わたしのブログ
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ラジオ村のブログを見てみて下さい。毎日「あんなこと こんあこと」と云うタイトルで書いています。 ----- Original Message ----- From: > To: ??????@lagoon.ocn.ne.jp> Sent: Friday, July 15, 2011 11:17 AM Subject: 15日の日記
2011.07.15
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いままで このブログで書いていましたが次回からは http://d.hatena.ne.jp/irajiomura/ に書いて行こうと思っていますので今後は上のアドレスにアクセスをお願いします 又はグウグルで「ラジオ村」を検索し、”小松一三の公式ブログ”を開くと新しいホームーページの案内が出ていますので そこをクリックすると簡単に見ることが出来ます。以後、その新しいページをご覧になって下さい。どうぞよろしく!
2009.07.11
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ひさしぶりに福岡の町を時間があったのでぶらぶらしてみたが、ウイークデーと言うこともあったが、どこに行っても圧倒的に女性、町を闊歩しているのは女性だ。デパートのブチックにしても、女性の買い物客でいっぱいだ。<不況とはいえ結構買い物を楽しんでいる姿があちこちにあった。喫茶店にしても赤ん坊を抱いたお母さんのトグループとかお孫さんを連れた3世代親子(女性ばかりだが)の姿など、けっして裕福とまでは言えないが、のんびりとお茶を楽しんでいるのは女性がほとんだ。/span><お店側からいってもそうだが、女性が来る店でないと繁盛しないと言われているがまさにその通りで、会話を楽しむのは女性のほうがうまうい。男性はタバコを吸うために立ち寄ると言う感じで、時間を楽しむのではない。女性は時間をもてあましているわけではなく、うまく時間を有効に使っていると私は思っている。私自身は時々こうしたゆったりした時間を持つことが好きで、椅子に座って外を漠然と眺めたり、人物観察などをするのが好きだ。今回はそれを存分にやってきた。
平成10年の4月から八代市のコミュニテイーFMで番組を開拓する事がきまった。4月から朝9時30分から正午までのワイド番組「こちら九州ラジオ村」を復活させる形でのスタートだった。中味はほとんど一緒で、聴取者にどんどん参加してもらう体制も全く同じ、RKKと比べて放送が届く地域が狭いのでより親密に出来る。早速八代市内を私の車にはスピーカーが付いているので、それで宣伝に廻ったところかないの反応がありうれしかった。<そこここの家の中から声がかかり、その家を訪問させてもらい早速交流が生まれた。/pre><私はもともとこうした交流をしながら聴取者と共にラジオ番組を作って行きたかったので、理想に近い形態になっていった。ほとによったらラジオを聞いているほとんどの人と顔が見え、心が通じあえる関係になれば・・・、そんな事はあり得ないことだが理想だ。<番組のコーナーへもどしどし一般の人を登場させるようにしていった。いろんな生活があり、”ここに人生あり”と言うようなコーナーを設けて10日くらいの連続ものにして一人の人の人生を語ってもらう番組作りをした。これが結構好評で、波乱万丈の女性の記録とか、ご飯よりビールが好きと言う奥さんの物語とか、それはポピュラーな話題の主が次々と登場し、こちらも楽しかった。こうして次第に番組は定着し、放送時間も朝9時から11時までの2時間番組に成長していった。
この間あるショピングセンターで男物のイタリー製ベルトを買っていざ家に帰りはめてみようとよく見るとなんと裏に”中国製”と書いてあるではないか!イタリーのメーカーには違いないのだが(もっとも奉仕品を買ったのだが)メーカーが中国の工場に以来して作ったと言うことだろう。ウソではない。ユニクロにしても日本のメーカーだが生地、縫製は全て中国であり、果たしてこれを日本製と言えるのか?こう考えると私たちは今やこうした社会の中で暮らしており、すべて与えられた物の中で生活し、言ってみればまさに管理された社会の中でほそぼそと暮らしているだけだ。お隣り韓国ではコンピューターにハッカーが進入したと言うニュースが伝えられたがついに便利なものにあぐらをかいているとどんた目に会うかわからない時代に突入したと思う。銀行の通帳から知らぬ間にお金が引き落としされていたなんて言うことがあたりまえの時代になりはせぬかと心配している。おっとそのお金が私にはなかったか・・・・・・。
2009.07.10
平成9年のイギリス・ロンドンの旅もたっぷり一週間滞在と言う日程で出掛けた。ヨーロッパと言えば”B&B”と言われるくらい気軽に泊まれる宿としてもてはやされていたものだが、(ベッド&ブレックフアーストと言うくらい朝食しか付いていない言ってみれば素泊まり宿)どうしてどうして料金が高くなったこと!下手をするとビジネスホテルに泊まったほうが設備が良いほど。こうした宿はほとんどが個人で経営しているので我が家の一部を提供している感じだったが、今や風呂なしアパートみたいな施設で一泊1万円くらい取る。日本からの旅行者が値段を吊り上げてしまったようだ。何泊もして親しく付き合いをすると言うタッチで泊まる事が多かったのだが、ただ安く泊まれると言うことで利用している間に段々値段が釣り上がってしまったようだ。私の場合は二軒をはしごしてみたが、そんなに居心地の良い宿ではなかった。これが残念だ。市の中心部のトラフアルガー広場は観光客が必ず行くところだが、鳩に餌をやるので鳩が集まり過ぎ、鳩の糞だらけで清掃人は困っていた。どこの観光地でも同じだろうが困ったものだ。テームズ川沿いの元倉庫群に出来たしゃれた店はどこの町へ行ってもある施設でロンドンらしい雰囲気はなくがっかり、ロンドンブリッジに登り見学しようとしたら、料金所で「あなたは老人割引です!」と言われたのにはびっくり、正確には当時私は63歳だったが老人割引は60歳から、見事に見抜かれうれしいやら、寂しいやら・・・。また、フランスでもイギリスでもそうだが、ヨーロッパの鉄道は行き先別に発着駅が異なり、それぞれ立派な駅舎があるがこれがそれぞれ建築にこっておりすばらしい。しかしヨーロスターの出現によって、高速鉄道の駅を付随させたので一部近代的なプラットホームにしたおかげで古い駅舎にアンバランスなホームが接ぎたしされていたのにはがっかり。しかしさすが石の文化圏だけあって簡単には改造出来ないために、道路にしろ建物にしろ昔のままのものが今も存在している姿はうれしい。土地の人にとってはやっかいで不便な部分もあろうがこれぞヨーロッパがそこに永久に存在するであろうと思うとうれしくなる。
久しぶりに飛行機の中から月を見た。なんにも妨害されずに月のみを見るということはめったにないので、それなりにのんびり気分を味合った。我が家へ帰る途中、今度は列車の中からの月だったが、月に見られての旅だ。丁度満月だったこともあってきれいだった。じめじめした梅雨の間の満月は心をすっきりさせてくれると思った。夜外に出ると何故か空を見上げるようになった。雨模様では月が見えるはずはないが・・・・・。
2009.07.09
