危険度等高線は等距離線にあらず。反省を!
なぜか、原発からの中心円(等距離線)が等高線として危険度を表す表記として法定化されつつある。火事が発生したときには、その火力は無風の時にはほぼ中心からの距離に比例して影響度が計算されるが、「風力」「風向き」「地形」「気温」「湿気」「雨量」など多変量分析の結果を得なければ本当の危険度指標とはならない。しかし、政治的には、20KM圏が線引きされたが、それ以上の深刻な放射線量を示す区域が現れ、その部分は危険度が考慮され組み込まれている。実際の線引きは単なる円周を目安としながらも、現実は「線量の把握」が決め手ではなかろうか。19.5KMの境界すれすれの場所で、違反を覚悟の居住占有者が問題となっている。居住占有者は、高齢者であり、他所では長くは滞在できない精神的負担をもつ方だ。あと長くとも10年程度が余命であるとして、他所で暮らすと3年しか生きられない方に、それでも他所に移動するような命令を出すことが法治国家なのか。明日をもしれない程の病人に移動は禁物ではなかろうか。その場所の放射線を常に計量して危険な線量に達する直前まで居させるくらいの住民対策が取れないような国に棲まなくてはならないのか、とおもう。一番簡単な線引き方法だけが法治国家のとる合理的な政治的決着方法であるなら、そのような選択を賢明な我が国民は採りたくはないのではないか。もっと福祉国家として、手間はかかるが、心の通った国家を我々は求めてきたのではあるまいか。政治家なら本当の福祉国家を目指して奮闘して貰いたい。小さい政府、費用のかからない政府も福祉国家には必要だが、受ける国民の便益を忘れて貰っては元も子もない話なのだ。暗黒の幕末を切り開き、坂本龍馬たちの求めてきた理想を今一度思い起こそうではないか。