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rainywoods2001

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2005.01.10
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カテゴリ:カテゴリ未分類
ずっと読みたかったが 「頼子のために」以降の長編を読んでからにしようか どうしようか と迷っていたけど 先に読んでしまった。わお。

去年末にでたベストミステリーのガイド「このミス」「本ミス」ダブル一位という ミステリ通には えらく愛されている作品だが
両誌のほめかたは 的をえているとは思えない。
また ネットでの評判をみてみると、
なんだこれはー、一見テレビでやってる2時間ミステリ風ではないか という不評もあるようですが。それは ずいぶん損をしている、おもしろい読み方があるのです。

ドぎついタイトルに反し 前半は誰も死なず。小説内で登場する芸術作品のなぞときがクールに展開される。この解読部分だけでも充分面白いのだが、
それが 後半の肉親をめぐる犯罪悲劇のなぞとき と絡まりあい、
ついには この小説内の芸術作品の全貌と この概念芸術のような探偵小説としての作品が ある一点で収束し 同時に完成するさまは 実にスリリング。

おそらく 中心コンセプトは「複製」 なのだろう。
ベンヤミンの評論などにつうじていると
なおさら面白く読めのではないかと思います。

彫刻家・川島伊作が病をおして取り組んでいた遺作は、その娘、江知佳をモデルにした全身石膏像であるらしい。
しかし伊作がついに倒れ ベールをぬいだ遺作には 
なんと首が無かった。
何者かが持ち去ったのか、もともと そういう作品なのか。

この遺作のコンセプトは 伊作の過去の名作であり、
当時、江知佳を懐妊した妻・律子をモデルにした像と対をなす鏡像のような作品であるはずだった。いったいどのような意味での対なのか。それがポイントになっている。

現在 この律子は伊作とは不倫が原因で離婚し 伊作の葬儀にも顔をみせず、江知佳とも会おうとしないという因縁がある。

この小説のおもしろさは 大脱線かとも思える現代芸術談義。
伊作というアーティストは 実在したアーティスト、ジョージ・シーガルの日本版、和製シーガルといわれているという設定になっている。
シーガルは 生身の人間から直接、石膏像をかたどるという革新的技法で有名であり 現代の群集としての人を表現しえたという。 伊作もその技法を使っている。
したがって 和製シーガルを意識していた伊作の最後の作品のおおまかな企画は いくつもの「複製」の対、{人体:石膏、シーガル:伊作、母:娘、過去:現在}が重畳した概念芸術のようであるのだが・・・。

だんだん ネタバレにちかくなるので ご注意。

もうひとつ 小説冒頭で 探偵綸太郎が訪れた後輩写真家のある個展のコンセプト解説があり これも 伊作の最後の作品がなんであったかのヒントとなる重要な対となっている。
もともと写真芸術は 複製芸術のさきがけであるが ブラインド・フェイスと名づけられた この架空の写真展では 被写体のモデルが見ることのできない目をしっかり閉じたモデル自身の鏡像というコンセプトをもっている。その点を やはりこの個展におとずれた江知佳も おもしろがるのだった。
なぜかといえば 石膏どり技法でも モデルは目をつむっていなければならないからだ。

ここから先は ちょっと 超舌足らず 駆け足な説明になってしまうが
ご容赦を。

小説家法月綸太郎は作品内で ベンヤミンの命名した「複製技術時代の芸術」の核心をひねる作品を 2つも 仕上げているのだからうなってしまう。
モデルにとって目をつむった自己像とは、鏡像をみるようなナルシスティックな自己像とはちがう 複製技術時代にふさわしい似たり寄ったりの群集のひとりである自己像ではないか。 

ところで 3つめの 探偵小説自身もまた 複製技術時代の芸術感をとりこんだ芸術ともいえる。

ここでも 探偵小説の発生を論じたベンヤミンの名が思い浮かぶ 
「探偵小説の根源的な社会的内容は、大都市の群衆の中で個人の痕跡が消えることである」というベンヤミンのテーゼは 笠井潔などが発展させ、群集性への抵抗としての探偵小説、さらにそういう古典的探偵小説批判としてのアンチ・ミステリへとつながっていく。

つまりは かけがえのない一個の芸術作品、と、かけがえのないひとりの個人は ペアであり、
複製技術時代の芸術と、大衆としての個人 は ペアなのだ。
ととりあえず 整理できる。
しかし 人は交換可能な大衆としての個人でありつつ 同時に やはりかけがえのない個人 であるのだから そこに 悩ましい葛藤があるのだろう。  
 
複製技術時代の芸術家であることを 意識していた伊作。
しかし 死期が近づくにつれ かけがえのない自分の人生の一回性をも意識せざるをえなかったのであろう。
それは作品のオリジナル性 独創性を
歪んだかたちで 表現し、やがてそれにも
敗北せざるをえない悲劇へと つながっていく。

ここで 小説家、法月綸太郎は 笠井潔「哲学者の密室」と同じく
特権的な死の夢想を批判する視線を共有しているばかりか、
伊作と同じく 和製クイーンか和製ロス・マクドナルドか知らないが 西洋の作家のフォロワーである自身へ向けた問いをも内包しているのでだろう。

悩める綸太郎が今回はみられないのが残念、という評をみかけたが
やっぱ このつたない感想の千倍ぐらい 悩んでるんだろうなー と思うのである。





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Last updated  2005.02.07 20:04:31
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