平成10年めったに長期の時間が取れる事はないと思い、イタリー・ローマとイギリス・ロンドンへ出掛けることにした。ローマはは20年ぶり、ロンドンは初めての旅だった。どちらも一週間をかけての旅だった。さすがヨーロッパ、石の文化圏だけあってその姿は20年前とほとんど変わっていない。ローマ空港とローマ駅の間は直通列車が走り便利になったし、ローマ駅前も多少スマートにはなったがドーム型の駅舎は昔のままだし、映画「終着駅」で登場した駅そのもの、「ローマの休日」に登場したスペイン広場も、トレビの泉ももちろんそのまま、変わるはずがない。立派な建造物だし、さすが便利になったのは、あの狭いむかいのままの道路で車社会に突入したので、ちょっと路地に入ると駐車違反の車で通りにくいこと、それを計算して小型のミニバス(15人も乗れば満員と言うバス)を開発、何本の路線を走らせ、何処へ行くにもこのバスを利用すれば主な観光地を廻ることが出来るシステムにしていたが、さすが観光都市と思った。しかも市民にとってもどんな狭い路地にも入りこむので便利であり、サラリーマンやOLも市内の移動に利用しており、夜は家族で町をぶらつくにも便利でタクシーより安く大活躍だ。狭い道路を逆手に取ったバスの開発と言う点では大都市だけにうまくいっていると思った。ホテルの近くのピザ屋さんとすっかり仲良くなり、アフリカ系の黒人の叔母さんが経営していたが、おいしいので大人気の店で昼などは行列が出来てなかなか買えないほど、その叔母さんからここへ行きなさいとアドバイスを受けていろいろな店を紹介してもらい、おいしいコーヒーの店、イタリーらしいテイーシャツを売っている店などへ立ち寄り、すっかり現地人になったような感じで一週間を過ごしてきた。
久しぶりの香港旅行だったが、たのしかった。とにかく蒸し暑かったのと、やたらと驟雨に襲われたのには参ったが、のんびりと時間を過ごすことが出来た。下町の庶民の市場を覗いて日本では食べられない、いろいろな果物を買って食べたり、公園を散歩したり、さすが南国、もうセミが鳴いていた。人手があるので公園の整備は良く行きとどいており気持ちよかった。今回は病後の気分転換の意味もあったので、のんびり気分の旅で気持ちよかった。とにかく中国に返還されてからは当然のことながら、圧倒的に中国語の社会になり、イギリスの統治時代のように英語が通用しなくなったのには困った。今度は中国語を勉強せねばと思った。
2009.07.08
平成7年に熊本放送ラジオの「こちら九州ラジオ村」を首になってからの10年間が一番つらい時期だったといえるだろう。確かに平成10年から2年間は八代市で、コミュニテイーFMの仕事をしたが、ビル内の駐車場管理の仕事をしたり、運転代行の仕事をしたり、喫茶店&レストランの運営をやったりとそれぞれ勉強にはなったがなにか中途半端な感じがしていた時期だった。ビルの駐車場管理の仕事の時は、ビル全体の管理も任されていたので、屋上の貯水タンクの水漏れはないか、各部屋なカギは完全にしめられているが、空調は正常に動いているかなどの管理までやらされていたので、それぞれの会社の担当者などとのお付き合いがあったのだが、中には若い管理職なのに、人を見くびった扱いをしたりする人がいたりしていやな思いをしたこともあった。いわゆる”そんな仕事をやっているやつか・・・”という扱いをするわけだ。嫌な人間模様を見せられた。逆に運転代行の時は、山鹿市でやったので、山鹿の人間関係模様がわかり、びっくりした。どこの誰が、どこの誰と親しいと言うのが簡単にわかるのだ。しかしこの間は収入が少なく、特に喫茶店は大赤字だったので、それを補うために借金をせねばならず、サラリーマン金融からの借金が増えると言う、とんでもない経験もした。結局はこれを解消するために東京のわずかな財産を処分せなばならなくなり、平成21年から極端に言えば人生再出発だ。
今回の香港旅行だが蒸し暑いこと!シャワー(にわか雨)は毎日すごかったが、とにかく人、人、人の町で、高層住宅ばかりしかないと言っても言いすぎでないほどビルは空に向かって伸びており、そこの人たちが吐き出されてくるのだから当然だろう、今回は日曜日と言うこともあり市内の中心部にはフイリッピン人のメイドさんの姿が目立ち、彼女たちはなるべくお金をかけないで過ごそうと、ビルの階段、歩道橋(雨模様だったので)などの通路の端にたむろしておしゃべりを楽しんでいた。その数の凄さ、フイリピン人の海外での出稼ぎの多さにも驚く。長い人は10年以上も金持ちの家でのメイドとして働いており、若い人からかなりの年配までウイークデーは一生懸命働いているのだろう。最近は携帯電話があるので、雨に日は公園のたむろするわけにはいかないので、電話で連絡を取りながら、雨宿りが出来る場所でたむろしているのだろう。夜遅くまで会話を楽しむ姿があちこちにあった。これはシンガポールでも同じだが生活の知恵としえ先輩たちから受け継がれてきた行動パターンなのだろう。今回は庶民の市場で日本にはない野菜や果物を目にすると同時に、特に果物はバナナにしろ、何だかわからない果物も食べてみた。結構おいしい果物が豊富にあり、しかも安いので、うらやましいくらいだ。肉にしろ、魚にしろ新鮮なものばかりで、これがその日のうちに売れるので、極端に言えば冷蔵庫はいらないほど、今市場に着いた魚が生簀から飛び出してぴちぴちとはねる姿を見て、まさに漁港にいる感じだ。鶏にしてもこちらは生きたまま売っているのですごい。すべてが管理されたような感じで売られちる日本の姿がはたしてそれでようにだろうかといつもこうした風景を見て思う。
2009.07.07
平成9年はその他、再び台湾を訪れ、最後にハワイへの息抜き旅行で閉めくくった。台湾も留学生との交流から始まって、その人を通じて台湾の庶民の生活を覗かせtもらうのが目的だった。旅行者では行けないような市場とか、食べ物屋とか、大学の設備の様子とかいろり見学させてもらった。とにかく車よりまだまだ単車が圧倒的に多く、その廃棄ガスと騒音のものすごさ、これもかつての中国本土(ペキン、上海など)での自転車のものすごさに指摘するオートバイラッシュ「で、庶民の活気を感じて帰ってきた。ハワイはのんびりとヤシの葉陰で読書と言う日々、海岸べりの砂浜での空を仰いでのゆったりとした生活だったが、犬の散歩に来る人、ジョギングを楽しむ老夫婦とか、結構若い女性が健康のためか三々五々半パンツで自転車で公園を何周もしたり、住宅地の小さな店に集まって井戸端会議をしながらパンと軽い飲み物で朝を過ごしたり、ハワイ大学の図書館で本を読む姿が多かった。当時はまだバスの料金がべらぼうに安く、どこまで乗っても1ドルだったので、気軽に出掛けることが出来るし、車椅子でもバスに簡単に乗れるので、出掛けるお年寄りも多く、良いことだと思った。車社会とはいえ、庶民の生活をよく考えた政策が行なわれているなと感じがした。、
今回久しぶりに熊本市内のダイエイスーパーへ行く機会があり覗いてきたが、いかに物が売れないかを身にしみて感じた。真昼間の1時ころ、お客の数もそんなに多くないのに、なんと衣料品、シャツ、下着、ブラウスなどを半額セールしているではないか!それでもお客はほとんど集まらない。店員ほ声をからして「タイムサービス 半額セールです!!」と叫んでいる。世の中デフレだと言われているがまさにその通り、ガソリンばかりがじわじわと値上がりしている。政局もどうなるかわからないが、民意を反映しない政府ではどうにもならず、一日も早く選挙をやるべきだ。公明党の要求ばかりが先行している印象を受けるが、何故自民党は国民を見るのではなく、公明党ばかりを気にするのか!どんな状況であれ、内閣が大きく改造されたら民意を問うのは当然のことではなかろうか!私自身は自民党支持者でもなければ、民主党支持者でもない。とにかく庶民が安心して暮らせるにはどうすればいいかを真剣に考えてほしいと思っているだけだ。上の方で勝手なことをやるのは許せない。ここは民意を聞かねばならない時期にきている、。どっちが勝った負けるではない。負けたら反省すればいいではないか!なんとか勝つために相手の弱点を利用してもパンチを加えさせてやるなんていうこすいやり方はやめてもらいたい。堂々と戦い、負けたら反省すればいいのだ。数で勝った負けるではない!今のままではいけないのだ!
