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今朝の『日経ビジネス』のメルマガから。
宋 文洲さんという方のコラムを、毎回楽しみに しているのですが、今回はぜひ、1人でも多くの 方に読んでいただきたく、ご紹介いたします。 『宋文洲の傍目八目 捨て子の少女の死と、脱・格差社会のもと』 本文からもリンクしますが、宋さんのブログにも 補足があります。 このコラムが、私の心に深く響いたのには、理由があって。 長くなってしまうのですが、オマケとして、そのことを 書いてみようと思います。 私の亡父は、旧満州の生まれです。 祖父が開拓団として満州に渡り、 その先で父は生まれたのです。 父が物心つく前に終戦を迎え、混乱する中国本土を 命からがら、2年かけて、日本に引き揚げてきました。 当時既に、祖父はシベリアに抑留されており 祖母は4人の子供を抱えて、まさに『必死の思い』で 日本に帰ってきたのです。 この当時のことを、当時5歳だった私の父は ほとんど覚えていません。 祖父の顔も、わからないそうです。 自分の子供の頃のことを、祖母に聞きたい思いも ありましたが、当時の思い出はあまりに辛く、 祖母は決して、引き揚げのことを、口にすることは ありません。 残念なことに、最近ではマスコミでの取扱いも 小さくなってしまいましたが、中国に取り残された 日本人孤児の方々が家族探しのために日本に帰国する 様子を、父はいつも、食い入るように見つめていました。 父にとっては、中国の養父母に育てられた方々の その姿が、そのまま自分にだぶっていたのだと思います。 そのとき、幼心に焼きついていた記憶として こんなことを話してくれました。 引き揚げの途中、「これ以上子供を連れてはいけない」と、 子供を手放す人も多かったのだそうです。 そんなとき、走り出す汽車の窓から差し出された 赤ちゃんを、中国の方が受け取る様を、 幾度も目にしたそうです。 もちろん、そこには、必ずしも善意だけではない目的も あったことでしょう。 それでも、見ず知らずの、そして、複雑な感情を抱いて いたであろう日本人の子供を、咄嗟に受け取り、 豊かとはいえない生活環境の中で、育てた人たちが 大勢いた、というところで、 自分は、中国という国はすごいと思うのだ というようなことを、父は話してくれたのでした。 父は、自分の生まれた土地を自分の目で見てみたい、 という思いから、生前2度、中国に行きました。 父の家があったあたりは、大きな貯水池になっていて、 水の底に沈んでいたそうです。 中国北部の、だいぶ不便な片田舎の村だそうですが、 村長さんはじめ、村中で歓待してくださったそうです。 いつか、祖母や兄弟と一緒に、もう一度中国に行くのが 父の夢だったようですが、 残念ながら実現することはありませんでした。 宗さんのコラムを読むたびに、私はいつも、 父と満州のことを思うのです。 何か結論があるとか、日中の関係が・・・などという 難しい話はおいておいて、引き揚げ後の父や、 ひいては、今の私がこうして生きてられるのも、 中国の方のおおらかな優しさのお陰もあるのだな、 と思うのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.01.25 11:09:19
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