ガードマンのつづる日常

2011/06/23(木)05:56

小笠原諸島が日本領になる要因

【皐月22・己酉・Donnerstag】 【年表】2000年前以降? 北硫黄島に先史人集団が定住もしくは漂着(石野遺跡)。父島大根山にも先史人居住?(大根山遺跡)。 9世紀~16世紀? マリアナ先史人(ラッテ人)、北硫黄島・父島・八丈島などに漂着?、磨製円筒石斧を遺す。 1543年(天文12) スペイン船サン=ホワン号、火山列島発見? 1639年(寛永16) オランダ船エンゲル号とフラフト号、小笠原群島発見? 1670年(寛文10) 遠州灘で遭難したミカン船が母島に漂着。父島・聟島経由で八丈島に生還。 1675年(延宝3) 徳川幕府、4~6月に探検隊を派遣。測量後に地図を作製。 1702年(元禄15) スペイン船ロザリオ号、西之島発見。ロザリオ島と命名。 1727年(享保12) 元長崎オランダ商館医師ケンペル、著書「日本誌」中で無人島(小笠原)を紹介。 1774年(安永3) 八丈島から幕府の探検隊が小笠原へ出帆するが、鳥島近海の暴雨風で吹き戻され失敗。 1784年(天明4) クック探検隊のゴア、硫黄島を発見。(1779年説もある。) 1785年(天明5) 林子平、小笠原を「無人島」として紹介した『三国通覧図説』を出版。 1823年(文政6) 英国捕鯨船、母島に寄港。以後、各国の北太平洋捕鯨船の寄港地となる。 1827年(文政10) 英国測量船ブロッサム号、小笠原諸島の測量を行う。 1830年(天保元) 白人5名、ハワイ先住民約20名が父島来島、定住を始める。 1837年(天保8) 田原藩家老の渡辺華山が小笠原視察を願い出るが、藩に却下される。英軍艦ラリィー号、西之島の調査を行う。 1840年(天保11) 鹿島灘で遭難した6人乗りの中吉丸が父島に漂着。島民の支援で銚子に生還。 1847年(弘化4) 米捕鯨船フランクリン号、父島に寄港(副船長はジョン万次郎) 1853年(嘉永6) 6月、ペリー提督、沖縄より父島に寄港、石炭補給所用地を獲得。 7月、ロシアのプチャーチン提督、父島寄港。 1861年(文久元) 外国奉行水野忠徳、咸臨丸で来島、日本の領有と欧米系住民の保護を宣言。 1862年(文久2) 幕府の支援を受け、八丈島などから日本人の入植始まる。 1863年(文久3) 前年の生麦事件の影響で国際緊張が高まり、日本人入植者は小笠原から撤収。 1875年(明治8) 外務省の調査団が明治丸で来島、欧米系住民、日本所管となることを諒承。 1876年(明治9) 7月、日本政府、37名の移民を送り、扇浦に仮庁舎設置。 10月、小笠原が日本領土であることを諸外国に宣言。 年3回の横浜~父島の航路が開設される。 1879年(明治12) 南鳥島への探検が行われる。 1880年(明治13) 小笠原群島の管轄が内務省から東京府に移される。 1886年(明治19) 小笠原島庁を設置し島司を置く。父島~母島の連絡船就航。 1887年(明治20) 東京府知事らが小笠原・硫黄島を視察。当時の小笠原人口は498人。二見港大村突堤完成。 1889年(明治22) 硫黄島に父島から8人の漁師が上陸。鰹・鱶漁を行うが、食糧不足および母船の遭難により挫折。 1890年(明治23) 父島製糖組合設立、サトウキビ栽培が本格化。 1891年(明治24) 9月、火山列島、正式に日本領となる。 1893年(明治26) 硫黄島で硫黄の採掘始まる。 1896年(明治29) 母島より20名が南鳥島に移住。 1898年(明治31) 南鳥島、小笠原島庁の所管となる。この頃までに小笠原諸島への入植者が4000名を超える。 1899年(明治32) 横浜~父島便が年12便となる。後に24便となり、6便が硫黄島まで航路を延長。さらに年に1回、遭難者捜索のため南硫黄島へも定期船が向かった。父島~母島の定期船が月2便就航。北硫黄島への入植始まる。 ********  当時の国際情勢、イギリスは南アで動けなかったし、アメリカは南北戦争だった。また、幕府の背後にフランスが居た。諸事情、日本に有利だった。 【平成23・辛卯・午の月・夏至(乃東枯)】

続きを読む

総合記事ランキング

もっと見る