2009.07.03
平成9年のカナダ・ビクトリアの旅は勿論初めてだったが、バンクーバーから大きなフエリーボートで行くわけだが、ここですでに観光客相手の船だと言う事がはっきりわかるほど船のなかは会的で、大きな食堂があり、バイキングスタイルで沿岸の景色をたのしめるようになっている。その沿岸の景色も素朴でのんびりライフを楽しめるようになっている。一歩市内に入ると道路はよく整備されており、馬車は走るしのどかな光景だ。水上飛行機による空からの観光も盛んで、モーテルもこじんまりして小奇麗なものがたくさんあり、設備も結構しかりしていた。夜になって驚いたのは、なんと州議会の議事堂がイルミネーションで飾られ、夜空に浮かびあがるようになっているではないか!港の入り口ではストリートミユージシャンがいろりおな演奏を聞かせてくれるし、私の行った時はなんとアアプライトのピアノを持ち込んで老齢の男性ミユージシャンがジャズを演奏していた。決して上手ではないが、ムードがあって盛り上がる。アメリカ大陸が見える公園のある海岸に行くと天気がよければ大陸の山々も見えて景色抜群だ。まさにまち全体が観光都市そのもので、歩いて庭園めぐりをしたりいろいろ楽しめるからよい。喫茶店などもしゃれた店が多くさすが紅茶がおいしかった。(本日より来週月曜日、7月6日まで香港取材のためこのブログを休みます。あしからず、また火曜日からよろしく!)
新聞は読むがテレビはほとんど見ない生活になって何年になるだろう、15年以上の月日が経つ。べつに不便を感じない。ただどんなタレント、俳優、歌手が活躍しているか全くわからない。しかしスポーツ新聞は読んでいるので、話題の人の顔くらいはわkっているし、音楽もたまたま放送の仕事をしているので聞こえてくるのでどうにかそれなりに知っている。どうしてこうなったかと言うと、どこの放送局もみんな同じ内容のような気がして、考えることをストップしかねないので、活字ならばわからなければ何度も読み返すことが出来るし考えたい問題には突っ込んで対応できるからだ。したがって一日の新聞を読む時間は長い。現在8紙読んでいるので3~4時間はたっぷりかかる。しかし読むということは刺激を受けることであり、考えさせられる。じっくり読む記事は切り取るので部屋中に新聞の切れ端がころがっている。世の中を考えるヒントが一杯詰まっておりたのしい時間なので読むのに苦痛はない。これからもこんな生活が続くのだろう・・・・。
2009.07.02
カナダへは行ったことがないので機会がればと思っていたところまたまた安いキップがあると言うので参加することにした。平成9年の10月のことだ。もうかなり寒い季節になっていた。今回はバンクーバー、ウイスラー、ビクトリアを廻った。バンクーバーの町はこじんまりとしたきれいな町だった。郊外の高級住宅地の近くにはエリザベス公園がり、バンクーバーの市街を一望に見渡せるロケイションで、市民の憩いの場所としても利用されており、広場を利用して青空結婚式が行なわれていた。これほどの緑の空間が町の中にあるのはらやましい。芝生も手入れがよくできており気持ちよかった。ウイスラーは冬季オリンピック大会が催されたところでさすがに設備は整っており、ゲレンデも広く気持ちよくスキーが出来るところだ。まだその季節には少し早かったので丁度スキーリフトの試運転が行な割れていた時で、ウイスラーの動く観光パンフレットを見ているような感じだった。山越えのスキーコースもあり、夏はマウンテンバイク、あるいは自転車で山越えが出来るそうで楽しいコースだ。さすがに広い国だけあり、存分に楽しめるようになっていた。ただこうした観光施設だけにホテルは割高だが、設備は整っていた。しかしスキーを楽しむ人にはお薦めの場所であることは間違いない。うっそうとした森に囲まれアフタースキーを楽しむのにこんなによいところはない。
イギリスから中国に返還されて12年が経つというホンコンに久しぶりに出掛けようと思う。反中国から経済の安定を求めるという考えに変わったと言う庶民の気持ち、それがどういう風に変わったかを見てみたい。確かに庶民の生活レベルは上がったように感じた。浮浪者の数は少なくなった。日曜日に香港島の中心部にはプイリッピンからの出稼ぎ女性(金持ちの家の家政婦として働いている人たち)がたむろしている公園があり、金をかけずに休日を楽しめるように若者の奉仕者がカラオケ大会を催したりしてもてなしていたが良いことだ。社会でそうした人を手助けしようと頑張ている姿を見るとうれしくなる。お互いが困っている時は助ける、行政に頼ることなく助け合いの精神が生まれるということが大切だと思う。民主主義社会、共産主義社会関係ない。庶民が優雅でなくともそれなりに楽しく暮らせるようにする、みんなが望むところだ。そうしたなんでもない事の中からいろいろ学んできたい。
2009.07.01
平成9年のニューヨーク旅行は私にとっては初めての旅だった。たまたま安売りキップが手に入ったので、よし行ってにるか?と言う軽い気持ちでの旅だった。摩天楼の都市ではあるがマンハッタン地区はそんなに広い土地ではないので、ほとんど歩いて廻れたので、とにかく歩いた。各地にある小さな公園にはドッグランがり、そこここの公園には必ずリスがおり、動物と接する機会の多い都市と言う感じがした。こんな大都市だが街の真ん中には5車線の一方通行道路が走り、日曜日にはその道路が歩行者天国になる。やっと東京でも銀座通りがその真似をしているが、日常の生活の中でウイークデーと休日の生活をはっきり区別させようと言う考え、ふだんは便利を優先するが、休日は便利を排除し、道路本来の目的、もともと道路は人が歩くために作られたものだったが、車者気になりいつしか歩行者(人間)が隅に追いやられてしまったわけで、それを取り戻そうと言う試み、当然の事だ。またセントラル・パークにも行ってみたが三々五々それぞれに公園を楽しんでおり、日曜日には公園の一角にアンデルセン広場と言うのが設けてあり、子供のためのアンデルセン童話を女性の奉仕者が読み聞かせをやったりしており講演のあり方を考えさせられた。さらに行ってみなければわからないものだが、セントラルパークは広いので観光客のために馬車が用意してあり、足に自信がない人はそれをりようしているが、そのためその馬糞の臭いがそこいらへんに漂っているではないか!わたしにとってセントラル・パークは”馬糞の臭い”のするところとう印象を持った。いずれにしても活気のある町であることは間違いない。ローラースケートで書類などを運ぶポーターの姿あり、金融街はそれなりの身なりをした人がせわしなく行き来している。けたたましいサイレンの音がひっきりなしに町を行きかう、日曜日となると必ずと言ってもよいくらい何処かで祭りがあり、音楽隊のパレードが町を賑ぎわす。庶民にとっても観光客にとっても楽しい町だ。
