2005/04/28(木)19:54
花咲く乙女たちのキンピラゴボウ 橋本 治
マンガ評論本。河出文庫。
初出 1979、北宋社。
目次
失われた水分を求めて―倉多江美論
眠りの中へ…―萩尾望都論
世界を変えた唇―大矢ちき論
妖精王国女皇紀―山岸凉子論
九十九里坂の海賊の家―江口寿史論+鴨川つばめ論
優しいポルノグラフィー―陸奥A子論
それでも地球は、廻っているのだ!―土田よしこ論
全面肯定としての笑い―吾妻ひでお論
ハッピィエンドの女王―大島弓子論
・・・・・・・・・
LOVELESSにはまって それからやおい論を おっかけるうちに見つけた本。
マンガ、特に少女マンガはジェンダーの問題にいかにとりくんできたのか?
ということが 中島梓の評論を読んでるうちに たいへん気になってきた。
やおい、BLも そういう大きい少女マンガの流れのなかで見る必要があるのだろう。
「そして少女が直面するものは、人間とは即ち男でしかないという事実と、
女である自分は決して傍観者以外の何者にもなりえないのだという事実である。」
「少女マンガの内に甘やかな夢しか見ないものは、この先を読まぬがよい。少女達が甘やかな夢を見るということは、自らの肉体を持つことによってすべてから疎外されたままでいるということの証なのだから。そのことをなおざりにしてこの先に進むことは出来ない」(山岸涼子論より)
1979年の時点で こういうことが わかっていた男性がいったい何人いたのかなあ。橋本治おそるべしっ。
だいたい 多くの作家が少女マンガの始祖としてあげる、手塚治虫の『リボンの騎士』からして、読者少女達のうけている性の圧迫感を考えることなしに なにも言えないのだろう。身体は女性であっても魂は男と女の双方を持っている主人公がなぜに人気があったのか(しかしながら そして 最後には なんだ やっぱり結婚してしまうのかと 少なからぬ女性読者が がっくっししたらしい)
大島弓子、萩尾望都、山岸涼子など いわゆる「花の24年組」(昭和24年前後の生まれからそうよばれる)という 少女マンガの世界に テーマ、表現におおきな変革をもたらした作家論がおおいのもうれしい。