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カテゴリ:陸上競技
丹野麻美選手(右から2番目)は400mにも出場へ 陸上競技の五輪代表が出揃い(女子の4×400mリレーのランクが13位となり,丹野選手 など4名が今日追加されました。)ーーーー合計40名,本番の五輪まであと一カ月となって きました。選手の方々の調整ぶりも気になりますが。 今回は,私の大学時代の今は亡き恩師(勝手に私が読んでいるだけですが)について書いてみ ました。 私は地元の大学(当時は一期校)を落ちて,ほとんど定年に近い父親でしたので,二期校はほ とんど安全牌という大学に入学しました。 高校生の時から陸上競技に興味がありましたが,同じクラス(工業化学)の学生が,全くの素 人で入部したと聞いて,グラウンドに足を運びました。 グラウンドといっても,こげ茶色の土でできており,雨が降ったりするとただの泥濘か,泥の 田んぼと化していました。 丁度,2年生の秋頃の始め頃でした。 練習しているのは4~5人で,走り高跳び,400mハードル,棒高跳び,長距離の方が2名 ほど熱心にしていました。 同級生のD君の紹介で,陸上部員の方とあいさつができ,見学させてもらい,何とか入部とな りました。 K先輩からハードルが少しなら ーーーー ということで跳び方,腕を振り上げ足の反対側 を出してバランスをとることも瞬間的にすることを教えてもらいました。 練習開始は,400mトラック2周のジョギング,準備体操~150mの流しーーーーと続き ました。 秋も深まった頃には,役員(主将,マネージャー,会計)改選の時が来ました。 そこで,2年生の中距離のY君,私,D君のそれぞれが主将,マネージャー,会計となりまし た。 マネージャーとなって初めての行事は,飲み会(当時はコンパ)で,食堂の前や一般の掲示板 に手製のビラを貼り,多くの学生が集まるように知らせたものでした。 顧問のK教授の研究室を訪問して,挨拶に伺いました。 先生はああとうなずかれ,何とか承諾していただきました。 後に,この先生が戦後間もない時期(練習グラウンドは?)に日本選手権を取られたのを知り ました。 当時の国立競技場での日本選手権を観戦にいき,そこでプログラムの優勝者の中に,先生に名 前が書いてあったのです。 戦前の昭和17年頃には高校のY先輩が学生時代に優勝しており,何かと縁がある種目だと思 いました。 3年生になると,4月に5大学の大会,8月に10大学の大会と国公立大学のグループでの試 合が目標になりました。 新入生の走り幅跳びのS君( 高校時代にIHに参加した )が来て,K先生がグラウンドに こられる回数がぐっと増えました。 いかにもコーチするのが嬉しそうで,おおらかな笑みを浮かべたお顔がいまでも脳裏に浮かび ます。 今回の大会は当番校にあたり,寄付金集めを数人で回りました。 グラウンド内も活気が出てきました。今度の1,2年生は個性派が多く,合宿での食欲,高い びきも想定外のものでした。 K先生が,プログラムの○○大学陸上競技 選手権大会ではオーバーではと。次回の当番大会からはなくなったようですが。 先生との直接のお話が聞けたのは,偶然地方の町での大会を観戦したときのことです。 小高い川の土手みたいな芝生席で日に焼けて,しわが寄っても,ほほえみを絶やさない顔が 「 いかにも存在感たっぷり 」の余裕と大きさをそばで感じたものでした。 なぜか陸上競技の話をさせてもらうつもりでしたが,自分の将来や目標について聞いていただ いた覚えがあります。 先生は,「 ほー 」とうなずかれました。けれども私はごく普通のことをしゃべったつもり なので,不思議な体験でした。 その時の先生の笑顔も,よく記憶しています。 また,確かに,先生のそばにいると言葉では表せられないような安心感がありました。 私が卒業し,10年近く後に,先生は退官されました。 私は業務があり,伺えなかったのは至極残念なことでした。 数年前に,喪中の葉書が届き,先生が逝去されたのを知りました。 ちょうど住所が変わり,連絡していなかったのは先生にも,キャプテンのY君にも申し訳なか ったと思っています。 母校のホームページを覗くと,綺麗な全天候トラック( 6レーン )が映っています。 私達の時代には想像もできないくらいです。 T大出身の監督さんがなぜか2名。女子マネが4名で,40~50名の部員を支えていま す。 これも以前では想像できないことでした。 いつかは,母校を訪れて旧交を温めてみたいと思いますが,いつになるやら解りません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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