早いものでもう半年が過ぎた。なにをしてきたか?と思う。今回手術を受けて初めて健康の大切さを知った。病院にいるといかに大病の人が多くいるかがわかる。そして今回医学がいかに発達したかもわかった。手術前やたらと得た知識では手術前の麻酔の注射が大変だぞと言う忠告を受けたが、いざその段になると、麻酔の先生曰く、「いや。蚊が刺すくらいの感じですよ}と言うではないか!実際に体験すると、なるほど蚊が刺す、つまりほとんど何時刺したかわからないくらいのものだった。人間に対して少しでも負担を軽くしてやろうと言うことなのか、私のとってはありがたかった。何事も取材の対象となる職業をしているわけで、今回の体験は貴重なものだった。わざわざ進んで体験できるものではないので、考えさせられることが多かった。看護師さんの仕事が大変なこと、うわさには聞いていたが並大抵のものではない。その仲で常に患者さんと明るく接するということは大変なことだと思った。感謝、感謝だ。
2009.06.30
平成9年の台湾訪問は昭和34年以来正確には38年ぶり、初めて台湾の飛行場に降り立った時は飛行機にタラップを降りると、そこから飛行場の待合室までは絨緞が敷かれており、その両側には兵隊が鉄砲を持って監視している時代だった。中国と戦争状態だったからだろうが、ものものしい警戒だった。勿論町中のあちこちに兵隊がおり、日本の軍国主義が残っているような感じだった。それから40年近くも時が経っているので当然だが、しかしそんなに変わっているとは思えなかった。オートバイの多いのには驚いたが、これは東南アジアではどこもそうだし、映画館に活気があったのが印象的だった。ただ一つうれしかったのはリンゴの味だ。日本では果物にしろ、野菜にしろやたらと甘みの多い商品が多くなったが、台湾の庶民的な食堂に入って定食を頼みそこで出されたサービスのリンゴの味が昔の日本の味だったことだ。思わず「これがリンゴだ!!!」と口に出して喜んだのを覚えている。甘酸っぱいあの味なのだ。酸っぱさが消えた日本のリンゴだが思わずおかわりを要求したほどだ。何故こうした味がなくなってしまったのか?日本人の好みが変わったと言うが、やはりこうして台湾で食べてみると決して昔を偲んで食べているわけだはなく、リンゴを食べたと感じる味なのだ。これが大発見だった。もしかしたらこのリンゴを逆輸入したら売れるかもと思うほどだ。どこそこ行ってみないとわからないものだ。こうした物に接してこそ反省させられる事があると思った。
外では今かみなりが鳴り始めた。東南アジアのような驟雨が多い梅雨だ。しとしと降る雨こそ日本情緒の梅雨で、アジサイが映えるのだが、こう強い雨では情緒もへったくりもないような気がしてならない。しかしこう雨が降ると夜のカエルの合唱は賑やかだ。私は車の窓を開けて走るので、昨日の夜は家にたどり着くまでカエルの声を聞きっぱなしだった。田んぼには稲が植えられ、10センチほどの稲がきれいに整列している姿を見ると気持ちよい。まるでマンモス学校の校庭に小学生がきちんと整列する姿を想像し気持ちよいのだ。活気を感じる。今や少子化でそんな光景は姿を消してしまったのでこうした光景を見ると元気をもらえるような気がする。これからが梅雨末期の激しい雨の季節に入るのだろうが今年はどうなることか・・・・・。
2009.06.29
ラスベガスのダウンタウンの再開発の問題だが、ニュースで伝わっているほどうあmくはいっていなかった。ここに問題があるのだ。話題性ばかりを追求するので、再開発の参考例として取り上げられるが、実際には莫大な経費をかけてアーケードの天井を大スクリーンにして毎晩デジタル音楽ショーを見せているが、もともとはダウンタウンの賭博上に人を集め、ホテルに泊まってもらおうと言う企画だったが、確かにこれを見物に来る客は増えたが、そのほとんどは新しいストリップ道りに面した新ラスベガスに泊まっている客がショーを見るために観光バスで立ち寄るだけで、ギャンブル場に入るわけでもなく、食事をするわけでもなく、ショーの一部を見てせっせと帰ってしまっていると言うのが現実だ。集客力はあったが、一瞬の事で、ダウンタウン再生には至っていない。それもそのはずで、新しいラスベガスはまだ増築中で、次ぎから次ぎへと新しい建物が出来ている現状では旧ラスベガスは太刀打ち出来るわけがない。ラスベガス全体としては集客に成功したかもしれないが、新ラスベガスはギャンブルのみでなく、無料のショーを見たり、買い物、食事を楽しむべく女性を対象とした企画をぼんぼん打っておりかなうはずがない。ダウンタウンの魅力はわずかな金でも(1セントから)ギャンブルを楽しめるようにしてあり、昔の日本のパチンコと同じで、低所得者でも、黒人でも、気軽に楽しめ、うまくやれば一攫千金が入るというシステムになっていたが、よりきらびやかなギャンブル場が次々出来たので旅行者はそちらを好み、下町のギャンブル場には行きたがらない。したがってダウンタウンは寂れるばかりだ。町の再開発とは何かと言う問題だが、難しい。特に競争の激しいアメリカでは必然的に淘汰されるしかないと言うことがわかる。沙漠の上に作った楼閣は滅びるのも早く、朽ちた町の隣に新しい町が出来る事が再開発かもしれないと言う現実を見せられているような気がした。
ローアカルで生活していると車に頼らざるを得ないが、そこで車のマナーが気になる。一番目立つのはワインカーを出さずに急に曲がる人、あるいは曲がってからウインアカ-を出す人、駐車場で斜めに平気で止める人、狭い道で買い物のために平気で駐車する人、また、狭い道から出る時に大廻りで出てくるので正面衝突をしかねないような曲がり方をする人が多い事などだ。それに相変わらず携帯電話をしながら、それもひどいのになるとメールを打ちながらの運転、これは女性に多いような気がする。危険運転があまりにも多いので心配だ。運転中は運転に集中してほしいと思う。男性の場合はひどいのになると信号待ちの間、新聞を読んだり、マンガ本を読んだり、それがつい面白いのか運転中も盗み読んだりと危険きわまりない。こんな車の後についたときはまだ注意のしようがあるが、後ろから来る車がそんな状態の時は怖い。何時追突されるかと心配でならない。これから今日も出掛けるが運転は恐ろしいと思っている。
2009.06.28
平成9年3月で福岡KBCラジオの朝のワイド番組は終了した。当然の事だ。朝を開拓しようと言う発想はよかったのだが、生放送ではなく録音放送では迫力がなくだめだと思っていた。労働組合の関係で早朝勤務に問題があるということでそうなったのだが、ついに私の仕事はなくなってしまった。生きていく以上何か仕事をせねばならないので、たまたま佐賀県庁の農業改善検討会議なる委員の募集があり、興味があったので応募したところ合格し、その仕事と、福岡市内のビルの駐車場管理の仕事にありつけ、ほそぼそと暮らすことにして、この間こそエネルギーの供給期間と思い海外へ出掛けることにした。ソウル、サンフランシスコ、ラスベガス、プザン、台湾(2回)、ニューヨーク、バンクーバー、ウイスラー、ビクトリア、ハワイとそれぞれ目的は違うがこまめに歩くことにした出掛けた。こうした時でなければ出掛けることが出来ないので思いきって出掛けたのだ。サンフランシスコは久しぶりで、昭和41年以来の旅でフイッシャーマンズ広場はすっかり変わり、ケーブルカーがなければ何処の港町にもあるような風景になってしまっていたのが残念だった。港にアシカの群れが住み付き一種異様だったがそれが珍しいくらいで、魚の料理の味はべつに飛び出手いるというほどの味ではなかった。むしろ、ラスベガスが目的で、ここは昔の旧ギャンブル場が廃れたのでなんとか復活させようとアーケードの天井を莫大な金をかけて改良したというので、その結果を知りたくて今回はかなりの時間をかけてくわしく町を訪問することにした。・・・・
