているのだが、姉のように毎週日曜日にお寺に参るということは出来なかった。この話も母から聞いたのだが「とうてい私にはマネ出来ない」という気持ちが言外に含まれていた。

 医療と宗教の間に家庭が入ることで人間としての尊厳をもって、死を迎えようという趣旨の座談が続いた。

 医者は治療を、看護婦は看護を、薬剤師は薬を、医療関係者はそれぞれの分野で患者にその技術で奉仕するが、あとは患者がどう病気と取り組むか、人任せではダメだと日野原先生は言う。昔は、医者の命令で病気を治せ!それを期待する患者さんが多かった。軍隊式である。しかし、今は違う。皆、対等だという。医者も看護婦も薬剤師も、そして、患者もである。だから、患者にも責任がある。医療関係者は責任を果たしました。後は、患者であるあなた、あなたが病気と取り組んであなたが治すんですよ。

 6年前、救急車で病院に運ばれることとなった。医者や看護婦の動きややり取りを見ていると日野原先生が言う対等の関係である。あの話が徹底している病院だなと思った。いい病院に来たのだ。若い先生達の問診があり、メインの医者はテレビに出ている俳優より格好がいい。「あなたは今、命にかかわる状態です」といい、エコーで心臓の動きを私に見せる。確かに心臓は足をひきずるような動きである。タンカで治療室に運ばれ、心臓の血管の映像がスクリーンに大きく映し出される。患者もその映像を見ながら治療を受けているのである。
 集中治療室に移された。面会の家族もさり、医者もいなくなった。看護婦が十五分毎に血圧を測りに来る。私の耳の奥で、まるで耳鳴りのように日野原先生のテープが回る。あの催眠術師のような声がする。「医療関係者はやることはやりました。あとは、患者さんであるあなた、あなたがやるんですよ」
 
 入院は一ヶ月だった。何人かの患者さんと親しくなった。再発の人もいた。何故、その人は再発したのか、観察した。体重がもとに戻っているのである。年がいくのは避けられないが、体重管理なら出来る。食事と運動の管理である。入院する二週間前にやはりテープ起こしのバイトをやっていた。その内容は栄養士さんの話で運動選手に栄養指導をするのである。その栄養士さんはプロ野球の選手のアドバイザーもやっていた。「女のくせに生意気だ!」と言われながらもスポーツ・コーチとけんかしながらやってますと言う。昔ながらの精神主義を振りかざす頭の硬い人がいるという。どうやら私と同世代のようだ。テープを起こしながら、生意気な栄養士さんにお目にかかりたいと思った。その願いは実現した。そして、生意気な栄養士さんのアドバイスを実行して、今、ダイエットを継続している。



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