厚い日が續いている。この調子ではこの夏はどうなることか!ラニーニャ現象とやらで雨は少ないく、気温も上がらないとのことだが・・・・・。無事手術も終わり元気なったらまたどしどし海外を初めとして旅を続けようと思っている。私の仕事は常に刺激を受けることであり、特に自分の目で、肌で感じることをおしゃべりしようと思っているので、歩き廻ることは大切なことなのだ。近々にもホンコンへの旅で中国の矛盾を抱えた町の姿をチェクしたい。開放政策を取ってはいるがちぐはぐな部分があり、それとどうご対面して行くのか庶民の姿からそこを知りたいのだ。まだ雨季のホンコンだが雨は雨なりのホンコンで情緒がありそれなりの好きだ。特に今のホンコンはビルの中に歩道があるという作りになっているので中心部はほとんど傘がいらない、この町の作り方もたいしたものだと思っている。まだまだ町は再開発されており、香港島では東西をトンネルで貫通させ簡単に行き来できるようにしてしまったが七曲りの道より簡単だが情緒がなくなってしまった。なんでも先を急ぎ、結果を早く求める傾向の世の中だが私はどうかと思っている。
2009.06.27
昨日のこの欄が消えていたので、書き直します。平成8年の海外取材と言うか旅行は、いろいろなことを学んだ。プザンの国連墓地は何度行っても考えさせられる。アメリカは勿論のこと、イギリス、フランスなど遠くはアフリカの小さい国まで参戦して多くの兵士が死んでいる。その名前が刻まれた墓碑の前に立つと涙が出てくる。私たちの暮らしはこうした尊い命の上に成り立っているのだとつくずく思う。昨日活けたと思われる花がきれいに飾られており、仲間が国連記念日に合わせて大使館などを初めとして奉仕しているようだ。今でも世界各地で戦争は耐えないが、ここに来ると戦争のむごたらしさを痛切に感じる。近くの幼稚園児だろうか、先生と一緒にお墓参りをしていたがこの子の目にそれはどう映っていることか・・・・。それ以来プザンに行くとここを訪れ手を合わせたくなる。ほとんどの人はチャガルチ市場、国際市場、免税店などを訪れるがここへは行かないようだ。古墳、寺などへは立ち寄るが歴史を生で感じるこうしたところこそ身が引き締まり、私は好きだ。
下腹を切る手術を受けたので、下腹に地からがんまだ入らない。階段を上がるにも気を使って一段一段ずつ登る。しかし一日、一日と痛みは取れてきているようだ。でも疲れはすぐ出る。病人の大変さがわかった。私の場合は軽いほうで、これにめげていてはいけないと思っている。食欲はあり、何を食べてもおいしいので、あとは体力を回復させるように頑張るのみだ。病気をしなければ健康の大切さはわからないと言うが本当だと思った。身にしみて感じる。
2009.06.26
昨日手術後の検診で先生にばんそうこを取ってもらった。まだ怖くておフロに入れないでいる。と言うのも動くと皮膚がつっぱる感じがするし、ちくちく痛いので触ることが出来ないのだ。腹の中も鈍痛がする感じでいやなのだ。なにしろ初めての体験で戸惑うことばかり。しかし病院へ行って、自動血圧計、脈拍を量る機械があったのでそれを使うようになった。気になりだした。今回の結果は最高血圧は132、最低血圧は80.脈拍は68と出た。身長は2センチちじんだことをったしいろいろだ。私の生活に多少の変化が起こっているようだ。健康により気を付けるようになったみたい。
2009.06.25
平成8年だけでもソウル、ハワイ、フランス、スイス、プザンへ出掛けた。とにかく生のその国の姿を見るのが目的だ。ソウルは東京へ行くくらいなら、同じ都会と言う事で、外国の都会を味合っておこうと言う単純な発想、ハワイは観光ではなく、オアフ島の北に移住した日本人の足跡を知る事が目的、スイスはジュネーブからベルンに首都が変わってから訪問していなかったので、フランスもリヨンの再開発を知りたくて、と、それぞれ目的は違うがそれらを自分の目で確かめたいと言うのが狙いだ。ハワイも訪ねてみると、日本人の経営している店があちこちに残っているが、観光客はそこで独特のアイスクリームは食べても、その日本人たちの足跡を知ろうとはしない。墓は粗末なものて立て札みたいなものが立っているだけ、古い教会がぽつんと建っているが、そこの牧師さんがしっかり祖先を守ってくれているのだなと思うと頭がさがった。フランス・リヨンの再開発は日本の鹿児島と同じで、古いリヨン駅は勿論あるのだが、列車は新しいリヨン駅が終点なのでほとんどの人はその新しい駅で降ろされる。パリから列車で行くと古いリヨンは手前なのでそこを通り越して先の駅に連れて行かれるのだ。鹿児島の場合は逆で。古い鹿児島駅は先で、手前の新しい鹿児島中央駅で降りるという具合だが、古いリヨン駅のほうが情緒がり、昔のままの駅舎で雰囲気がある。また町そのものも古い町並みはそのまま残っているので私は満足できず、わざわざ古いリヨンまで地下鉄で戻り、その町の中のホテルに泊まった。リヨンを肌で感じるにはやはり古い町に浸らねば・・・・・・
初めての病院生活をして体力が衰え、思うように動くことが出来ない自分がくやしい。階段ひとつにしても一段一段ずつ登るもどかしさ、車を運転するにもシートベルトをゆるめて乗らないとキズ口にベルトが当たるのでベルトを片方の手で持っているので必然的に片手運転とならざるを得ない。ローアkルで生活する以上は車がないと時間がどんどん過ぎるし、おまけに今は体がにぶっているのでどうしても何をするにも時間がかかる、したがって車を使わざるを得ないのだ。健康が如何に大切かを身にしみて感じる今日このごろだ。
2009.06.24
平成7年から8年にかけての事だが、福岡のKBCラジオに救ってもらったと言てもよいだろう。KBCラジオもNHKに対抗してウイークデーの早朝のラジオの開拓を考えていたことは確かだが、たまたま私が福岡に乗り込んだのをきっかけに何か良いアイデイアはないか?と相談を受け企画を提出したのが、平成8年4月から始まった「朝はラジオいろ」と言う番組だ。早朝6時から7時までの番組だったと思う。あくまでも実験番組を言うことで始まったのだが、早朝のた労働組合との調節が出来ず、生放送をあきらめ録音放送でのスタートになった。特にワイド番組は生だからこその緊迫感が売りもので、聞く方としてもそれがないと物足りないのは事実だ。これだけを考えても不利な条件であることは承知の上でのスタートだった。NHKの「ラジオ深夜便」の人気はたいしたもので、それに打ち勝つにはかなりの努力がいる。試行錯誤の繰り返しだttが、残念なことに一年で終了と言う事になった。しかしこの体験は私にとっては貴重なもので後の放送に参考になった。とにかく自由業の身としてローカルで食べる、しかも60歳と言う年齢から考えるとなかなか仕事は見つからない。それもマスコミ関係の仕事のみを狙っているので大変だった。しかしこの時間は神が与えてくれた貴重な時間と思い自分なりの勉強をしようと思うようになった。時間と金が許す限り海外へ飛び出そうと思うようになっていった。幸い多少の貯えがあったのでここで投資をしなければと・・・・
生まれて初めての手術は無事終了したが、やはり腹を切ったのでそれなりの体への負担はあるようだ。70歳を超える年齢でもあるので回復力はやはりにぶい。また、体を動かすとやはりキズ口が痛い。こんな体験は初めてなのでいつまで続くやらちょと心配だ。階段の登り降りがきついし、歩くテンポも今までとは全く異なり遅い。車の運転をしているがシートベルトが丁度キズ口に当たるのでどうにもならない、片方の手でしかたがないのでベルトを持ち上げて緩めて運転をしている。立場が違うとこうもいろいろな問題が出てくるものだと言うことがわかったが、外から見たらわからにのでベルトをしていないと減点になるので無理をしてベルトを締めている。ラジオのおしゃべりの仕事をしているが、まだまだわkってないことが一杯あるなとつくずく思った。何事も体験と言うが手術なんて言うのはわざわざ体験するものではないので、たまたまそういうはめになって体験し不都合を知った。
2009.06.23
平成7年はRKKラジオを首になり、これからどうするか迷った時代だ。ラジオを通して多くの仲間が出来、そうした人たちとラジオを離れてお付き合いをしていたので、ラジオの仕事がなくなったので失礼します。と言う事は許されない状態だった。今まで通り町おこし、村おこしの運動は続けざるを得ず、11月初めの五木村”五木子守唄フエスタ”にはちゃんと顔を揃えた。森林組合のメンバーとはすっかり馴染みであり、秋のこの時期の五木の紅葉はすばらしく、一年に一回この会場で会う人と言うのも一杯おり、またここに通っていたからこそ、韓国の留学生とも親しくなり、それやこれやで、こうした付き合いをどうするかで悩んだ。熊本で生活出来るか心配でもあったし年齢を60歳になり、落第坊主ではそう簡単には次ぎの仕事は見つからないし、と。しかし捨てる神あらば、拾う神ありてゃよく言ったものだ。福岡のKBCラジオから声がかかり、11月から週4回、昼間のワイド番組の中で”ゲタを鳴らして小松が行く”と言う番組を受け持つことになった。RKK時代から私は普段からゲタの生活で靴はほとんど履くことはなく、何処に行くにもゲタの生活、それを生かして福岡県内をゲタで歩いてみようと言う企画だ。わざわざ私のために考えてくれた企画だ。ありがたい!こうして私の福岡通いが始まった。・・・・・(私はウイークデーの毎晩10時からインターネット・ラジオで「夜はともだち」と言うワイド番組を放送しています。時間があったら聞いてみて下さい。ラジオ村でアクセスすると私のホームページが出ますので、そこからお入り下さい)
改めて自己紹介をしておきます。実は私はウイークデーの毎晩10時からインターネット・ラジオで「夜はともだち」と言う60分の生放送をやっています。月曜日から金曜日までの毎晩で、まさに井戸端会議を狙った気軽な番組で、私が担当している地元熊本放送(RKKラジオ)の「こちら九州ラジオ村」延長線上のような番組で、チャットで参加していただいて、お茶でも飲みながら雑談をしよと言う番組です。聞く方法は”ラジオ村”で検索していただきますと私 小松一三の公式ホムページが現れます。そこからよる10時ちょと前の場合は”放送中”をクリックしていただくとすぐに繋がります。それ以外の時間はオンデマンドになっていますので、過去の放送は”こちら”と言うところをクリックしていただくといつでも都合のよい時に聞くことが出来ます。ただ、過去の放送を聞く時はお手数ですが、過去の放送は”こちら”をクリックして現れたページの真ん中より少し下のところに、”とりあえずこちらの方にアップしました”と言うところをもう一度クリックしていただくと最近の放送のデータが出てまいります。そこから選んでお聞き下さい。普段は一人で放送していますが、月曜日と金曜日は”つばきさん”と言う女性のアシスタントと一緒に放送しています。彼女はプロの美容師さんで、放送は初めてですが楽しくやっています。時間があったら聞いてみてください。そしてチャットのご参加ください。放送を聞く時もチャットを一緒に開いてお聞き下さい。参加をお待ちしています。
2009.06.22
平成7年は熊本県内、本渡市の商店街の活性化に協力しようと言うことになった時だ。本渡市は支店経済都市で、転勤族が多く暮らしていた。そうした人を相手の一杯めし屋などが結構あったが、支店を閉めるところが多くなり出張族も少なくなりさびれて行く傾向が出てきた時だった。その中の一人が食堂”かんべ”さんの夫婦だ。私も本渡へ行くと必ずこの店で食べるという習慣になっていた。大の”ラジオ村”フアンで、今も時々訪問している。こんなことから商店街の人たちととにかく一ヶ月に一回集まって勉強会をやろうと言うことになり、私も参考になるので参加することにして、つたない私の海外取材で得た世界の商店街の様子のビデオを見たり、お茶を飲みながら情報交換し、ヒントを探ろうと言う会が始まったのだ。毎月一回本渡まで通う旅が始まった。その間にも積極的な人は、代々金物やだったのに、店の一部を釣り道具屋にして模様替えをしたところ、これが当たってニコニコ顔になった人が出たり、この人の場合はたまたま釣りが好きで、いつも店を空けては釣り三昧をしていた男だったのだが、その趣味を生かしての成功例で、奥さんも大喜び、しかし、あまりにも惚れ込んで、商品を仕入れ過ぎて在庫が多くなり、結局は倒産してしまうなど、わずかの間にいろいろな事件が起こり、店を閉めるところが多くなってきた。こうなると深刻で会はなんとなく湿った雰囲気になっていった。勉強会と言うより明日を考えることの方に力を入れざるを得ず、真剣な会合になっていった。
初めての手術体験、心配したほどのことはなかったが、腹を切った以上やはりしばらくは痛いのだろう。我慢出きないほどではないが鈍痛と言うか、ちくちくと言うか、ちょっと動くと痛い。椅子に座る、立つのにこんなに運動しているのかと思うほどそれをやるのに時間がかかる。運転のために車に乗るのにも尻から入るという方法をとらないと痛くて乗れない。運転の体制に入るのにかなりの時間を要する。健康な間はそんな事考えたこともなかったがいざその場になってみてやっとわかった。70歳を過ぎての体験だ。口では健康は大切と思っていたがやはりその場に立たされてみて健康の大切さを身にしみて感じた次第。しかし病院に入ってみて世の中には病気で戦っている人が多いことがわかった。病室に寝ていても廊下を通して喘息をわずらっている人が気の毒に夜中の2~3時に発作を起こして苦しむ姿を見て、私などはたいした病気ではないなとつくずく思った。入院の間点滴がはずせない人もたくさんおり、私などは手術後はただ寝ているだけでよいと言う状態だったので、後半は三食、昼ね付きと言う生活だった。とにかく全てが初めての体験なのでここのところはすぐ疲れるのが気になる。ちょっと歩くだけでも、ちょっと動くだけでも面倒になるのだ。このパソコンを打つだけなのに長い文章は気になる。目もくたびれる。どうなることやら・・・・・
2009.06.21
昨日の続き・・・、ロスアンゼルスの旅だが10年前とかなりの差を感じたのは、もうすでにこの頃から貧富の落差が激しくなっていってる証拠ともい言える。リトル・東京の寂れていたことは昨日書いたが、当時宇宙船爆発事故で亡くなった日本人、鬼塚さんの銅像が中心部に建てられていたが、それすらも薄ら寒い気がしながら見上げたものだ。日本人の誇りとして眺めたかったのだが町の雰囲気としてそんな気持ちのはなれないものが漂っていた。ダウンタウンのデパートは廃業し、空き家になっていたし、中心部のホテルも決して賑会ってはいなかった。あるビルはブランドものメーカーのテイーシャツの縫製工場になっており、窓はすべてがベニヤ板で覆われその中で黒人労働者が何百人と働いていた。低所得者の代表みたいなものだ。かつてのダウンタウンの華やかな賑わいはない。粗末な服を着た人の方が多い。安売りスーパーのみが賑わっており、しゃれた店は姿を消していた。
平成7年の9月1日~6日までのロスアンゼルスの旅は10年ぶりの旅だったが、ダウンタウンの治安が悪くなったのには驚いた。あちこちの空きビルの窓は破れ、一部のビルは火事の痕があり、放火があびこっている様子をうかがわせた。長距離バス乗り場へ行くにも徒歩では危険と言うことで、ホテルのボーイは「タクシイーで行け・・・」と言うし、確かに空き地があちこちにあり、気軽にバスのターミナルには行ける状態ではなかった。リトル・東京もすっかりさびれてしまいかつての雰囲気はなく、なにか寂しい気がした。ただ、ロングビーチへ地下鉄(と言っても郊外は地上を走るが)で行ったが、思ったより治安は良かった。さらにびっくりしたのはさすが観光地、ロングビーチ市内はバスが無料で乗り放題で、それぞれの観光施設をバスが結んでおり多くの観光客はこれを利用していた。無料と言うところがありがたい。まさにカリフオルニアのスカイブルーの日で、青空のもとそれぞれに観光を楽しんでいたのが印象的だった。ニュースなどで知るロスアンゼルスと異なり、中心市街地は狭く、ちょと郊外で出ればほとんどの家が木造の平屋かせいぜい二階建ての家、ビル群はほとの中心部だけで、ニュースで見るロスは狭いものだ。歩いて楽しめる町だが治安が悪い所が多いのでむやみやたらには歩けないのが残念だ。また街中の一般レストランに入って驚くのはなんでも量が多いことだ。二人で入ってもりょうりは一人前で充分なのだが、なんとなく悪い気がして無理して二人前を頼むといやでも残してしまう。付け合わせのサラダにしても多すぎるのでもったいない。しかし向こうの若者はよく食べる、そんなことおかまいなし、大きなお皿の料理をペロっと食べてしまうからすごい!
2009.06.20
74歳にして初めての体験、腹を切るという手術を受け無事昨日退院しました。まだまだキズ痕はい痛く歩くのもおっくうと言う状態ですがどうやら普段の生活に戻れたと言うところです。点滴も生まれて初めて、手術も勿論初めて、すべて恐ろしいと思うことばかりでしたが、医学の進歩のお陰で、麻酔の注射にしてもほとんど痛さを感じずにすますことが出来、ほっとしているというところです。脊髄に注射と言うと、前はものすごく痛いと聞いていたが先生の言う如く「蚊が刺すくらいのことです」と言うことだったのですが、何時注射されたかもわからにほど手術中はなんいもわかりませんでした。しかし馴れない体験でやはり体力が消耗しているのか、ちょっとしたことですぐ疲れます。しかも動くとキズ痕が少し痛むので、歩くのもよちよち歩きといったところです。馴れるまでにはまだかなりの時間がいるような感じです。病院に入たおかげで平熱が36度5分、血圧は上が120くらい、下が70くらいと言うことを知り、機会があったら量っておこうと思うようになりました。とにかく病院嫌い、医者嫌いの私、自分の体について関心を持つことなどほとんどない身で、いけないとは思いながら過ごしてきたが、これからは少しは気にしようと思うようになった。
生まれて初めての体験、”入院生活”を約10日間しますので、20日までこのブログを休みます。20日から再開する予定です。どうぞよろしく!
2009.06.10
本日より19日まで入院のためこのブログを休みます。あしからず。20日より再開する予定です。
ひさしぶりにデパートの地下のいわゆる”でぱ地下”を覗いてきたが、よく見ると同じような惣菜屋が並んでいるだけで、店の数はあるが種類はそんなに多くないような気がした。確かに同じように見えても味は店により違うのだろうが、見た目には変わり映えしていないのでわたしは手が出ない感じだった。高齢化社会で一人暮らしの人が増え、惣菜を買う人が増えたのだろうが、まだまだ内容に工夫、変化を付ける事が必要ではないかと思った。”光の森”近くの大型スーパーでは多少割高になるが、惣菜の量にしても。野菜サラダの量、玉ねぎ、トマトなどを一個でも販売して人気を得ているが、これからはこうした対応が求められるだろう。わたしも現在一人暮らしなのでこうした販売には興味がある。
2009.06.09
ある日のパリでこことだ。北駅の近くのオープンカフエのベンチ椅子に3時間くらい座っていただろうか・・・、別に何かをするわけではない、だたぼんやりと町行く人、町の様子を見ているだけだ。近くに安売りのスーパがあるので、庶民が買い物にひっきりいなしに通過する、そうした人々の服装は、足元の靴は?手荷物はどんなふうに持ち歩いているかを見るのと、たまたま駐車違反をした車がクレーン車で運ばれていったがほんの数分の出来事だ。どこも同じだがこうした現実に触れることで、ニュースの受け止め方が違ってくるのだ。庶民の食べ物を食べ、庶民の中で生活をしてみる。地下鉄に乗ると改札口を飛び超えて行く不正乗車のお客は結構いる。ひどいのは出口専用のところから、出てくる人があると空く瞬間を捕らえてす~と入ってくるので、うかうかして出口を出るとこうした人に正面衝突されかねない。こうしたなんでもない社会の断面を見たいのだ。それにはその土地にかなりの期間滞在しないとその雰囲気はつかめない。そんなわけで一都市にかなり長いこと滞在するはめになる。私の海外旅行はこんなスタイルが多い。
私の住んでいるとkろからそう離れていないところに”光の森”と言う新しい団地土地があり、新興都市だけに大ショッピングセンターがあり、買い物、食事をするにも便利で、また映画館街もあり、ここで一日たっぷり過ごせるので我が町の人たちもわざわざここへ車で出掛ける人が多い。世の中不況だと言うがどうしてどうして土曜、日曜などは買い物客で賑わい、レストラン街も家族連れで満員だ。昔の不況時代と言われた頃と比べると何処が不況?と思うほど人々の服装も派手だし、金周りが悪いとは思えない。不況の姿がまるで違うのだ。しかし、世の中自殺者が増える傾向にあり、どん底生活を強いられている人は確実に増えているのにそれが見えてこない社会になっているところに問題があると思う。よく「先な見えない・・・」と言うがこれだ。全てのものがあいあまいのまま通りすぎてゆく、実態が見えない世の中になっている。また見せないように仕向けているともいえないか?恐ろしい世の中だ。
2009.06.07
平成7年にRKKラジオの番組が終了と同時に海外旅行と言うか取材にどんどん出掛けた。途中KBCラジオの仕事を1年半くらいやったが。平成10年の3月までの間にソウルへ4~5回、ハワイ3~4回、プザン2~3回、台湾2~3回、パリ、ロスアンゼルス、スイス、ラスベガス、サンフランシスコ、ラスベガス、ニューヨーク、カナダ、ローマ、ロンドンなどなど、時間の許す限り自分の足で廻る事の大切さを身にしみて感じていたので、いろいろな人に会い、現地の空気を吸うだけで勉強になる。我我の職業は単に知るだけでは不安で、出来るだけ生のその国、そこの人々と接する機会を持ちたいと思うようになり、肩書き、偉い人などばかりでなく一般庶民の生活を知りたいのでこうして出掛けるようにしている。したがって観光はほとんどしていない。例えばスイスでも市内電車(路面電車・低床電車)の姿、活躍の様子、利用する人の実態を見たくて出掛けた。ラスベガスも新しいストリップ通りの実態ではなく、発祥の地、古いラスベガス、これが寂れてしまったので、その復興にとギャンブル街のアーケードの天井をスクリーンにしてお客を呼ぶ作戦で改造したのだが、泊まる客はあいかわらず新しいホテルの方に泊まり、観光バスでここに通うので下町のホテルは繁盛していない実態、しかしニュースでは観光客は増えたという、見学する客は増えたが、下町経済は決して潤っていない、これがニュースの実態なので、それを補うためにはどうしても現地の生の姿を自分の目で確かめたいのだ。それにはかないの費用がかかるが受身だけの生活ではこの仕事は出来ないと思いこれからも遊びをかねていろんなところへ出掛けてゆこうと思う。
大体世の中の男どもは花の名前をほとんど知らないと言う人が多いと思うが、私もその一人、その私がひょんな事から花好きと言うか、植物好きの人とめぐり合う機会があり、花に興味を持つようになった。先日も日陰に咲くドクダミの花を暗闇に中を懐中電灯を照らして見るなど改めてこうした花を見る機会が増えるたびにそそられる。特にドクダミは草取りの時などにもいっしょにもぎ取ってしまう草花なので、その時になんとも言えない臭いで顔をそむけたくなるが、勉強のためにその花を取ってもらい電燈の下で改めて眺めると、葉っぱはハート形で、白い可憐な花、その臭いと言うか、香りは妖艶な香りで日陰になんとも言えない雰囲気をただよわせている、いいものだ。花との対話が少し出来るようになった自分をうれしく思う。
2009.06.06
またまた平成7年6月で地元、RKKラジオの「こちら九州ラジオ村」を落第?し、その年の10月に福岡・KBCラジオに拾われ、ワイド番組の一つのコーナーとして「ゲタを鳴らして小松が行く」と言うレポート番組をやることになった。RKK時代と同じくゲタを鳴らして福岡県内を歩き廻るという番組だ。携帯電話を持ってその時の気分で何処に出没するかわからない、全くのこちらまかせのコーナーなのだ。週に5回、つまり5箇所まわるのだから結構きつい。勿論生放送、電波の状態が良いところを選んで訪問するわけだが、なにしろ土地勘がまだあまりなかったので、地名の名前を読み違えることが多々あったり、てんやわんやの放送だった。しかしこのお陰で福岡県内をくまなく廻ることが出来勉強になった。これがきっかけで平成8年4月からKBCラジオで「朝はラジオいろ」と言う早朝番組をやらせてもらうようになったのだ。昨日も書いたがなにしろ早朝番組なので、生放送とはいかず録音放送でのスタートだった。早朝の聴取者を開拓せねばと言う使命のもとの開拓番組だったが、録音番組では迫力、緊張感に欠けるので思うようにはゆかず苦戦の連続だった。残念ながら平成9年の4月第一週で終了してしまったしかし私にとっては貴重な体験だった。放送中にも熊本からの聴取者の方々が結構聞いてくださり、電波と言うのは県境を越えて届いていることを改めて確認した。
相変わらずエンピツを使っているので私の指には”ペンだこ”が出来ている。一日にどれくらい文字を書くだろうか・・・、今は主に2Bと言うエンピツを使っているが、かつて新聞のコラムなどを書いていたころ、原稿を新聞社に届けに行って、記者のデスクのエンピツを借りたと気のkとだ、そのエンピツのなんと書きやすいことか!市販のエンピツでいうと2Bと3Bの間でこんなに書きやすいエンピツが世も中にあるのかと思うほど書きやすいエンピツなのだ。当時記者にわがままを言ってそのエンピツを何本か分けてもらったものだ。それ以来私は2Bか3Bのエンピツを日常は使っている。
2009.06.04
平成7年6月にRKKラジオの「こちら九州ラジオ村」が終了して、福岡のKBCラジオに拾われて早朝の番組開拓と言うことで朝6時から7時までの番組を担当することになった。まだ労働組合の了解が得られないので、当然のことながら生放送は無理で録音で放送することになり『朝はラジオいろ」と言う番組をスタートさせた。ウイークデーの早朝番組で週5日の放送だ。したがって前半3本、後半2本と二回に分けて録音をして放送していた。福岡の右も左もわからないうちに始まったので、まずは熊本と同じように時間のある限り福岡県内を車で廻ることから始めた。なにしろラジオは相手が見えないので、いろいろな話を聞いてもどんなところかわからないと話がはずまない、したがっていろいろな人を訪ねて福岡県内を走り廻った。おいしい店あり、自分の山から切り出した木材だけで自分の家を建てた人のところとか、話の種になるところを探しては歩き廻った。残念なことにまだ朝の時間にラジオを聞くという習慣がなかったのと、私では役不足で、番組は盛り上がらず、一年で打ち切りと言うはめになった。わたくしには大都会は合わないと思い、今度は熊本県八代市のコミュニテイーFM局を手伝うことにした。まさにミニコミそのもの、狭い範囲に住む人を相手にする局だったので、これぞ私の得意とするところ、こまめに町を歩き廻るところから始めることにした。
ブラジル沖で飛行機が消息を絶つたと言う。どうしても空を飛んでいる以上こうした事故は起こり得る。私も良く飛行機は利用するがこうした事に遭遇する事はあり得るといつも思っている。もちろん航空会社は安全に万全をきしているが、どうにもならない場合があることはわかっているつもりだ。運としか言いようがない。われわれ人類は科学の発達で空を飛べるようになり、いろんなとk路に気軽に出掛けることが出来るようになり、その”便利さ”にとっぷりつかって生活をしている。だからこそたまには自分の周りをしっかりと見つめ、考える行動をすべきだと思っている。常に緊張していてはくたびれるが、点検、反省は必要ではないだろうか!
2009.06.03